第19話
「…せい、先生ってば!」
テキストを見ながらボーッとしていた純はハッと我に返った。
「ごめんごめん、どうした?分からない所でもあっ
た?」
と慌てて生徒に聞いてみる。
そうだ、今は家教の最中だった…集中しないと…
心の中で自分に喝を入れると、机の上のノートを覗き込んだ。
「先生、最近おかしいよ?前回の時もボーッとして
る事が多かったし、今日も何回呼んでも気が付か
ないしさぁ。何かあったの?」
「いや、何でもないよ。気が付かなくてごめんな。
で、どこが分からない?」
「ほんとに大丈夫?何でもないならいいけど。それ
でね、ここの問題が分からないんだけど」
「あぁ、ここはこの公式をここのXに代入して…」
小町を追い出した翌日、柚花に小町がしてしまった事を全て話し頭を下げ謝罪した。
頭を下げて謝る純に、柚花は笑って許してくれた。
「いいよ、斉藤君。神田君と別れた事と小町さんが
した事は関係ないわ。私に男を見る目が無かった
だけ。それに恋なんていつでも出来るわよ、だっ
てまだ若いんだもん!私、小町さんのこと好きだ
なぁ。やる事はムチャクチャだけど、何でも一生
懸命って感じで何か憎めない人なのよねぇ、小町
さんって…。だから小町さんを責める気なんて全
然ないよ」
そう言ってくれた柚花だが、純の心の中は感謝と罪悪感で複雑な気持ちでいっぱいだった。
しかし小町を追い出して2週間、最初の2.3日は清々した気分だったが、つい2人分の買い物をしたり食事を作ってしまったりと日が経つにつれ純は心にぽっかり穴が開いた感じがしていつの間にか上の空になってしまう時が増えてしまった。大学ではボーッとしている純の姿を初めて見た友人達が口々に
「何かあったのか?悩みや相談があるならいつでも
聞くぞ」
と心配し、コンビニのバイトでも以前の純なら絶対しない失敗を繰り返し、気付けばボーッと上の空の純の姿にパートのおばさん達や後輩達全員が驚き悲しみと共に心配になり店長を責めた。スタッフルームでは連日、バイトが休みなはずの後輩まで集まって秘密の相談会議が行われていた。
「最近の斉藤さん、マジおかしいっすよ!この間な
んかポテトチップの棚にカップラーメン並べてま
したもんっ」
「あら、昨日はペットボトルをアイスボックスに入
れようとしてたわよ。一体、斉藤君どうしちゃっ
たのかしらねぇ…」
「あんな斉藤さんなんて、俺の尊敬してるアニキじ
ゃないっす!」
「あぁ、見てられない…。前の斉藤さんよカムバー
ク!!!」
「元はといえば店長が斉藤君になんだかんだと頼み
過ぎてるのがいけないのよ」
「そうよ、店長が悪いわっ」
「店長、斉藤さんに訳を聞いてきて下さいよ」
《店長!!!》
店員全員から散々責められ、自分自身も思い当たる事が多過ぎる店長は他の店員達に後押しされておずおずと棚に商品を並べている純の所に行き尋ねた。
「斉藤君、何か悩み事でもあるんじゃないのかい?
あるなら僕らでいいならいつでも聞くよ?」
と話しかけ後ろを振り返る。後ろでは店員達みんなが頷いていた。
「いえ、ありませんけど?」
「あっそうなの?なら良いんだ」
あっさり否定された店長はすごすごと肩を落として他のみんなの元へ帰って来たら、《役立たず!》とまたもや店員全員に責められるハメになってしまった。
みんな心配してくれてるんだなぁ。みんなに迷惑かけない様にしっかりしないとな。それにしてもあれから小町の奴、今頃何したんだろう…。ちゃんと飯は食べているのだろうか?寝る場所はどうしてるんだ?
