第3話 ストロベリージャム 3
いつもの舌打ちがかすかに響いて、季依は逃げ出したくなる。
「こんなこと、お伝えするのはどうかなって、迷ったんですけど、実は」
心持ち、季依は胸を張った。自分は正しいことをしようとしているのだ。
「あ、それ」
岡野の視線は、季依が下げていたハンドバッグに注がれている。訝しげな目だ。わずかに、眉間に皺が寄っている。
なんだろう。季依は視線を落とした。
「あ」
思わず叫んでしまい、その途端、首筋がカッと熱くなった。
「それ、オバジの美容液だよね」
返事が出来なかった。今日、季依は箱型のベージュのハンドバッグを下げていた。口が大きく開くタイプで、貴重品は中にあるチャックがついた小袋に入れられる。ハンドバッグ全体の口はいつも開いていて、ハンカチやブラシが無造作に入れられている。
そこに、オバジの美容液があった。四角い箱が斜めになってハンカチの上に転がっている。封が解かれていない。
「見せてもらってもいいかな」
岡野の声が冷たく響く。売り場では、購入した商品には、店のロゴが印刷されたテープを貼る決まりになっている。社員やアルバイトが購入しても、扱いは同じだ。
「テープが貼られてない、ね」
「あの、これは……」
あうるだ。さっき近づいてきたとき入れたのだ。だが、証拠はない。
「払うつもりだったんでしょ?」
「え?」
「そう。払うつもりだったんだよね?」
言葉が出てこなかった。払うつもりでしたと言えば、盗ったと認めてしまう。といって、違うと言えば、このまま盗ってくのと言われるだろう。
ポンと、肩を叩かれた。
「手違いだよ、気にしないで」
「え」
「明日、払ってくれればいいから」
「……」
自分でも情けないが、鼻の奥がツンとなって、目に涙が浮かんできた。いやだ、泣くんじゃない。ここで泣くなんて、まるで自分の万引きを認めているようなものだ。
さあと、岡野の手が肩に触れた。
「僕は、殿村さんには長く勤めてもらいたいと思ってるんですよ」
出口に押されながら、進む。
「こんなの、大したことじゃない。ちょっとした行き違いなんだ」
待ってください、そうじゃないんです。
そう言おうとすると、岡野は勝ち誇ったような笑顔になった。部下を庇う、出来た上司のつもりなのだろうか。
「えっと、明日は」
建物の外へ出ると、岡野は笑顔のまま、続けた。
「早番のシフトでしたっけ?」
かろうじて、頷く。
「明日も元気に出勤してくださいよ」
踵を返し、建物の脇を通って表通りへ向かう岡野を、季依は呆然と見つめた。
あうるは手強い。自分などが太刀打ちできる相手じゃないのだ。
怒りは消え、いいようのない疲れを感じた。
岡野が去っていた従業員用の外通路は、巨大なモールの建物が広げた影にすっぽり包まれていた。
✩
高級な化粧品というのは、やっぱりそれなりに効果があるのかもしれない。
翌日、岡野に言われたように、美容液の代金を払った季依は、使わないのも腹立たしく、その日から肌に塗った。二万円も出したのだから、ほんのちょっぴりずつではあったが。
伸びがよく、ベタつかない。宣伝文句にあるとおりだった。美容液の前につける化粧水も、あとに塗る下地クリームも安物だが、高級美容液のおかげで、なんとなくファンデーションまで使い心地が上がったように思えた。
「なんだか、殿村さん、肌がきれいになったみたい」
使って数日目に、アルバイトの女の子に、そう言われた。誰にでも調子のいいことを言う女の子の吐いたセリフだったから、
「そお?」
と聞き流したが、処方箋コーナーに毎日のようにやって来るおばあちゃんから、
「あんた、変わったねえ」
と言われて、ちょっと本気にした。
「目が大きくなったんじゃないの」
