第4話 ブルーベリージャム
「あ」
エスカレーターに足を載せたとき、堀井比知彦【ひちひこ】は呟いた。
吹き抜けになっているショッピングモールの広々とした天井の、ほぼてっぺんに近い窓に女の姿が見える。
人がいるはずのない場所だ。クレーン車で運ばれない限り、登れない場所。
女は窓の棧に腰掛けてこちらを見ている。長い髪をした、痩せた女だ。
年齢は、よくわからない。薄い色のワンピースを着ている。
足元は、裸足。
女は空を見つめて、ただ座っていた。膝を揃えた足先が、ゆらりゆらりと揺れている。
どこかで見たような。
そう思ってから、堀井は首を振った。
いや、会ったことなどない。
こうして、見知らぬ人の姿が堀井には見えるときがある。見えているのは、いわゆる霊と呼ばれるものなのか、それともこちらの幻覚にすぎないのか、堀井自身にもよくわからない。
若い頃から、有り得ない場所に、見知らぬ人の姿が見えていた。絶対に人が上がっていけそうにない橋の欄干の上や、木の枝の先。道を歩いていて、信号機の上で横たわっている人の姿も目にした経験がある。
男性だったり女性だったり、高齢者と思える人もいれば、小さな子どもの場合もあった。
自分にはなぜそんなものが見えるのだろうと、社会人になる頃までは、結構悩んだ。ひそかに、霊能者と名乗る人物に話を聞きにいった憶えもある。三、四人会ってみた。
結果、答を出さないと決めた。前世にどうしたとか、数珠のようなものを買えば見えなくなるとか、納得できない解決法を提示されてうんざりした。
依頼、見えるがままにしている。
年を取るにつれて、見える回数は減ったが、定年を迎え、今の仕事を始めるようになってから、頻度は若干増した。といって、今の仕事に、この奇妙な現象が役に立っているわけではない。
「進んでください」
後ろから声をかけられて、
「すみません」
と、堀井はエスカレーターの階段を一段降りた。
顔を上げてもう一度目をやると、もう、女の姿はなかった。
堀井は待ち合わせの時計台の前へ向かっている。二階に行っていたのは、雑貨店を見ておいたのだった。雑貨店は、これから会う瀬田海斗【せたかいと】の妹、さなりが、頻繁に訪れていた場所だと聞いたからだ。
瀬田と待ち合わせた時計台は、モールの通路の中央広場にあった。時計台のまわりに、時計台を囲むようにベンチが置いてある。
瀬田は、まだ来ていないようだった。ベンチにいるのは、親子連ればかりだ。
堀井は空いたベンチに座って、瀬田を待つことにした。
モールの中は徐々に人が増え始めていた。土曜日の午前十一時過ぎ。七月の始め、まだ子どもたちは夏休みではないだろうから、人の出はそれほどでもない。
地方都市の郊外に、こうした大型施設が出来て、人の流れは変わっただろうと、堀井は思う。堀井も北陸の地方都市の出身だから、町の中心が、郊外へと移ってしまう過程は見てきた。田舎へ帰るたび、姉夫婦が車を出して近隣のショッピングモールへ連れて行ってくれる。食事や買い物。なんでもモールへ行くのだ。
時計を見た。待ち合わせの時間から、十五分は過ぎている。瀬田の姿は見当たらない。
まさか、すっぽかしじゃないだろうな。
それはないと思う。東京の堀井の事務所で、瀬田は依頼料として着手金の五万を支払ってくれたのだし、堀井だけで調査を開始するというのを、どうしても初めはここで会いたいと言ったのは瀬田のほうなのだから。
堀井は、東京の杉並区で小さな調査事務所を開いている。人探しが主な仕事だ。探偵事務所とは、あえて言っていない。『探偵』という言葉の響きに妙に胡散臭さを感じて好きになれないからだ。
浮気調査などは受けない。純粋に、人探しだけを請け負う。それを考えれば、探偵事務所のほうが当たっているかもしれないが。
定年退職して、新たに始めた仕事だ。あまり損得は考えず、好きにやっている。杉並の事務所は、自宅も兼ねているから経費はたいしてかからない。一人暮らしだから、生活費もたいしてかからない。妻はいるが、若年性痴呆症を患って施設にいる。週に一度は顔を見せに行っている。そのほかは、依頼された調査を、ぼちぼちと自分のペースでこなしている。
瀬田から依頼を受けたのは、たまたま、瀬田が仕事で堀井の事務所を訪れたからだった。二日前のことだ。
瀬田は、空調整備業者だ。エアコンの調子がおかしいと業者を頼んだところ、瀬田がやって来た。