スタッフルームで1人考え込んでいると目の前に湯気の立つ温かいコーヒーカップが置かれた。顔を上げるとテーブルの向かい側に同じくコーヒーカップを持った柚花が座っていた。唯一事情を柚花は
「小町さん、まだ帰って来ないの?」
「小町なんか帰って来なくても良いんだよ。元々勝
手に居座ってただけなんだから」
「嘘ばっかり…本当はもうとっくに許してるんでし
ょ?私の事ならもう良いのに。心配で仕方ないん
でしょう、本当は?」
「誰が心配なんて…」
「斉藤君、嘘吐くのヘタねぇ。お得意のポーカーフ
ェイスの顔に今はしっかりと書いてあるわよ、心
配でたまりませんってね。まったくそんなに意地
張らなくても…。斉藤君って案外頑固なのねぇ。
何はともあれ、さっさと仲直りしていつもの斉藤
君に戻らなきゃ!熱心な斉藤教信者の増田君や塚
原君達、本気で泣いてたわよ」
柚花は言いたい事を言い終わると、飲み終えたコーヒーカップを置いてスタッフルームを出て行った。残された純はこの10日間の間に何度吐いたか分からない程の溜め息を吐いた。
柚花ちゃんの言う通りだ…。俺は何で意地を張ってるんだ!?でも小町のした事はやっぱり許せない事であって…
頭の中で心配する自分と許せない自分が葛藤している。
バイトの帰り、自分のアパートの見える場所で足を止めて自分の部屋を見上げた10日前までは電気がついていて明るかった部屋は今では真っ暗だ。
玄関のドアを開け小声で「ただいま」と言ってみても元気よく「おかえり〜純!!」と駆け寄って来る小町の姿はどこにも無く、ただ真っ暗な空間が広がりシーンと静まり返っている。明かりをつけ純は夕飯を作る気にもなれず、イヤホンをするとここのところ毎日聴いている『I Will Come To You』が流れ始める。歌が流れる中、純はベットに寝っ転がった。本来なら心に歌が響くのに今はちっとも響いてこない。かわりにまた小町の事を考えてしまう。
こんなにも小町の居る生活に慣れてしまっていたなんて…あんなに居るのが鬱陶しくてたまらなかったのに、いざ居なくなるとこの部屋はこんなに広くて静かだったんだな。でもこれが俺が望んでいた生活だろ?小町が居なかった以前の生活に戻っただけだ。なのに何故だろう、小町が居なくなって寂しいと思ってる俺とそれを認めたくない俺が心の中で必死に戦っている…
純はとてつもなく困惑していた。
混沌とした気持ちを抱えたまま2週間が過ぎ、未だに以前の自分を取り戻せないままバイトを終えアパートの階段を上がっていくと、自分の部屋の前に何か黒い塊が蹲っているのが見えた。近づいてみるとそれは人の形をしていた。
「・・・小町か!?」
小声で呼んでみると、その声に反応して蹲っていた人物がパッと顔を上げる。
小町だった。
しかし純の顔を見るとまた俯いてしまった。2人の間にしばらく沈黙が流れたが、その沈黙を先に破ったのは小町からだった。
「純…あのねあの後、あたしヴォルダーじいさんの
お墓参り行って来たんだ…。あたしが住んでた頃
と風景は変わってなかったよ。でもね…ヴォルダ
ーじいさんと一緒に暮らした家、無くなってた…
。それに日本語を教えてくれたおじさんやおばさ
んも居なくなってたよ」
ポツリ、ポツリと話す小町の瞳から一筋の涙がこぼれ頬を伝った。そして大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちる。
「ヤギとか牛とかもみんないなくて…。何かさぁ、
周りの風景は…変わらない…のに、じいさんとの
…思い出の家だけが無くなってて…それ見たら何
だかじいさんと…過ごした日々が…夢だったんじ
ゃないかって…」
涙が止まらず、言葉が続かなくなった小町の話を黙って聞いていた純は、
「何言ってんだよ。お前は何年じいさんと一緒に暮
