6.Killing shock.


「終わりました」

ガレージの隅に腰掛け、耳に宛てた端末にハルトは言った。

〈ご苦労だったね〉

電話越しの上司は、配達完了を労うような声で答えた。

〈予定通り、ドバイで会おう。イトウの指示に従って出国したまえ〉

「はい」

素っ気なく通話を終えたハルトが顔を上げると、イトウが立っていた。

「軍部が動き始めている。ミスターの想定よりも少し早い……向こうも機会を狙っていたのかもしれない」

「見張るぐらい、馬鹿でも阿呆でもできるからな」

つまらなそうな一言は嘲笑にも聞こえた。冷静沈着な清掃員も、苦笑をこぼす。

「急いだ方が良いが、今夜は荒れる。明日の朝の方が良いだろう」

「あんたに従うさ。どうせ、今夜は飛んだら落とされる」

「その通りだ。……残党に、脱出の余力は無いと思うが」

ハルトはどこか不機嫌そうに頷いた。意気揚々と抑圧と監察に出る軍部が目に見えるようだ。権威が通じるところでは居丈高と取り締まり、百にも満たない武装集団に怯える烏合の衆が。エルが言った通り、連中は残党を血眼になって狩るだろう。

「もう休むか?」

「ああ……」

そうは言ったが、ハルトは立ち上がらずに表の薄闇を見つめている。

イトウもそれ以上訊ねず、キッチンへと踵を返した。ぼんやりした視線がその背を追う。戻って来た時から、イトウは何も聞かない。湯を沸かす様子を黙って見ていると、不意に指先に毛玉がぶつかった。見下ろした先で、手に小さな爪を立てて乗り上げた仔猫がくりくりした青い目を向けていた。

物言わぬ彼女が物言いたげに見えるのは、気持ちの問題だろうか。

何処かで、サイレンが響くのが聴こえる。地鳴りのように轟いているのがトラックや装甲車の音なのか、悲鳴なのか、それとも只の砂嵐なのかはわからなかった。

「イトウ」

声を掛けると、カップを置いていた彼は振り向いた。無言で訊ねてくる表情は、いつもと変わらない。

「その……――エルは……、今しか間に合わない……よな?」

どうしたわけか歯切れの悪い一言になり、ハルトは意味も無く頭を掻いた。

イトウは変わらぬ表情で頷いた。

「そうだろう」

「あの店は……軍のマークは有ったのか?」

「いや、無い。怪しいと見た瞬間、証拠も無しに踏み込むのが彼らのやり方だ。今夜以降は、しらみ潰しに調べるだろうが」

明快な返事に、やはり意味も無く頷き返した。

「あいつは……あんたの言う事なら聞くかもしれない」

イトウは目元に皺を寄せて小さく微笑み、首を振った。

「君に従わなかったのなら、私でも駄目だろう」

「いや、あんたは俺より付き合いが長い。妹のことも、こいつのことも有る」

仔猫は何も知らない様子でハルトの手にじゃれた。

イトウは微かにリンゴの香りがするハーブをポットに落とし、静かに振り向いた。

「ハル、君――日本に住んでいた頃のことは覚えているか?」

「……日本? いや……俺は殆ど……」

エルにはそれとなく話したが、日本の記憶は曖昧だ。四季が有ったとか、水が綺麗だとか……そんなものはイメージに過ぎない。むしろ、この場所――古びているが、整頓されているガレージは記憶の工場に少し近い。自分は、何に使うのかわからない錆びやオイルの匂いがする機械の周りや、建物の周りをうろつき、地面に連なる蟻を見つめたり、日向にきらきらする黄色いタンポポを見下ろし、綿毛を吹き飛ばし、一本だけそびえていた細い桜の樹から落ちる花びらをつかまえようと短い腕を伸ばした。

金属音やモーター音の中、作業着を着た父らしき人が大きな機械を前に働く姿を眺め、母らしき人が暑い日にはスイカを切ってきたり麦茶を飲むよう促し、真冬に珍しい雪を見て外へ出ようとすると身動きがとれないぐらいに着込ませた。

