7.Next Stage.

「そうか、ハルがキリング・ショックを起こしたか」

ドバイのホテルで電話を耳に当てたアマデウスは、イトウの報告に落ち着いた声で言った。

「氷――面白い症状だ。宜しい、そちらの処理は君に任せる。ダニエルにも伝えておくよ。例のホテルで落ち合おうとハルに伝えてくれ」

電話を切ると、アマデウスは彼にしては珍しくロダンの彫刻めいた顔で押し黙った。

「ハルのキリング・ショック解消は何に?」

何気無く尋ねた秘書のジョンを、考える人のまま顎に手をやりつつ、アマデウスはちらりと仰いだ。

アイスだ」

「氷? 頭でも冷やすんですか」

「いや、摂取する方だそうだ。コップ四杯噛み砕いて落ち着いたらしい」

「それは……日本人には少々難儀ですね」

「仕方がない。キリング・ショックの解消方法は選べない。手に入りやすい素材だけ、良い方だと捉えなくてはね」

指先で口許を撫ぜ、アマデウスは呟いた。

「ようやく、と言うべきかな」

「ええ。ハルは遅い方でした」

「性根が真面目だからだろう。恐らく、“今回のこと”が無ければ、今しばらくハルはキリング・ショックが起きなかった筈だ。殺し屋の自覚と、我々の教育ゆえに」

「……そうですね」

敏腕秘書は感慨深そうに頷いた。それを合図にするように電話が鳴った。低い声でひと言、ふた言応じると、電話をそのままに上司に向き直る。

「ミスター、イスマエル・シャリフは確保できました。如何いたしますか」

「うむ。綺麗な状態にしてやりなさい。後はできるだけ静かな場所に」

「かしこまりました」

「丁重に頼むよ。彼は、ハルを“人間にした”人物だからね」

「人間に……?」

「そうとも。キリング・ショックは、自身を殺し屋だと思っているだけなら起きない」

「……?」

ジョンは訝しげに上司を見た。

「ハルが今まで行っていたのはビジネスと理解しての殺しだ。今回は違う」

「……事故という意味ですか?」

「No……自身を『人殺し』だと『理解』したとき、キリング・ショックは起きるということだ。もちろん、一般人が罪の呵責に耐えきれずに発狂することはまま有ろう。それは我々がキリング・ショックと呼ぶ状態とは異なる。ハルは今日、命に対する考え方が変わったのだ」

戦争では、殺人に対する感覚が麻痺する。多くのテロリストもそうだ。

何かの為に行っていると誤魔化したり、人間では無く「敵」、「悪魔」、「脅威」を倒していると言い逃れ、或いは大義名分を重んじて殺しを正当化している内は、ある程度の平静を保てる。代わりに後から押し寄せたり、気付かぬ内に蓄積して、日常に戻った時に急激なショック症状に陥ることもあるが、それは殺し屋のそれとは違う。

命に対して無頓着で、無関心で、知っているようで何も知らないのが、殺し屋の性質だ。そのさがを揺るがす事態に遭遇した際、尚も殺し屋で居る己を認めたとき、初めて鏡で自分を見たような心地になる。

