1-6


「最近、翔兄は帰りが遅いです」


 家に帰ると、母のようなしかりつける文句を吐いてくる皐は、冷たい目で俺を見つめた。


「いろいろとやることがあるんだ、科学同好会は」


「……嘘ですね」


 皐はそう決めつけてくる。


「その心は?」


「だって、顔が疲れてません。忙しいのだったら、相応に疲れもたまって帰ってくるはずです。なんなら今の兄の顔は少し爽やかです。どこか疑わしいと思います」


 まあ、そう言われると返す言葉もない。なんせ、別に疲れているわけでも、科学同好会で忙しくしていたわけでもない。結局、今日もぼんやりと時間を過ごしただけでしかない。


 今となっては、別に家に早めに帰宅してもいいわけだが、なんとなく続けた四月からの放課後の習慣、もしくは時間感覚というものは適切にずれている。それが所以して、意識せずとも帰宅が遅くなってしまっているのだ。他意があるわけではない。


「別に、家に居づらいわけじゃないんだ。最近、学校がなんだかんだ楽しくてな」


「それなら、よかったです。晩御飯の支度を済ませているので、さっさと食べちゃってください」


 皐はそう言うと、早々に玄関から居間へと立ち去る。


 俺はそれを見届けると、靴を整えて、同じく居間へと歩いていった。





 彼女が敬語を使い始めてから、どれくらいが経つのだろう。俺は皐に関してを振り返っている。


 今日、ルトから聞いた話は、どこか俺の心に刺さるような気がした。


 皐は、妹だというのに、俺から適切な距離を置くように、いつだって敬語で話してくる。両親についてはそんな素振りを見せないのに、俺にはそう振舞ってくる。それをルト先輩の言葉のようにとらえるのなら、俺から踏み込まれたくない境界線があるような感じだ。


 居間ではほくほくとしている食事が用意されている。生姜焼きの匂いがする。キャベツの千切りの緑が視界に入った。テレビの音、喧噪ともいえるバラエティ番組の笑い声。どこか、それが鬱陶しく感じるのは何故なのだろう。


 台所には誰もいない。母は朝食を作り終えたら夜間まで仕事。父はしばらくすれば帰ってくるだろうが、俺たちが寝静まった頃合いにだろう。


 静けさが空間に浸ればいいのに、沈黙を誤魔化すようにテレビの音が鳴り響いている。喚起をしているベランダの戸口から風が吹いてカーテンが揺れる。その一つ一つの景色の揺らぎが、俺の心にざわめきを立てる。


 皐は、もう食事を済ませたようだった。適当にテレビ番組を眺めている。流しに置いてある、食事済みの食器が目に入った。俺は今日も一人で食べなければいけない。


 ……食べなければいけない? なんで、そんな他人のせいにするような思考が働いたのだろう。


 これは、俺が行ってしまった一つの行動の結末だろう。


 別に、早く帰る理由はないからと、なんとなくで遠ざけた家との距離感を知ろうとしなかった自分が原因の結果だろう。


 それならば、人のせいにすることは許されない。


 俺はテーブルに置いてある生姜焼きを眺めて、椅子に座る。


 いただきます、と皐に聞こえるかどうかわからない小声で言葉を吐いて、もう添えてあった箸に手を動かす。


 どこか、無味だ。こんなにも、生姜の香りが口を絆しているというのに。





『調子はどうすか』


 風呂に入った後に眺めたスマホの文面には、いつか見たようなメッセージが愛莉から入っていた。


『ポスターを作ることになった』


『ポスター?』


『科学同好会、勧誘の』


『翔也が科学に興味を持っているなんて知らなかった』


 俺もだよ、と返信をして画面を閉じる。途端に気が抜けて、俺はベッドに横たわる。


 脱力する感覚。自分自身疲れていないと思うし、皐自身も俺のことを疲れてなさそうだと言っていた。だからきっと、俺は疲れていないはずなのだ。


 だが、脱力感が身体を支配する。気が張っていたのかもしれない。無意識的に。無意識的にだからこそ、今の自分の脱力感を認識せずにはいられない。


 通知で携帯が震える。


 俺は画面を見ることが億劫になって、見ないふりをした。


 目を逸らすのは、俺の得意技だ。


 自分のしてきたこと、これからやろうとしていること。すべてに目を逸らしているからこそ、今の自分が存在する。


 だからきっと、この携帯に送られてきているであろうメッセージにも返信はしなくていい。


 目を逸らしているのだ。目を逸らしているのなら、それは認識をしていないのも同義だ。


 認識をしていないのなら、俺の中に通知は存在しない。


 そう理由をつけて、瞼を閉じる。


 今日も、夢は見れなさそうだった。

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