おばあちゃんに言われるまでもなく、季依自身感じていたのだ。美容液を目元にたっぷり塗り始めてから、たしかに目がくっきりとしてきた。季依の目は、一重瞼だ。線を引いたような目。好意的に見てくれる相手からは、涼しげな目だと言われたこともあるが、基本的にあまり人から好感を持たれる目ではないと思っている。ぼんやりしているときなど、意地悪そうに見えるのだ。多分、大きくて愛らしい目を持つあうるのほうが、人から相談を持ちかけられたり、頼られたりする機会が多いんじゃないか。
人は見た目じゃないのに。
だが、三十一にもなって、そんな考えが通用するとは思っていない。ただ、心の片隅に、あうるのような目への憧れはある。アイプチを使ったって、季依の目はあんなふうにはならない。
ところが、美容液によって、目のまわりの潤いが増したせいだろうか。細いなりに、なんとなくくっきりしてきた気がするのだ。
こんなに効果があるのなら、もっと早く使えばよかった。
いままでは、掌半分ほどの容量の美容液に二万円を払うという選択肢はなかった。同居している母だって、使った経験はないだろう。そんな余裕のある暮らしではなかった。
もし、あうるがこっそりハンドバッグに入れなければ、多分、一生、使わなかっただろうと思う。
化粧水やファンデーションにも、やはり大きな違いがあるのだろうか。
最近、季依は、高級化粧品が気になって仕方がない。
といって、二万円をつぎ込んだばかりだ。そう矢継ぎ早に、買うわけにはいかない。
「これ」
そう言って、あうるに一万二千円の下地クリームを手渡されたのは、次の給料日に、別のブランドの高額化粧品を買おうか迷っていたときだった。
「最近、殿村さん、きれいになったって評判なのよ」
あうるはずるそうな含み笑いをして、ささやいた。遅めに取った休憩のときだった。休憩室へ入ってきたあうるは、横へ座り、そっと下地クリームを季依の腿の上に置いたのだ。テーブルに隠れて、季依の腿の上に何が置かれたのか誰にもわからなかっただろう。
「どういうこと?」
季依は目を剥いた。
「殿村さんに、もっときれいになってもらいたいのよぉ」
わざとだかなんだか知らないが、舌っ足らずな言い方をして、あうるは笑顔を深くする。
膝の上をそっと覗くと、欲しいと思っていた下地クリームだった。
「もらえないわ」
「どうして」
「だって」
盗んだものでしょう? 購入の証拠のテープが貼られていない。
「殿村さんには、日頃からいろいろお世話になっているから、そのお礼ね」
「お世話?」
嫌な感じがした。一度、万引きを見逃したことを言っているのかもしれない。
「効果抜群よ、これ」
あうるはそう言うと、さっと立ち上がって売り場へ戻ってしまった。
残された腿の上の重みが、季依を圧迫した。どうすればいいのかわからなかった。いや、すぐさまあうるを呼び止めて、売り場に返してきてと言うべきだ。
それなのに、季依はできなかった。あうるの勢いに圧倒されたわけじゃない。嬉しさが勝ったから。欲しかった下地クリームだったから。
季依が受け取ったことに味をしめたのか、それから数回、あうるは様々な高級化粧品を持ってきた。ファンデーションと口紅。ナイトクリームとコンシーラー。金額にすれば、合計十万ほどになった。あうるは、売り場にある一番高価な化粧品を選んでいるようだ。
手渡されるのは、休憩時間ばかりではなかった。季依が一人でいるときを巧みに狙って、さりげなく渡される。
数日後、アルバイトの女の子から、ふたたび賞賛を浴びた。もちろん、処方箋コーナーにやって来るおばあちゃんも褒めてくれた。
季依は、うしろめたさを感じなくなった。そもそも、自分が盗んだものなど一つもない。もらったものなのだ。季依は無理矢理そう思うことにした。
✩
容姿に自信が出てくると、態度も自ずから変わってくるものなのかもしれない。
薬の説明をするとき、以前は、患者さんの目を見て話すのが苦手だった。間違ったことは言わないし、言うべきことはちゃんと伝えていると自負していたが、患者さんの反応はイマイチだった。
体に関する大事な注意事項を告げても、手応えを感じなかった。