「ハルは……立ち直れるでしょうか?」

殺し屋を続ける云々に関わらず、ハルトが人間であり、友達を殺したことにショックを受けている以上、普通の生活に戻ることもできないかもしれない。

体格に似合わぬ不安な声に、アマデウスは呆れ顔になる。

「ジョンは心配症だねえ」

「……申し訳ありません、ミスター。……しかし、ハルは他の者とは違います」

「幼いからかね?」

「……いえ」

上司の質問はわかりきったことだ。幼さなど、途上国――それも貧しい国の子供ほど、武器や殺しとの距離が近い。ハルトは先進国の中でも全体的に安定した日本出身。ただし、幼少期に自営業が立ち行かなくなった父母と共に夜逃げする羽目になり、どういう経緯か東南アジアの森まで逃避行した経験を持つ。彼はその頃の記憶は漠然としているようだが、この森の中でBGMの標的だった組織と出会い、両親は彼らに利用目的で引き入れられたか、本当に意気投合したか已む無しだったか……ともかく、毒薬入りの酒を飲んで死亡した。子供故に酒を含むことなく眠っている内に天涯孤独となった少年は、両親をオーバー・キルしてしまったBGMに、保護の名目で連れられた。そして、北米と南米が組んで進めていた、BGMの教育プログラムに参加する。ネバダ州の広大な私有地に置かれたマグノリア・ハウスで、他の子供たちと一緒に有能な殺し屋として育てられ、今に至る。

――”これ”が、ハルトが認知し、公開されている情報。

「ジョン、君が心配するのは杞憂だが、悪い事ではない。ハルにはまだ、大人の存在が必要だ」

上司の静かな言葉に、大柄な秘書は不安を面に描いたまま頷いた。

「だが、勘違いしてはいけないよ。君は彼の父親じゃない。そこまで行くと、君の精神状態に関わる」

「……大丈夫です。わかっています」

真面目な顔で答えた部下を、上司は憂いを込めたブルーの目で仰いだ。

「ハルに関して辛ければ、私を恨むんだよ、ジョン」

「いいえ、ミスター。私は自分の意志で此処に居ます。ハルが望んだとおり、彼に一生尽くすのは本望です。勿論、貴方にも」

「フフ……汚れ役を引き受ける者はいつだって優しくて損な人間だねえ。我々が、ハルのサンドバッグになった甲斐が有ることを祈ろう」

穏やかに笑った上司に、部下は丁寧に頭を下げた。

アマデウスは傍らの窓に広がるドバイの見事な景色を眺めた。独特のフォルムを持つビル群が水に浮かぶように林立する様は、未来の水上都市のようだ。

同じイスラム教を信仰する国の中でも、ドバイの規定は非常に緩い。人前での男女のスキンシップは厳しいが、酒の販売も認められているし、外国人ならば肌を露出することも許される。夏場は五十度を記録することもある土地だが、リビアのような常に乾いた印象も、埃っぽい汚れと血にまみれた争いの火種も見えない。

発展、発展、金、金、金……人と物が集積し、潤い続けるメトロポリス。

「きっと、腹を壊して来る。戻ってきたら、君のお母様秘伝のアップルサイダーを振舞ってやるといい」

「はい……そうですね」

微かに笑顔を浮かべた男に、アマデウスも微笑んだ。

「まあ、時間は掛かるかもしれないが……大丈夫だろうさ」

クラシックでも嗜むように優雅な姿勢で椅子にもたれ、アマデウスは含み笑いを浮かべた。

「ハルは、特別だからね」



 翌日、ハルトはイトウが運転する車で空港を目指していた。

この後は、上司が待つドバイを経由して、アメリカに帰国する。

助手席から二度と来るかわからない砂漠を眺める青年は静かだった。

その静けさは、これまでの機械のように無機質な落ち着きとは異なる。

水のようだと、イトウは思った。

それも、氷の張った湖の下、凍り付きそうな温度を揺蕩う水。

あの後、ハルトはトリポリには戻っていない。エルについて何か尋ねることもなく、ともすれば食事よりも氷を欲しがる為、既に胃は悲鳴を上げている。若者らしく、何でも元気に食べていた姿はすっかりなりを潜め、見えない何かに緊張しては、病人のような顔をしている。

