第13話
陽も落ちた頃。昨日と同じく咲希を家まで送り届けて、僕は幾分軽くなった足取りで家路についた。
まだわだかまりがすべて解消されたわけではないけれど、一先ずは一件落着ということで。
店に帰りつくと、案の定というかまだ電気は点いており、入ってみれば当然のごとくじいちゃんがコーヒーを淹れていた。
普段はあんなんなのに、カウンターに立つともうそこにいるのが当たり前ってくらい様になっているのだからやっぱり敵わない。
嫉妬するし、そして憧れる。
そんな表裏一体の感情をしまい込んで、僕はじいちゃんから見て斜め左側のカウンター席に腰を下ろした。
「ただいま、じいちゃん」
「ああ、おかえり」
こっちを見ずに、じいちゃんは手を動かしたままにまにまと口元をいやらしく吊り上げて言う。
「上手くいったみたいだな」
「こんどは声聞けばわかるって?」
「んにゃ。裏手の陰に隠れて聞き耳立ててた」
「……は?」
頭のなかが真っ白になった。
「ま、待って。か、隠れてたって……いつから?」
「おまえさんらが帰ってくる前から」
「最初から盗み聞く気満々じゃねぇか!」
僕はテーブルを叩いて立ち上がり声を張り上げた。じいちゃんは悪びれなく笑う。
「すまんすまん。どんなこと言うのか気になっちまってな。いやしかし、なかなかいい口説き文句だったじゃねぇか。母親同様、やっぱ血は争えねぇってやつかね」
「ふっざけんな! ああもう最悪だよ! 信用してたのに!」
「ははは、そうかっかしなさんな」だれのせいだと思ってやがる。「まぁ流石に録音なんかはしてねぇし、俺が黙っていてやればだれかに知られることはねぇさ。だから、わかるよな?」
このじじい、流れるように孫を脅してきやがったぞ。鬼か。
しかしこんな人質を取られているような状況で反抗できるほどの根性があるわけもなく。僕は憎々し気にじいちゃんを睨んで言葉を飲み込むしかなかった。
「そう睨むな睨むな。べつに無茶な頼み事するわけじゃねぇんだから」
「なにさせるつもりなんだよ」
むっとしながら僕は聞いた。じいちゃんは頭の後ろを掻き、さっきまでとは打って変わって困ったように苦笑いを浮かべる。
「ま、ゴールデンウィーク恒例のあれだ」
黙っている代わりに頼まれたのは、こんどのゴールデンウィークにあるコーヒーイベントの手伝いだった。毎年全国各地から店舗が集まり、多くのコーヒーラバーが訪れ賑わうイベントなのだけれど、これに合わせて帰ってくるはずだった父さんと母さんの帰国がずれるらしく手が足りないそうだ。
「あの二人も今は忙しいだろ。武に至っては今回は帰ってこないって言いだしやがった」
「まじか」
「まじだよ。だから今年はおまえさんたちに手伝ってもらおうと思ってな」
「そういうことなら脅さなくても手伝ったのに……って、ん? おまえさん、たち?」
眉を寄せて訝しむ僕。じいちゃんは腕を組んで、なにを勘違いしているんだと小馬鹿にしたようなため息を吐く。
「半人前が一人増えたところで捌き切れるわけねぇだろうが。それに雇われてんだからおまえが出張るのは当然。頼み事ってのは、手伝ってくれそうな人間を集めてくることだ」
「ま、まさか……」
「ああ、そのまさかだ。ほれ、さっそく思い出が一つ作れるぞ。よかったな」
「ほんとに最悪だなあんた!」
綺麗な思い出を汚された気分だった。前言撤回。だれがあんたなんかに憧れるか!
「そんなこといきなり言われたってやってくれるわけないだろ!」
「咲希の嬢ちゃんなら引き受けてくれると思うがな」なにを根拠に。「それから美玲の嬢ちゃんにも声かけてくれ。数は多い方がいい。できれば龍也の坊主もと言いたいが、あっちはあっちで自分とこの手伝いがあるから、まぁ無理だろう」
「他の二人も無理だって!」
「ああそうだ。明乃もいたな。即戦力だし絶対誘っとけ」
「本職があるんだからそれこそ無理に決まってんだろ!」
「よし、これで問題は一通り解決したことだし、小噺はこのくらいにして」
「なにも解決してねぇよ!」
「で、どうだ?」
突然会話の流れをぶった切られて、つっかえたようにガクリと肩を落とした僕はじいちゃんの顔を見て目をしばたたいた。どうだと言われてもやりたくないが?