ところが、容姿に自信がついてから、患者さんに、
「ありがとう」
と言われる回数が増えた。薬に関する注意事項が、しっかり伝わったという理由だった。薬剤師として、この店に存在する意味があると実感できた。
初めてあうるからもらった美容液が、なくなり始めた。
高級化粧品にそれほど効果を感じたのなら、自分でお金を出して買うべきだ。季依はそう思う。だが、美容液が置かれている棚の前を通るたび、その値段が目に飛び込んできて購買意欲が萎えてしまう。
最後の一滴を絞り出して使い果たした翌日、タイミング良く、あうるがまた接近してきた。その日、めずらしく、季依は朝いちばんのシフトに入っていた。
朝いちばんといっても、モールの営業時間は十時からで、以前勤めていた病院の早朝シフトに比べれば楽なものだ。
普段、季依は駅前からバスに乗ってモールまでやって来るが、その日は、車で出社した。モールには、従業員専用の駐車場があり、ほんとうなら車通勤のほうが便利なのだが、季依はバスを選んでいた。運転が好きじゃないのだ。動揺すると、てきめんにハンドルさばきに影響してしまう。事故を起こすくらいなら、ちょっとした不便は我慢しようと思っていた。
駐車場は広かった。アスファルトが日に照らされて光っている。眩しかったが、吹く風が、ほんの少し秋めいていた。そろそろ九月になろうとしている。
従業員用の駐車場は、お客様用駐車場からずっと奥の、田んぼとの柵に近い場所にあった。柵のこちら側には、桜が数本植えてある。
車を止めて、歩き出したとき、一台の車が駐車場へ入るのが見えた。赤い軽自動車だ。
あうるだ。
気づいたのは、季依のほうが早かった。ハンドルを握っているあうるは、普段より心持ち陰鬱な表情で運転に集中している。
助手席に誰か乗せているとわかったのは、あうるの車が数メートル先に近づいたときだった。知らない顔の男性が、目を閉じて座っていた。金色に染めた髪と、ペンキで塗られたような真っ黄色のTシャツ。ちょっとやさぐれた感じがする。
この時間だ。付き合っている男なのかもしれない。
季依はさりげなく目を逸らした。職場では、
「いい人がいたら紹介してくださいねー」
などと口にしているあうるが、ほんとうは付き合っている男がいようと、関係ない。それが、どんな男であろうと興味もなかった。
車が近づいてきた。
「おはようございます」
窓を下ろして、あうるが挨拶を寄越した。隣にいる男のことなど気にしていないようだ。
「おはようございます」
笑顔は返せなかったが、季依はあたりさわりのない表情で応えられたと思う。助手席の男は薄目を開けて、ちらりとこちらを一瞥したが、何も言わなかった。
そのまま行き過ぎようとした季依を、あうるが呼んだ。
「殿村さん、ちょっと待って」
振り返ると、あうるは後部座席に身を乗り出していた。代わりに、助手席の男が、目を開いて季依を見つめている。探るような目つきだ。
「ね、これ」
前に向き直ったあうるが手にしていたのは、小さなビニール袋だった。あうるは窓越しに、ビニール袋を寄越してきた。
きっと、化粧品だ。
ドキンと、胸が震えた。
といって、差し出された袋を返せなかった。決められた動作のように、ふわりと自分の腕が伸びるのを、季依は他人事のように感じた。
掴んでみると、ビニール袋は心なしか重かった。
「ジャムなの、イチゴジャム」
「え?」
季依は袋の中を覗いた。透明な瓶があった。中身のもったりした赤色が透けて見える。ジャムなのだ。あうるが言うように、イチゴジャム。
美容液だと期待していた自分のあさましさに、うんざりした。
「作ったのよ。食べてみてね」
瓶は、以前、昼休憩のときに、あうるが雑貨店で買った瓶だった。いや、季依が貸した金で買った瓶だ。あまり上手じゃないイチゴのイラストを憶えている。
そういえば、あのとき、ジャムを作るのが趣味だと言っていたような。
ほんとうだったのだ。