堀井の事務所に来るまで、瀬田は捜索を依頼しようなどと思ってはいなかったようだ。妹が住む町の警察には、すでに捜索願を提出していたから、それ以上のことが兄としてできると思っていなかったのだろう。
エアコンの修理が終わり、代金を振り込む書類を受け取ったあと、礼を言って送り出そうとしたとき、瀬田は何やら言い忘れたことがあるかのように、玄関で立ち止まった。
「何か?」
堀井は声をかけずにはいられなかった。修理のために家の中に入ってから、言葉を交わしたのは挨拶だけで、始終黙々と仕事をする男だった。
「――ここって、探偵社事務所なんですか」
瀬田は俯いたまま訊いてきた。
「まあ、そんな感じですかね」
「探偵事務所っていうと、人探し」
「ええ。失踪した人を探すんです」
失踪という言葉に、瀬田はパッと顔を上げた。
だが、瀬田は、戸惑ったふうに視線を逸らし、そのまま、帰っていった。だから、その日の夜、瀬田から、仕事を頼みたいと連絡があったとき驚いた。
状況を聞いて、堀井は依頼を受けると決めた。瀬田には言わなかったが、ただの家出ではないと思ったからだ。きっと警察もそう思ったはず。といって、はっきりした事件性がないと、警察は動けない。
背中のリュックサックから、堀井はノートを取り出した。
二日前、瀬田が事務所を訪ねてきたとき、聞き取ってまとめたものだ。調査の段取りも書いてある。
今回依頼されたのは、瀬田海斗の妹、さなりの行方を探すことだ。さなりは、この町に暮らす二十八歳。瀬田は三十二歳と言っていたから、四歳下の妹だ。元中学校の
英語教師。住所は、町の中心部にあるマンション。そこでさなりは一人暮らしをしていた。出身は、瀬田の暮らす東京の町田だから、就職のためにこの町へ引っ越してきたのだろう。
さなりの行方がわからなくなったのは、二週間と二日前の、六月十七日。その日、瀬田が電話をしてもさなりは出ず、それから三日電話を待ったが連絡はなかったという。
瀬田とさなりは、特に仲の良い兄妹ではなかったらしい。だが、几帳面なさなりは、いままで着信を受けたあと、即日中に返信を寄越さないことはなかった。
瀬田が妹に電話をしたのは、半年ぶりだったという。二人の叔父が亡くなり、葬儀の知らせをするためだった。
電話がないことに不信に思った瀬田は、この町にやって来て、合鍵を使い妹の暮らすマンションの部屋の中に入った。都心から、車で高速を使って約四時間。仕事を終えてから向かったため、瀬田がさなりの部屋に着いたのは、夜の九時を回っていた。妹と連絡を取れなくなって、四日目の夜だったという。
「すみません」
聞き覚えのある声に、堀井は顔を上げた。
「道に迷っちゃいまして」
目の前に、瀬田が立っていた。グレーのTシャツにチノパン。作業着を脱いでも、あまり印象は変わらない。
「いや、構いません」
堀井は立ち上がった。瀬田がエスカレーターに向かう。
「二階の雑貨店です」
瀬田は前を向いたままぽそりと言う。
「実は、さっき外から見てきました」
堀井が告げると、
「俺も、昨日、見てきました」
と、応えて、瀬田は黙り込んでしまった。やっぱり無口な男だ。
雑貨店に着くと、瀬田は中へ入らないで、通路で立ち止まった。
堀井は瀬田を置いて、店の中に入った。今日、瀬田から事前に送られたさなりの写真を持っている。店員に写真を見せて、さなりのことを尋ねてみるつもりだった。
この雑貨店から調査を始めて欲しいと言ったのは、瀬田だった。妹の部屋で行き先の手がかりを探した瀬田は、ゴミ箱の中から買い物のレシートを見つけた。いちばん日付が新しいのが、この雑貨店のレシートだった。
今、堀井のノートには、そのレシートが貼り付けてある。几帳面だったというさなりらしく、捨てられたものなのに、きれいに折りたたまれていた。レシートには、二本の線がきっちり付いている。
商品の整理をする店員に声をかけ、さなりの写真を見せた。店員は若い女の子だった。はじめは不審そうに目を見開いていたが、事情を話すと丁寧に答えてくれた。だが、彼女は、さなりのことを憶えていなかった。彼女がシフトに入るのは、大抵早番で、午後五時までだという。しかも平日のみ。さなりがこの店へ寄るとすれば、夕方か、もしくは日曜祭日だっただろう。さなりは二か月前まで、この町の中学校で教師をしていた。ただ、レシートに記された時間は、午前中だったため、訊いてみるのも無駄ではないかと思った。