らしたんだ?よく思い出してみろよ。じいさんに
色んな事教えてもらったんだろ?乳搾りの仕方や
野菜の作り方とか。それにじいさんと一緒に時代
劇や任侠映画をたくさん観て笑って、楽しかった
思い出があるって自分で言ってたじゃないか。」
「…うん」
「ケンカした事もテレビのチャンネル争いとかもし
たんじゃないのか?」
「…うん、…うん」
「俺にはお前とじいさんとの生活がどんなものだっ
たかなんて知らない。でもお前、じいさんの話し
てる時すごく楽しそうで嬉しそうな顔してるんだ
ぞ。知らなかったろ?その顔見る度、小町は本当
にじいさんの事が大好きなんだなぁって俺には伝
わってきたよ。じいさんと一緒に過ごしてきて、
たくさん色んな経験して学んだ事を小町は全部夢
や嘘にしたいのか?違うだろ?じいさんはいつも
小町の側に居る、いつもお前の心の中に生きてる
るんだよ。何一つ無くなってないし夢や嘘じゃな
い、大切な宝物だ。小町とじいさんが過ごした
日々、じいさんの事を好きだと思う気持ち、すべ
てが『想い出』というんだよ。だからじいさんと
の大切な『想い出』を夢とか嘘なんて悲しいこと
言うなよ…」
そう言って玄関のドアを開けた背後で、胸に両手を当てて
「うん…そうだね。あたしの中にはいつもヴォルダ
ーじいさんは生きてる、いつもみたいに笑ってる
よ…。これは絶対夢でも嘘でもない。だってあた
し、今でもじいさんの事大好きなんだもん!」
小町は再び涙を流した。ポロポロと涙を流し続ける小町に、純は照れた様に
「それが分かったんなら良い。その気持ちだけは忘
れるなよ。…今日はお前の好きなエビ餃子だから
な。皮を包むの手伝えよ」
「純…」
部屋に入った純は、まだ不安そうに戸惑っている小町に顔を見せないよう
「いつまでそこに座っているつもりなんだ?早く入
ってドア閉めろよ。風邪引くぞ。…ちゃんと柚花
ちゃんに謝れよ。もう怒ってないから…」
ぶっきらぼうに言う純の言葉に小町は涙でぐちゃぐちゃだが満面の笑顔で頷き、純の背中めがけて思いっきり飛びついた。
「純ーっ!!ありがとぉ〜!!!」
「うわっ、何飛びついてんだよ!?あーもう、泣く
か笑うかどっちかにしろ。ゲッ!人の背中で鼻水
拭くなよ、汚いなっ。今すぐ離れろ!」
嫌がる純の背中に力いっぱい抱きつき
「あのね、純と柚花ちゃんにお土産買って来たの。
柚花ちゃんにはコレ!くるみ割り人形っ。そんで
ぇ純には…じゃーん、あのベルリンの壁の欠片!!」
「どれも実用性の無い物ばかりだな。ここでくるみ
を割る機会、よっぽどの事がない限り無いと思う
し。眼力強いわリアル過ぎるわで、怖いぞこの人
形…。それにベルリンの壁の欠片って自慢気に言
われたってなぁ。俺には瓦礫にしか思えん。…お
いっ、これカタカナで[ベルリン]って書いてあ
るぞ!?胡散臭いの通り越して、明らかにバッタ
モンじゃないか!こんな偽物の瓦礫で俺は何をす
ればいいんだよ!?小町、お前服のセンスも無い
が土産を選ぶセンスも無いんだな…。そんな事よ
り本当に反省してるんだろうな!?あー、帰って
来た早々羽根なんか出すなっ、鬱陶しい!!」
こうして無事に(?)小町は晴れてまた居候の身に戻ったのである。
後日、ソレだけは止めとけ!と言った例の人形を持った小町を連れて柚花に謝りに行った時、柚花は人形を一目見るなり「可愛い〜❤️」と言いすごく気に入った。しかもその場で【みちお君】と名付け、小町と一緒にキャッキャッとはしゃぐ姿を見ながら
女の子の可愛いと思う基準が分からない…。つーか何故に【みちお君】なんだ?
その日、純は女の子の奥深さを目の当たりにし勉強した…。
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