「すっごく甘いから。スイーツ代わりに食べて」
「あ、ありがとう」
この瓶の代金、返してね。そう言いたい気持ちは、もうとっくになくしていた。化粧品をもらうたび、瓶の代金など返してもらうわけにはいかないと、かえってこちらが借りを作った立場になっている。
「冷蔵庫に保管してくださいねー」
陽気な声で言い、あうるは窓を上げた。
車は駐車するために、方向転換を始める。
季依は瓶が入った袋を、車に置きにいった。
袋を入れてドアを閉めたとき、助手席の男とあうるが、車の前でキスしているのが目に入った。
見てはいけないものを見てしまった気がした。
✩
結局、季依は新しい美容液を買わなかった。どう考えても高価すぎたし、あまり聞きたくない噂が耳に入ってきたからだった。あうるに関する噂だった。
美容液自体に罪はないが、あうるにもらった銘柄であると思うと、手に取る気にはなれなかった。
流れた噂は、そう目新しいものではなかったようだ。知らされて驚いた季依を、去年から続いている、あうるの次に長いアルバイトの女の子はかえって驚いた。
「転売?」
つい声が大きくなってしまい、季依は慌てて口を抑えた。
雨の降りが激しくて、店内に客の姿はなかった。モールの通路にも、思い出したようにしか人が通らない。
暇を予想したように、ドラッグ部門でアルバイト二人が休み、季依は急遽ドラッグ部門のレジに呼ばれていた。二人のうち一人は、あうるだった。
「知らないの、殿村さんぐらいじゃないですか。結構、みんな気づいてますよ」
「……そんな」
「メルカリやヤフーで売ってるらしいですよ。いかにも封は開けたけど、気に入らなかったみたいに見せかけて」
知らなかった。ほんとうに知らなかった。でも、なんとなく予想はしていたのだ。自分で使うつもりで盗んでいるのではないと。
ふいに、あうるからもらったイチゴジャムの味が、口の中に広がった。もらってすぐに、季依は食べてみたのだ。ジャムは、あうるが言ったとおり、甘すぎた。人工的なほど。人工的というよりは、嘘があるみたいな甘さだった。
「付き合ってる男が悪いんですよね。カレシもそういうの専門でやってるセコい男みたいで」
つい最近、駐車場で見かけた助手席の男が思い出された。あうるが、
「殿村さん、ちょっと待って」
と名前を呼んだとき、それまで季依を無視していた男が、こちらを観察するような視線を送ってきた。聞いていたのだ。あうるが万引きしたとき、見逃してくれた殿村季依という同僚のことを。それで、あんな目つきを寄越した。
この女、信用できるのか? 品定めをされたのかもしれない。
二の腕に鳥肌が立った。
「結構な稼ぎになってたみたいですよ。ここ、ゆるいじゃないですか」
彼女はそう言って、首を傾げ、店内を見渡した。
「店長がズブズブだから、あうるさんに。だから、あの人、やりたい放題」
岡野があうるを気に入っているのはほんとうかもしれないが、だからといって、アルバイトの万引きを見逃すとは思えない。
「誰も咎めないのね」
自分のことを棚に上げて、季依は言った。
「誰も現場を見たわけじゃないですからね。商品が減ってる棚を見て噂になってるだけで。お客さんに盗られたって言っちゃえば終わりじゃないですか」
現場を見たのは、自分だけかもしれない。そう思うと、良心が咎めた。でも、もう、遅い。告発されて、糾弾されたあうるが、
「殿村さんは知っていました」
そう言ったら、どうなるだろう。もう、この職場にはいられない。いや、資格だって剥奪されかねない。
目の前が真っ暗になった。
終業時間が近づいてきた。雨は激しさを増し、客足は増えなかった。
アルバイトの女の子と、分担して閉めの作業をした。レジ閉めを担当する彼女の代わりに、表に出された傘立てを片付ける。濡れた傘を入れるビニールの袋が取り付けてある箱型の傘立ては、両手で持ち上げなくてはならないほど思い。
持ち上げて店の中をバックヤードへ向かっているとき、前から顔色を失くした岡野がやって来た。