「……あんた、これからどうするんだ?」

窓の外の砂漠を見つめたままの細い声に、イトウも前方の砂漠を見たまま応じた。

「指示が無い限りは、あの場に居続ける」

「……危険じゃないのか」

幾らか不安そうな響きを真新しく感じながら、イトウは事も無げに答えた。

「君ほどではない」

「そうかな……あんたは所謂、スパイに近い。国家間じゃないが、ここは戦争の渦中だ。安定した国での遺体処理とはわけが違う」

急に多弁になる青年に、穏やかに首を振った。

「大丈夫だ、ハル。私の死まで恐れることはない」

「……そんなつもりじゃないよ」

言い訳のように聞こえた声が、砂地に吹き飛ばされていく。押し黙った青年に、イトウは厳かに口を開いた。

「キリング・ショック発症の瞬間に立ち会ったのは初めてだ。解消される瞬間も」

「……面白かったか?」

「何故か、子供が生まれた時を思い出した」

揶揄する口調に対する意外な言葉に、ハルトが振り返った。

「あんた、子供が居るのか?」

「もう居ない」

「居ないって……」

「自殺したんだ。もう十年以上前になる。過労が原因だった」

静かな焦げ茶の目が、前を見続ける男を見つめる。

「企業としては労災を認めたが、ハラスメントをしていた筈の上司は直接的な罪には問われなかった。浴びせていただろう罵声などの証拠が無かったんだ。形ばかりの謝罪に私は憤ったが、息子の苦悩に気付いてやれなかったのも事実だ。受け入れて、収めるしかなかった」

砂を噛むタイヤの音と、エンジン音だけが響く。

「約ひと月後だ、その上司と当時の社長は死んだ。食中毒という話だが……ミスターに誘われたのも、その頃だ。手先が器用なアジア人の清掃員クリーナーが欲しいと」

「……悪党になっちまったわけか」

どこか悔いるように呟いた青年に、イトウは何故か微笑んだ。

「いや……彼らを恨み、殺そうと考えた時、既に私は悪党だったろう」

その顔をじっと見つめてから、ハルトは再び窓の外に視線を戻した。頬杖つきながら、しばらく窓の外を眺めていたが、思い出したように言った。

「……俺、もしかしたら、怖かったのかもしれないんだ」

「何が」

「エルが」

不思議そうな目が、外を見つめたままの青年をちらりと見た。

「なぜ」

「最初は……猫を、見つけた時だ。あいつ、俺と同じ――……いや、それ以上に“見えていた”」

猫は、すぐ傍を歩いても気付かれない位置に倒れていた。

只でさえ小さな姿で、物に紛れやすい柄。それを十メートルは先の距離から発見し、それが何であるか気付いていた。

「視力が優れた者は、珍しくないのでは――……?」

「ああ……猫は偶然かもしれない。……でも……あの時……俺を狙ったあいつの弾丸は、あのまま撃っていたら――……」

青年の微かに語尾が震えた。

視界の端で、膝に置かれた手がぎゅうと拳を作っていた。

「ハル、無理をしない方がいい。君はまだ、ショックが――」

「いいんだ、聞いてくれ」

どこか嘆願するような響きに、イトウは押し黙った。遺言でも聴くような気持ちになりながら黙した清掃員に、ハルトは静かに言った。

「あの軌道は――……”後ろから、俺の頭を撃てたんだ”」

「……後ろから……?」

意味不明な言葉だが、イトウは驚きと共に呟いた。

あの時、エルとハルトは正面から向かい合った筈だ。それなら、見たまま……正面を撃つに決まっている。しかし、ハルトが言っているのは、彼が『魔法の弾丸フライクーゲル』と呼ばれる所以の跳弾射撃のことだ。彼は命中率が高いのは無論のこと、撃った弾丸が何処で跳ねるのか、跳ねる為に何処にどの角度で撃てばいいのか、軌道が全て“見える”――故にフライクーゲル。並の人間を超越した、二人と居ない筈の悪魔のような射撃の使い手。

エルが、――何の訓練も受けていない青年が、それをやろうとしたということか?