ただじいちゃんは、その話はもう終わってるんだよと呆れた目つきで続ける。
「咲希の嬢ちゃんにコーヒー飲ませて、それで心動かせたんだ。おまえさんの知りたがってたバリスタにとって最高のコーヒーってのがなにか、わかったのかよ?」
「……ああ、うん」
そうだ。そういえばそんなことも言っていたな。
さっきは無我夢中で意識していなかったけど……うん。これだという答えは、すでに確かな輪郭をもって形づいている。
この数年。僕のなかで花ひらくときを待っていたもの。
気づいてみれば、なんてことない。とても簡単で当たり前のことだった。
バリスタにとって最高のコーヒーとは――。
バリスタにとって最高のコーヒーとは、だれかの心にそっと寄り添い、温もりを与え、そしてほんのひと言。おいしいと笑顔で言ってもらえる。そんなコーヒーなのだろう。そう答えて僕は、霞が晴れた春の朝のような表情を浮かべた。
「結構時間かかったけど、ようやくわかったよ」
「……そうか。ま、それならよかったんじゃねぇか?」
口では興味がなさそうにそっけなく言って肩をすくめるも、じいちゃんはどこか満足げだった。
「まったく。俺が切っ掛け作ってやんなきゃ気づけんとは。まだまだ世話が焼けるな」
「うん……その、じいちゃん。なんというか……」僕は照れくさそうにそっぽを向いて頬を掻く。「昨日はありがとう。じいちゃんが背中押してくれなかったら、たぶん今もうじうじしたままだったよ」
「礼なら行動で示すんだな。具体的にはつべこべ言わずに三人を誘ってこい」
「こっちは素直に感謝してんだからそっちだって素直に受け取っとけよ!」
最後に嫌なことを思い出させて、じいちゃんは淹れたてのコーヒーを「ほれ、上手くいった祝いだ」と差し出し家の方に引っ込んでいった。
その背中を、感謝と不満が入り混じった複雑な気持ちで見送りながら、僕はカップに口をつける。さて、最近はせがむことがなくなり飲む機会も減ってしまったじいちゃんのコーヒーだけど、この味に僕もすこしは近づけて――。
「……うま」
思わず感嘆の声が漏れる。本当に敵わないな、悔しさすら覚えない。
僕のそんな心からの呟きを聞いたじいちゃんは立ち止まると、頭だけで振り向いてニヤリと自信満々にほくそ笑む。
「まぁ、いろいろしちめんどくせぇことはともかくとして。薫とっての最高のコーヒーはだれにも譲るつもりはねぇよ。たとえ当の本人であろうとな」
そう言ってぞんざいに手を上げ去っていく後ろ姿は、やっぱりムカつくほど様になっていた。
🐈 🐈 🐈
その夜のことだった。予定通りというかなんというか、時間が経っても自分の吐いた台詞の数々への恥ずかしさが拭えず、布団をかぶって枕に顔を押し付けくぐもった叫び声をあげていると、咲希からLINEのメッセージが届いた。
『今日はありがとう』
開いてみればそんなメッセージに続いて、可愛らしくデフォルメされた猫が『ありがとう』と手を上げるスタンプが画面に表示されている。
「ありがとう、か」
僕は咲希に一体なんどお礼をもらうのだろう。いや嬉しいですけどね。でもなんかいつか揺り戻しが来るかもしれないよなぁ。人生ってそういうとこバランス取られているって聞くし。
そんなあるかどうかも定かではない未来を無駄に不安視していると、合間を置かずに再びプッシュ音が鳴った。画面に意識を戻す。こんどはなんだろう。
「……え?」
僕は変な声を上げそうになり、真っ暗な室内でスマホなんて目が悪くなるのは承知しているが、食いつくように画面に顔を近づけ見間違いかと疑い目を凝らした。夢じゃないよなと頬をつねったりもする。
痛い。まぎれもなく現実だ。
でも、それならこれは? 僕は布団をのけて体を起こし、もう一度画面をよく見る。
ありがとう猫の真下に現れたのは、おなじシリーズの猫スタンプだった。けれどそれだけならここまで動揺しない。上のと見比べると、受け取る印象がだいぶ違うのだ。
だって、ふにゃりと表情を溶けさせ頬を桃色にさせた猫の斜め横に『だいすき』なんて文字がハートマークを添えられてふわふわ浮かんでいるのだから。
しばし僕は沈黙する。これ、どういう意味だ?
「……い、いや。いやいやいやいや。た、ただのスタンプだろ」
こういった系統のスタンプには結構な確率でラインナップに入っているからな。字体もポップでカラフルだし、大体の使用目的は仲のいい友達に送ったりだろう。ほら、ありがとうの下に続いてるから並びとしても不自然さはない。
と、それっぽい理由を付けて自分に言い聞かせる。もしかしてとかそんな勘違いするなよ僕。恥ずかしさの上塗りになるぞ。
でも、すこしくらいは期待しても……。
「あ……」そこで僕ははたと気づいた。「そ、そうだ返信」
もう既読はついているからなにか反応しないと。しかしどう返せばいいんだこれ。僕もなんて送れないし。けれど曖昧に誤魔化すのもそれはそれで失礼だし……。
そんなふうに優柔不断に決めあぐねていると、三度目のプッシュ音が鳴った。僕はびっくりしてスマホを手からこぼれ落としかけ、空中でお手玉のように二回ほど跳ねさせてからキャッチする。ほっと息を吐いて、どきどき緊張しながら画面を見る。
こんど送られてきたのはスタンプではなく『おやすみ』というメッセージだけだった。
「あ、あれ?」
僕はスマホに釘付けになったまま呆然となった。え、これだけ?
「……って、いやいや、なに期待してるんだよ」
さっき自分でも言ってただろ、勘違いするなって。
結局僕がめちゃくちゃ意識して、一人で空回りしていただけだったようだ。ほんのすこしの口惜しさを感じながらも、そりゃそうかとどこか納得したように苦笑いをこぼす。
おやすみと返してスマホの電源を落とすと、僕はまた布団をかぶり直した。
目を閉じてまぶたの裏に浮かんだのは、咲希の笑顔だった。
あの雨と草木の匂いが煙る校舎裏で声をかけたのらねこのような少女が心を開き、いつも僕の傍に寄り添って、ようやく見せてくれた屈託のない自然な笑顔。そしてこうしてささやかな好意を向けてくれた。
だからまぁ、なんというか、一応。
今回のお話にオチをつけるなら、あの子のように猫に懐かれたいと思っていたら、いつの間にかその本人に懐かれた、というところだろうか。
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