「S棚にあった箱がなくなってる!」
「え」
傘立てを抱えたまま、季依は棒立ちになった。
「知らない? 失くなってるんだよ」
「し、知りません」
嫌な予感がした。
「丸ごとだよ。全部失くなってる。上の段がさ」
S棚は、資生堂の在庫が置かれている棚だ。その中でも上の段に置かれているのは、店には空箱の見本だけを置く高価な品だ。
「おい、最後にあの棚の品出しをしたのは誰だよ」
レジ台に向かっていった岡野が、アルバイトの女の子に詰め寄った。
「わたし、昨日は休みでしたから」
「昨日の夜のシフトは」
女の子が、しゃがみこんで、レジ台の下からシフト表を取り出した。
「仙崎さんと小島さんと」
女の子が、昨日出勤したアルバイトの名前を告げる。フリーターの男の子と、アルバイトのおばさんだ。聞きながら、季依は胸を撫で下ろした。
昨日、あうるは出勤していない。あうるが関係していなければ、火の粉はこちらにも飛んでこない。
バックヤードの扉を開けようとしたとき、引き攣った岡野の声が聞こえてきた。仙崎に電話をかけているようだ。
「え? 知らない?――店を空けた時間なんかなかっただろうな? ええ? どういうことだよ!」
バックヤードに入ったせいで、岡野の声は聞こえなくなった。
傘立てを置いて、在庫棚に顔を向けた。岡野の言ったとおり、S棚の上の段が、引越しをされたみたいにきれいになくなっている。
何かの手違いだろう。
季依は思った。返品がされたのかもしれないし、別の店へ融通したのを、報告し忘れているのかもしれない。季依はドラッグストアの商品管理にくわしいわけではなかったから、それ以上の想像はできなかった。
季依は終業業務を続けた。アルバイトの女の子が、岡野とともに原因究明に当たっているせいで、仕事はたくさんあった。
✩
季依が思っていたよりも、事態は深刻だった。
翌日になって、プロによる窃盗事件であると判明したのだ。
真相は意外なところからもたらされた。
本部に報告し、指示を仰いだ岡野が警察に通報しようとした矢先、警察のほうから店に聞き込みにやって来たのだ。
警察官は、一枚の写真を持っていた。男の写真だった。窃盗団の主犯格の男だという。男が率いる窃盗団は、関東で家電品の窃盗を繰り返しているグループで、暴力団との関わりもあるらしい。
従業員が呼ばれて、業務を中断して写真を見た。処方箋カウンターにいた季依も、ドラッグストアにいたアルバイトたちと写真を見た。
金髪、さぐるような目つき。首から上の、証明写真みたいな写真で、雰囲気は違っていたが、間違いなかった。あうるの助手席に乗っていた男だ。
思わず息を飲んだとき、いっしょに見ていた女の子が、
「これ、あうるさんのカレシじゃないですか」
と、声を上げた。
その証言は、あうるが窃盗に関係していたと証明するに十分だった。岡野のほうでも、昨日、S棚から消えた商品について、あうるに疑いを持ち、本部へ連絡したばかりだった。昨日の事件と窃盗団がつながり、あうるへの疑いは真っ黒になった。
緊迫した中で、業務は続けられた。さりげなく業務をこなした季依だったが、動揺は隠し切れなかった。常連のおばあちゃんに、
「顔色が悪いけど、病気なんじゃないの」
と訊かれたり、社員からも、体調を心配された。
そのたび、無理矢理笑顔を作って大丈夫だと答えたが、ほんとうは帰りたかった。あうるの気配を感じる場所から逃げ出したい。
夕方になって、警察官がふたたびやって来た。
夕方までのシフトだった季依は、バックヤードで白衣を脱ぎかけたとき、岡野に止められた。
「ちょっと残ってもらえる?」
朝から緊張が取れない表情の岡野に言われ、季依は青ざめた。あうるが盗んでいた商品の行き先の一つに、自分の名前が上がったのではないだろうか。
ところが、残されたもう一人の早番のアルバイトのおばさんとともに訊かれたのは、あうるの所在だった。