あの小さな世界を日本と呼んでいいものかわからずに首を振ると、イトウはどこか寂しそうに微笑んだ。

「ハル、故郷とは……離れがたいものなんだよ」

「故郷……?」

「私が、彼に出国を勧めたのは今回が初めてではない。過去に戦闘が有った時も、ラーラが死んだ時も、同じように声を掛けた。彼は迷いながらも行かなかった」

なぜ。

無言で問いかける青年に、イトウは茶葉に湯を注いでから振り向いた。

カラカラに乾いた葉が、穏やかな潤いに満たされると、優しい香りが立ちのぼった。

「どんなにひどい環境でも、故郷は離れがたい。エルは隣人を見捨てることになると言ったが、それだけではないと私は思う。此処は、彼が育った場所であり、空気も、匂いも、決して潤沢ではない水や食物も、全てが彼の一部なんだ。人間は多くの場所に住める生態故に忘れてしまいがちだが、植物や動物はその環境に適して生きているだろう? そこを離れては生き難いんだ。同じ気温や同じ食べ物が整ったとしても、自然は正直だ……捕えた鳥も釣り上げた魚も、籠や水槽で飼うのは容易くはない」

「……故郷が……生き難い場所でも?」

「そうだ。過酷な環境に生まれ、不条理を恨み、無能な指導者を憎んでも、故郷は離れがたい。だからこそ、彼は捨てられずに戦うことを選んだ」

「それで死んだらなんにもならない。環境は守ってくれないだろ?」

「ああ。それは真理だ。そして、理屈でもある」

厳かな声の周囲に、温かいリンゴの香りが満ちる。イトウがそっと手渡してくれたカップは温かく、よそよそしく感じる外気をそっと撫でた。

何処に行っても変わらない人間の身に、一つ……真新しい何かを灯すように。

口を付けると、程よい温かさが身の中に染み渡ったが、何か場違いなものを突き付けられている気がした。このまま横になったらゆっくり眠れる筈の香りの中、脇に吊っている重い塊が邪魔をするように冷たい。

「気に病んでしまったのなら、すまない。君の若さに期待してしまった」

「若さ……か」

空のカップを置いて、ハルトは自嘲気味に笑った。

「いいよ。それは取り返せないものだから」

小さな溜息を落とし、猫を下ろして腰を上げたハルトをイトウは静かな目で追った。

「行くのか」

「ダメでも俺を恨まないでくれ」

言い訳のような一言を残し、ハルトは暗がりの中へ出て行った。



 明かりの少ない街は、異様な静寂に包まれていた。夜明けまではまだ間が有る。

静かでありながら、何処からかブツブツ、ボソボソと何かがざわめいている音が聴こえる。それが人間の声なのか、機械や車のモーターが奏でる音なのか――何か異形のものの声かはわからない。不意に軍部の車が威猛々しいエンジン音を立てて通り掛かったが、ハルトの顔をじっと見ただけで声も掛けずに過ぎ去った。

カフェの周囲は、先程、発砲があったにも関わらず、人さえ出ていない。

先程の遺体は誰かが片付けたのか、地面に嫌な染みを残しているだけだ。発砲した家の方を見たが、何も無かったと言わんばかりに静かだった。

カフェの閉じた扉の手前、中に耳を澄ますと何者かの気配がした。

大勢ではない。一人、或いは何か迷い込んだ動物が立てる音か、中で何かが蠢いている。しばし立ち尽くした後、ハルトは音もなく扉を開けた。

外よりも尚暗い、暗闇の奥――カウンターの向こう側で、エルが屈みこみながら何かをガサガサと弄っている。何と声を掛けたものかと思い、佇んでいると、気配に気付いたのか、エルは身を起こして振り向いた。