ハルトは脇に下ろした手を握りしめている。

「俺以外に、“見える”奴を――……きっと、“俺”は恐れた。だから殺した……」

誰より、その恐ろしさを知る者が、二人と存在することを恐れた。

イトウは信じ難い顔で青年を見つめ、思い出したように前に向き直った。

「……ハル、それが真実だとしても、君たちが友達だったのは変わらない」

ハルトが、少しだけ顔を上げる気配がした。

「エルもきっと、そう思っていた」

返事はなかった。

空港が見えてくるころ、ようやく周囲に人のざわめきが満ちてくる。

ふと、ハルトが小さな溜息を吐いた。

「もし……そうだと、したら、……――」

それは、独り言のようだった。

「俺は間違いなく、最悪の悪党だな……」

窓の外へと自嘲気味に吐かれた言葉に、イトウは返事をしなかった。ハルトもそれ以上は何も言わず、砂埃が舞い踊り、海風に風化した茶色い街を見つめた。

小さなスーツケース片手に気怠そうに車を降りた青年に、「そういえば」と運転席からイトウは言った。

「ラーラは、ミスター・ダニエルのお嬢さんに差し上げたよ。飛び上がって喜んでいた。ダニエル社長は、三本足にあからさまな反応だったが」

微かに愉快そうに言う男に、ハルトは今日初めて、穏やかに苦笑した。

「路傍の野良から、石油王の飼い猫か。大した出世だな」

「君たちが助けたからだよ」

穏やかに微笑んだ男に、ハルトは肩をすくめて首を振った。

「……俺は、誰も助けていない。殺しただけだ」

皮肉なセリフを、砂埃が容易く吹き飛ばしていく。

遠くに。

彼が行けたかもしれない、遠くに。



「Morning! Haru.」

ニュース・スタンドから声を掛けた老人は、少しだけ首を傾げた。

「Good Morning, Tony.」

いつも通りに答えた筈の青年が、どことなく雰囲気が違っているように思えた。

「もう来ねえのかと思ったよ」

青年は苦笑した。

「帰ってたんだが、出先で体を壊して寝込んでたんだ」

「なんだ、若ぇのにそいつぁ気の毒だったな」

見舞いぐらい行ったのに、と言う老人に青年はかぶりを振って微笑んだ。

「もう良いのかよ。痩せっぽちになっちまって。よし、今度おふくろ直伝のトルティーヤスープを作ってやろう。トルティーヤもそこらのもんじゃねえ手作りだぞ」

「旨そうだ。ありがとう」

そうは言ったが、気恥ずかしそうにこぼれた溜息は冷気を吐いた様に見えた。

「働きすぎなんだよ、お前は。日本人はマジメ過ぎて死ぬ奴が居るらしいからな、程ほどってモンが大事だぜ?」

老人の親切心に、ハルトはちらりと危うい笑みを浮かべた。

「まったく、あんたの言う通りだ。“俺も”真面目にチーズを探し過ぎた」

「チーズ? あの本のことか」

「ああ。おかげさまで為になった」

普段なら「そうだろう」と空威張りする老人は、何も言えずに青年の表情を見つめた。彼はいつも通りのニューヨーク・タイムズ紙を買い、ぼんやり眺め始める。

多くの靴音と、車の走行音、何処からか響くサイレンが、ビルの谷間にこだましながら行き過ぎる。

「治ったんじゃ、また行っちまうのか」

つまらなそうに言った老人に、青年は頷いた。

「今度は何処に行くんだ?」

「リビア」

老人は付き合ってられんといった調子で両手を上げた。

「体壊した国にまた行くのか。お前の上司は悪魔サタン死神デスか?」

「それは間違ってないが……今回はお膳立てしてもらったんだ。やらないと、俺は次に進めそうにない」

奇妙な返事をすると、青年は新聞からひょいと顔を上げた。スタンドに並べられた本を見下ろし、物色し始める。

「トニー、おすすめしてくれよ」

「ああん? 好きなの買えばいいじゃねえか」

「だったら本屋に行くさ。俺はあんたの脳が悲鳴を上げるやつが欲しいんだ」

悪党のようにニヤリと笑った青年に、店主も同じように笑った。

「いいとも。また、長い旅になるんだな」

「ああ」

ハルトは笑って、溜息を吐いた。

「死にたくなるほどな」

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BGM spin-off story Desert and Ice. sou @so40

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