「僕も連絡しているし、警察のほうでも探してるんだけど、いないんだよ、彼女」
バックヤードで、警察官を前に、岡野は言った。
「携帯にも出ないしね、警察がアパートにも行ってみたらしいんだけど」
「逃げたんじゃないですか」
アルバイトのおばさんが冷たく言い放った。
「まあ、そうなんだろうけどね。一応、君たちが彼女の行き先を知らないかと思って」
「知りませんよ。付き合いなんかないんだから」
おばさんは誇らしげに言う。
岡野と警察官の視線が、季依に向けられた。
「殿村さんは? ほかの人の話だと、ときどき親しそうに話していたって」
「わたしがですか?」
自分でも思いがけないほど、怒りのこもった声になった。
「わたしの業務は、あうるさんとほとんどかぶらないんです。話すことはありましたけど、あたりさわりのない、挨拶程度の会話しかした憶えはありません」
もし自分が警察官だったら、冷静に見えるが、小刻みに指先を動かしている者を疑っただろう。だが、警察官は、まだ若い新米の刑事のようだった。白衣を着た地味な薬剤師と窃盗団を結びつけなかった。むしろ、アルバイトのおばさんに、しつこく、
「ここでもちょこちょこ商品が盗まれていたようですが、気づきませんでしたか」
などど訊いている。
結果、従業員たちから、あうるの所在はわからなかったようだ。
それから一週間が過ぎ、窃盗事件については、あうるのカレシが捕まったという情報が入ってきただけで、依然あうるの行方はわからなかった。
うまく逃げたんだね。
店ではそう言われている。
あうるのカレシを尋問しても、手がかりはないようだった。
✩
窃盗事件が起きて一ヶ月が経っても、あうるの行方はわからないままだった。窃盗団の一味として、警察は依然行方を追っていたが、進展はないようだった。
そんな頃、季依は岡野から頼みごとをされた。あうるの住んでいたアパートの部屋に行って欲しいというのだ。
びっくりした。なぜ、自分があうるの部屋へ行く必要があるのか、皆目見当がつかなかったのだ。
「あうるのお母さんが来るんだ」
岡野はしんみりした口調で言った。
「いつまでも借りてるわけにはいかないから、整理に来るらしいんだけど、そのついでに、あうるの友達に会いたいらしくて」
「どうして、わたしを?」
大きな疑問だった。あうるとわたしは、友達と言える間柄ではなかったはずだ。
「彼女がさ、お母さんに話してたみたいなんだよ。職場で信頼できるのは、君だけだって」
言葉が出なかった。あうるはどういう意味でそんなことを言ったのか。
「だからさ、休みにしなくていいから、行ってきてくれる?」
そこまで言われて断るのも大人げないと思った。
「わかりました。いつ行けばいいですか」
「お母さんは、明後日、来るみたいなんだ。大阪から来るらしいよ」
あうるが関西出身だとは知らなかった。こんな小さな町だから、自分と同じように、近隣の市町村で育ったのだと思っていた。
だが、地元の人間ではないはずなのだ。地元の人間なら、自分が働いていた場所で盗みなんかしないだろう。
岡野が連絡を取ってくれて、お母さんとは直接あうるのアパートで会う段取りになった。
当日、季依は駅前でマロン味のフィナンシェを買った。新しい名物だと書かれていたから決めたのだが、このフィナンシェが名物なのは隣の大きな町で、ここではないと、買ってから気づいた。
それでも、お花を持っていくよりはいいだろうと思った。お花ではまるで死んだ人みたいだから。
あうるが死んでいるはずがない。うまく逃げおおせて、どこかでまた飄々と生きている気がする。
アパートはバス通りから少し脇道に入った、神社の近くにあった。新築の小ぶりの家が立ち並ぶ中にあって、割合きれいなアパートだった。そろそろ昼になる。残暑の日の光が、アパートの窓に当たって光っている。
二○四号室。呼び鈴を押すと、すぐに返事がした。
「すみませんねえ、こんなところまで」