その表情に、ハルトは一瞬、臆した。

腫れ上がった目元はどす黒く染まり、あのすっきりした面差しは見る影もない。

憂いと優しさに染まっていた灰色の目は、陰気な暗闇に射したわずかな光にぬらりと濡れて不気味な色に見えた。

暗さに慣れてきたとき、頬に涙が垂れ落ちた痕が見えた。

「……何しに来たの」

掠れた声で問いかけたエルは、ハルトの返事を待たずにカウンターを回って来た。

目が合って以降、おどろおどろしい視線が外れない。インドなどでやたら凝視されるそれよりも遥かに強い。周囲には、コーヒーよりも火薬の匂いがした。

「――……イトウに――、いや、説得に来た」

「説得?」

「エル、この国を出ろ。お前が歩く気が無いなら、引き摺るつもりだ」

「引き摺る? 君が? 僕を?」

カウンターにもたれ、エルは喉の奥で笑った。

「どうして?」

「どうして? 医師になりたいと言ったのはお前だ。隣人を救う気があるなら、この国を出て、知恵をつけて戻るんだ。無能な為政者の犠牲になるな……!」

エルは声を上げて笑った。これまでの穏やかで優しい笑いではない。引きつり、えげつない、何か嫌なものが彼の体を勝手に笑わせているようだった。

「ハル……君は……、君はなんて恐ろしい殺し屋なんだ……!」

笑っているとも怒っているともつかない顔でエルは腕を振って叫んだ。

「僕にはわかる……此処で生かした僕を、君はいつか殺しに来るだろう! 君が助けた無能な為政者がのさばる国を立て直しに来た時に!」

ハルトは瞠目して立ち尽くした。エルは構わず言葉を続けた。

「君は此処で殺した命の代わりに報酬を受け取るんだろう? さぞや高値だろうな……サイードや叔父さんに教えてやりたいよ。ラムジやハリム……子供が出来たばかりだった……苦労して、苦労して……子供の未来の為に武器をとった無名の庶民だ。安いだなんて言わせない……言わせるものか……! 君は僕を彼らよりも高値にして、それから殺すつもりなんだろう!」

「俺は……――」

そんなつもりはない。だが、言葉は出なかった。

オーダー通りに、的確に、着実に、殺すだけ。相手が何者であろうと。

ずっと、それだけだった。高額報酬を得ようとしたことなどない。

だが、支払われる。

潤沢なその金で、家に住み、物を買い、物を食う。

日々の暮らしに困り、子供に食べさせるのに苦労する人間さえも、殺して。

「……俺は、お前を殺す気はない……」

ようやく、言葉を絞り出し、ハルトは下ろした拳を握った。

「だが、お前が言う事は間違っていない。俺はいつか、お前を殺すオーダーを受けるかもしれない……」

その時、自分はどうするだろう。

断ったところで無駄だ。自分ではない誰かが引き受けるだろう。

『世界を滞りなく回す』為に……この青年が障害になると、誰かが思えば。

正しさなど無い。無いからこそ、全て、裏側にて事が成される。

「先のことは俺にはわからない。だけど、今……俺はお前を助けたい。お前の憎しみが、俺を殺したがっていても」

ふと、エルが以前と同じ目をした気がした。

薄暗がりに尚、透き通って見えるような灰色。憂いと、優しさと、悲しみを湛えて。

「……ハル、僕の正義は考える。僕が生き延びて人を助ける数と、君が生きていることで失われる命の数を」

弁舌だった語尾が震えた。

次にハルトが次に見たものは、友人が震える手で掲げた銃だった。

「俺を殺した方が……――助かる者が増えるのか?」

「わからない……わからないよ。でも――君はきっと、殺し続けるだろう ? 僕の仲間をそうしたように、世界中で……!」

恐慌状態になっているのだろうエルの言葉は右に左にぶれていたが、銃を握る手だけはしっかりしていた。

――これは、仲間の仇討ちではない。

直感的に、ハルトはそう思った。

一瞬、撃たれてやってもいいかもしれないと思った。

エルが言ったことは、全て本当のことだ。

自分は命と手が無事である限り、殺し続けるだろう。

そんな者が生きていることに恐怖し、後の世の為に葬ろうとする彼は、世界の味方――救世主の一人と言ってもいい筈だ。

それに殺されるのは、平和を願う世界の意志では?

ふと、反発するように――脇に吊った冷たい塊の重みを感じた。

「ハル……!」

聞きなれた轟音が響いた。

エルがトリガーを引くのがわかったとき、ハルトは己の心臓が喉元を突き上げた気がした。ひきつけを起こしたような唇で何か叫んだようだったが、何と言ったか自分でもわからなかった。ほんの数秒の出来事が、強いストロボの光を浴びたように途切れ、気付いたときには硝煙を上げる銃が手に有った。

それが数年愛用していた自分の拳銃であり、自動拳銃の名に相応しいほど、指先までオートマチックに撃ったことがわかった。

……わかってから、プレイバックするように、友達の胸を銃弾が穿ち、血が噴いた様を思い出した。

「……エル……」

ようやく呟いた声は掠れていた。

撃たれた青年は後方に突き飛ばされたように吹き飛び、棚に寄り掛かる様に倒れている。灰色の目は、閉じていた。涙が滲んだ痕を認めて、ハルトは傍らに膝を付く。

みるみるうちに床に血が広がり、ズボンを濡らす。

殺しに慣れた脳は一刻も早くこの場を離れるよう急かしていたが、体はあべこべに床に縫われたように動かない。

「……俺は……――」

「フライクーゲル!」

突如、低いが鋭い声と共に、項垂れるハルトの腕を掴んだのはイトウだった。

こうなるとわかっていたように現れた男は、力無い青年を無理やり裏口へと引っ張り、路地に引きずり出し、狭い通路を幾度も曲がりながら抜け、誰とも出会わぬまま何処かの通りに出た。走り込んできたミニバンの後部に青年を押し込むと、自身は助手席に素早く乗り込む。わずか数十秒の早業をこなした清掃員は、走り出した車の中でようやく口を開いた。

「フライクーゲル? 大丈夫か?」

――その名前で呼ばないでくれ。

一言、胸に唾棄してから、ハルトはぼんやりする頭でひたすら同じことを考えていた。


何故、胸を撃った。

何故。

何故。

何故。

いつもなら頭を撃つ自分が。何故?