堀井が声をかけた店員は親切に、ほかの店員二人にも訊いてくれたが進展はなかった。こうして話をしている間にも、客足が途絶えない。人気のある店なのだろう。しかも、堀井にすれば、見分けがつかないほど、似たような女性ばかりだ。余程特徴がない限り、店員は客の顔を憶えられないのかもしれない。
「なかなか難しいですね」
店から出て来て瀬田に告げると、瀬田はかすかに頷いた。
ショッピングモールからさなりのマンションまで、瀬田の車で向かうことになった。
初めて訪れた町だったが、どこかで見たかのような既視感があった。シャッター通りとなっている駅前の商店街も、そこから伸びる道沿いに建つ真新しい家々も、地方都市でどこでも見かける風景だ。
街路樹のセミの声が、車の窓を閉めていても聞こえてくる。
商店街から、ほんの数分走ると、さなりが住むマンションが見えてきた。
「四階です」
瀬田は車を降りると、そう言って先に立った。堀井は、茶色い六階建てのマンションを見上げた。割合新しいマンションだ。しっかりした造りのようで、マンションを囲う植木の手入れもなされていた。
一階で管理人に挨拶をしようとしたが、管理人は不在だった。ご用のある方はこちらまでと、電話番号が書かれたメモが、管理人室の窓に貼り付けてあった。管理人は常駐ではないようだ。
四階までエレベーターで上がり、さなりの部屋へ着いた。
六畳一間のワンルームだった。部屋は短い廊下の先にあり、廊下の片側に、小さなキッチンとバス・トイレがある。
玄関から正面が窓に面しており、光が差し込んでいた。瀬田に続いて、部屋に上がる。
すっきりとした部屋だった。壁に沿ってシングルベッドが置かれている。部屋の真ん中に、白い二人掛けのテーブルと椅子。狭いはずなのに、息苦しさは感じなかった。テーブルといい、カーテンのベージュ色といい、シンプルなインテリアでまとめてあるせいかもしれない。
ベッド脇には、抽斗の付いた細い本棚があり、その前に、小さな鉢の観葉植物がある。丸い葉がしおれて、端のほうが縮んでしまっている。その上には、ポールが張られ、洗濯物が干されているかのように、服が吊り下げられていた。これをクローゼット代わりにしていたようだ。
「ここんとこ、自分が寝泊りしたんで散らかってますが」
瀬田はそう言って、ベッドの上で丸まったタオルケットをたたみ、エアコンを付けた。狭い部屋はすぐに冷気に包まれた。
うながされて、堀井は、テーブルの椅子に座った。テーブルの上には、パソコンとスマートフォン。
「これ、さなりの物です」
「スマートフォンもですか」
堀井の問いに、瀬田は思いつめた目で頷いた。
「そうです。置いてあったんですよ。自分が電話しても出ないはずで」
自分から故意に姿を消しているのなら、スマートフォンを置いていかないだろう。
これはただの失踪じゃない。堀井は確信を持ったが、黙ったままスマートフォンに手を延ばした。
「見てもかまいませんか」
「ロックされてて」
手に取ってみると、瀬田が言ったとおりだった。さなりのスマートフォンは、パスワードを入力し解除するタイプだった。
「パスワードをご存知ないってことですね」
ふたたび瀬田が、思いつめた表情のまま頷く。
「誕生日を試してみたんですが、ダメで」
几帳面なさなりのことだ。どこかにパスワードがメモされているかもしれない。そう思った堀井は、本棚に付いた抽斗の中を探ってみた。
抽斗の中もきちんと整頓されていた。箱で中身が二つに仕切られている。片側には、通帳や手帳。もう一方には、手帳や写真があった。
手帳を手に取り、ぱらぱらとめくってみた。手帳は全部で三冊。昨年のものだけを手に取り、じっくりと中身に目を凝らす。
裏表紙の端っこに、小さくメモ書きされている文字があった。Yuuki0703。
「ゆうきって名前に心当たりはありますか」
瀬田を振り返ると、窓際で呆然と立ち尽くした瀬田が、今、目が覚めたかのように目を見開いた。
「多分、あれじゃないかな」
見開いた目のまま、瀬田は言う。
「今野ゆうきっていうタレントがいるじゃないですか。さなりは学生時代、そのタレントのファンクラブに入ってたから」
「0703というのは」
「えーと」
瀬田はぼんやりとした表情で首を傾げ、
「あいつの誕生日かもしれません」
「かもしれませんって、妹さんの誕生日を憶えてないんですか」
堀井は憮然としてパソコンに向き直った。
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