初老の、痩せた女性がドアを開けてくれた。
季依は頭を下げ、名前を名乗った。
「さあ、どうぞ。わたしもさっき来たばかりで、ちらかったままなんですけど」
関西から来たという割には、言葉にアクセントがなかった。関西には、今、住んでいるだけなのかもしれない。そう思えるほど、六十代はじめと思われるあるうの母親は、身軽な感じがした。想像していたよりも若い風貌だったからかもしれない。長いストレートの茶がかった髪と、色落ちしたジーンズ。ドアの取っ手を掴んだ指先には、赤いマニキュアが塗られている。
うながされるまま、中へ入った。短い廊下の先に6畳のひと部屋。小さな流しがついていた。このあたりなら、五万もしない物件だろう。
部屋の中は涼しかった。エアコンの風の音が響いている。
「座ってください」
ベッドが置かれているせいで、座る場所などほとんどない。それでも、お母さんが薄いクッションを置いて場所を作ってくれた。
それにしても、散らかった部屋だった。いや、散らかったというのとはちょっと違う。
ここで食事を摂っていたのだろう。小さな丸テーブルがあり、その脇には、化粧品が入れられたプラスチックケース。蓋が開いている。
テーブルの上に、飲みかけの、多分コーヒーだろう。黒い液体が半分入ったマグカップと、封を開けたばかりらしく中身がほとんど減っていないクッキーが入った袋。
化粧品のケースの中には、ファンデーションや口紅などが無造作な感じで入っている。
違和感を覚えた。
あうるは逃げるにあたって、化粧品を持っていかなかったのだろうか。
あうるの、ぽってりとマスカラが塗られた大きな目が蘇る。
あうるのようなタイプは、一日でも化粧をしない日があるとは思えない。それとも、残していったのと同じだけ、別の化粧品を持っているのだろうか。
壁に沿って置かれている、ハンガーラックを眺めた。長さ一メートルほどのハンガーラックだ。びっしり服が掛けられている。
服の下にあるスーツケースに目が止まった。銀色の中型のスーツケース。あうるは手ぶらで逃げたのだろうか。それとも、荷物をまとめる間もなかったのだろうか。
そうなのかもしれない。
季依は、思った。
あうるが欠勤をした日に、警察官が店にやって来た。その前日、あうるは出勤していたのだから、慌てて逃げたと考えられる。
「こんなものしかなかったから」
お母さんが、丸テーブルの上のものをざっと横にどけて、紅茶を淹れてくれた。
「おかまいなく」
季依はそう言ってから、持ってきた菓子包を差し出した。
「すみません、わざわざ来てもらっといて」
ざっくばらんな話し方をする人だと思った。あうるも物怖じしないタイプだった。この母親に似たのかもしれない。
紅茶は、あまりおいしくなかった。二口ほど飲んで、テーブルに戻す。
お母さんはしゃべらなかった。仕方なく、もう一度紅茶を口に運ぶ。
「――しっかりした人だって、あうるから聞いてました」
「え?」
季依は顔を上げた。瞬間、何を言われているのかわからなかった。
「殿村さんは、ちゃんとした人だって、あうるが」
「そ、そんな。とんでもないです」
「あんまり、友人関係のことしゃべらない子だったんだけど、一ヶ月くらい前だったかな。職場の人とはうまくやってるのかと訊くと、殿村さんの名前が出て」
「はあ」
「ああ見えて、人付き合いがうまくなくて、それで、いつも悪い男に引っかかっちゃう。今回のことも、悪い男に利用されたんじゃないかと」
季依は頷いた。そう思いたい母親の気持ちはわかる。でも、果たしてそうだっただろうか。あうるが、アルバイトの高田さんをはじめ、気に入らないアルバイトをイジめていたのを思い出す。あうるは、確信を持って、あの店で万引きを繰り返していたんじゃないだろうか。その邪魔になる者を、イジめて追い出していたとしたら。
「まったく、どこを逃げ回ってるんだか」
続けてお母さんは、はーっと大きなため息をついた。
「ほんとは」