確実に殺せる頭を、外す距離でもないのに、なぜ。

なぜだ?

なぜ?

なぜ


なぜ……俺はエルともだちを殺した?


「フライクーゲル?」

問い掛けられて、ハルトはがくんと車体が揺れた振動につられながら、なんとか頭を切り替えようとした。

が、どうにもならない。

エルの死に様ばかりが連写のようにフラッシュバックし、幾度も血潮が吹き、銃の重苦しく軽すぎる発砲音が耳から耳を何度も串刺す。

外がうるさいと思っていたら、自分の鼓動がビート音のように爆音を叩いていると気付いて血の気が引いた。

自分は何に動揺しているのか?

これまで何人も殺してきたのに?

ハルトの異変に、イトウは声を掛けた時から気付いていた。

――ミスターの言う通りだ。

危険区域に駐在するベテラン清掃員は、胸に呟いてから、既に決められていた対策を実行に移した。自身は何処かに電話をかけながら、運転手になるべく静かに市街地を走行させ、規制線が張られる前にトリポリを抜け出した。

しばし何もない荒野の道路を疾走した後、対向車線から走ってきた所々ペンキが剥がれた4WDに合図を送る。運転手同士が素早く車を交換し、イトウは茫然自失状態のハルトと共に4WDに乗り込んだ。

何もかもわかった様子で、ミニバンはトリポリに引き返していき、4WDも来た道へUターンした。

数十キロ先のガソリンスタンドに辿り着いた頃、日差しは燦燦と輝き始めていた。

砂が吹き込む粗末なドリンクスタンドで、とりあえず落ち着けと差し出された水は、かち割られたロックアイスがごろごろと浮いていた。

ハルトはそれを病人のように受け取ると、一息に呷り、終いにむせた。

唇からいくらかこぼれ落ちた水が剝き出しのコンクリートの床に飛び散り、血痕のように黒い染みを作る。艶やかな氷だけが残ったコップを虚ろな目で見つめ、今度は氷だけを呷った。イトウやスタンド店員がぎょっとする中、ハルトは何も意に介さずがりがりと噛み始める。まるで、猛獣が獲物の骨を咀嚼するような狂暴さを露に、怒りを噛み締めるように氷を砕く。どこか引っ掻いたのか、口端に血が滲む。コップが空っぽになると、奇怪な猛獣は、今度は氷だけを所望した。店員が不思議そうにしながらもコップに氷を満たして運んでくると、苛立った様子で放り込むように食らい始めた。そんなことを四回も繰り返し、イトウがいい加減ハラハラし始めたところで、ぴたりと止まった。コップを置いたとき、青年の目は夜明けのような静けさを取り戻していた。

「……大丈夫か? フライクーゲル?」

おずおずと問われて、ハルトは冷気のように細い溜め息をこぼしてから、顎を少し動かすだけの頷きを返した。

「……その呼び名、やめてくれ」

それは、何に対する返事だったのか。自嘲にも似た苦笑いが口端にちらり覗いた。

「……大丈夫だ……」

あれだけの冷たさを飲み込んだわりに、ハルトの声はどこか熱がこもっていた。

それは疲れ果てたようにも聴こえたが、熱い涙を堪えるようにも聴こえた。

キリング・ショック。

施設で習った言葉が、煙のように頭を過った。

人間を殺したことから発生する、極度の戦闘ストレス。

それは同時に、人間である証。人間。今……そんなものを証明するのか。

ハルトは空っぽになった冷たいコップを見つめた。

――俺は今後、これが要るんだな。

氷を食べなければ、脳の血管一本一本を気色の悪い虫が這い回る気がする。目の奥が燻り、口からぐずぐずに潰れた臓腑を吐き戻す気がする。

口を、喉を、腹を、この身を内から冷やさなければ、悲惨な死に様が綴られたページをめくる手を止められない。

それは、狂うのを拒んで尚、殺人を犯し続けようとする――悪魔の対処法。

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