急に声のトーンが変わったので、季依は思わずお母さんの顔を見た。
「捕まってくれればいいいと思ってるんですよ。ちゃんと見つかって、警察に保護、いや、逮捕だよね、してもらえれば」
お母さんは両手で、額にかかった前髪をぎゅっと後ろに撫で付けた。
「捕まってくれたほうがいいんです。生きていてくれてるってことだから」
「え?」
「だってそうでしょう?」
お母さんは立ち上がり、
「見て」
と、流しの横にある小型の冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の中には、びっしりと食べ物が詰まっていた。その中から、お母さんは、小さな容器を取り出す。八の字のように、二つの円形の容器がくっついている。
「これ、見てちょうだい」
それは、カラーコンタクトが入った容器だった。中を見せられる。こげ茶色のコンタクトが二つ入っている。
「あの子が逃げてるとして、これを置いていくのがおかしいの」
あうるの茶がかった大きな目が蘇る。視線をお母さんに戻した。訴えるような目で、季依を見つめ返す。
「あの子、逃げているんじゃないと思う」
頷かずにはいられなかった。この部屋を眺め回したときから、季依もそう感じていた。あうるは、拉致されたかのようにこの部屋からいなくなっている。自分から、自分の意思で姿を消したとは思えない。
「でも、警察は」
季依は呟いた。
自分や母親が感じているのだ。警察だって同じように考えているんじゃないか。
お母さんは首を振った。
「言ってみたんだけどね、警察には。相手にもされなかった。それより、あうるの行き先を、あたしが知ってて隠してるんじゃないかみたいに言うの。窃盗団の男たちも、あうるの行方は知らないって言い張っているようだし、残るは母親だけだと思ってるんだろうけど」
お母さんがわずかに膝を寄せてきた。
「ね、殿村さん。あうるがなんか言ってなかった? なんか不吉なこと」
「不吉なこと?」
のけぞりながら、訊く。
「あの子のまわりで、なんか、変なことってなかった? そういうこと、言ってなかった?」
ふいに、あうるの不安げな表情が思い出された。仕事中の休憩時間のとき。休憩室がいっぱいで、建物の外にいたときだ。
――やあね、あの目つき
ゴミ収集をする作業員を見て、そう言っていた。
――怖いの、あたし
あのときは、借りた金の話をごまかそうとして、突飛な作り話をしたと思った。
――なんだか最近ね、見られてる気がするの
あのときのあうるの表情。あうるは、ほんとうに誰かに怯えていたんだろうか。
お母さんは、掌でコンタクトの容器を、撫でた。まるで、娘の体を撫でるように。
「なんだかねえ、もう、会えないような気がちゃって」
「そんな」
「警察は、本気で探す気はないんだよね。こんなチンケな窃盗事件の一味の一人がどうなろうと、どうだっていいんだと思う。世の中では、毎日もっと大きな事件が起きてるんだから」
お母さんはすっと立ち上がった。
そのまま、流しに体を向ける。
振り返ったとき、見覚えのある瓶を手にしていた。イチゴの柄のついた、空の硝子瓶。
「今日、来てもらったのは、殿村さんになんかもらってもらおうと思って」
形見みたいな言い方をする。
「そんな。あうるさん、きっと戻ってきますよ」
季依の胸いっぱいに、いいようのない不安がこみ上げてきた。ほんとうに、あうるに二度と会えない気がする。
手渡された瓶は、あうるがモールの雑貨店で買ったものだ。以前、季依はあうるの手作りのジャムをもらった。この瓶に入っていた。
「つまんないものだけど、もらってくれる?」
「ありがとうございます」
あうるは、ふたたびこの瓶に、ジャムを入れることがあるのだろうか。
季依は、透明な瓶を、じっと見つめた。
ストロベリージャム 了
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