5.Hit man.
「ハル、始まりそうだ」
以前と同じ紙を差し出しながらの物静かなイトウの声に、ハルトは本を捲っていた手を止め、脇で見ていた猫をひょいと摘まみ上げて籠に戻した。
「近いか」
紙を受け取りながら目を通す青年に、イトウは頷いた。
「近い。やはり、ETON社を狙う気だ。車を出そう」
「いや、車を狙われたくない。あんたも現場には出てこない方がいい」
いつの間にか手元にある拳銃を確かめながらの冷静な声は、少年に近い青年のそれではなかった。
「だが、徒歩では時間が掛かる」
「自転車借りるよ。静かでいい」
すぐに察したイトウが作業場に引返し、マウンテンバイクよりも太いタイヤをつけた
「トラック5台か……M24SWSと――足りると思うが、弾も少し持ってくか」
スナイパーライフルと弾丸を持っていくのを気軽な調子で言う青年に、望みのケースを取り出しながらイトウは納得した。――確かに、彼は殺し屋だ。
かつて『死神』と恐れられたアマデウスが『
「何かあれば呼んでくれ」
青年はひらひらと片手を振り、黒いバッグを肩に担いで部屋を出て行った。
不思議と、残された猫は文句を言わなかった。イトウが視線を向けると、仔猫は身を低くして、ハルトが出て行った入り口を見つめていた。
小さな耳をピンと立て、物陰に潜み、恐ろしいものが通り過ぎるのを待つように。
砂漠の闇に紛れて、ドロドロと唸るようなエンジン音が響いている。荷台に布が掛けられたトラックの前には目玉を猛獣のようにぎらつかせた男たちが、めいめい、シャツの上に粗末な布や上着を引っ掛け、アサルトライフルやサブマシンガンを持って集まっていた。
皆が皆、朝焼けた肌に似たような黒い髭を生やし、中には白髪混じりの者も居た。
「サイード、歩けるか」
問いかけた男に抱えられるようにして頷いたのは、片足を引き摺った白いターバンの男だ。豊かな髭の為に年齢が判別し難いが、周囲の者に比べて若くはない。老獪な瞳だけが、別の生き物のようにぎょろりと辺りを見渡す。
「皆、揃ったな」
厳かな声が、夜に響いた。
「今宵、我々の大地を脅かす者にジハードを行う。我々は、西洋人どもの侵略と抑圧には断じて屈しない。ひとつの聖地に生まれた兄弟たちよ、我らの大地を取り戻そう!」
力強い呼び掛けに、居合わせた男たちが呼応した。
次々にトラックに乗り込み、真っ暗な砂漠を駆け抜ける。
目的のETON社は静かだった。フェンスが取り囲む先の広大な土地は、奥に幾つもの長い煙突がそびえ、パイプラインで繋がった巨大な缶詰にも似たタンクが並んでいる。各所にライトと警備らしき人の姿は見えるが、ETON社には私兵が居るわけではない。唸り声を上げるトラックはETON社のフェンスを突き破り、猛然と建物に殺到した。しかし、警報一つ鳴る気配がない。警備の人間たちも、近付いた頃にはいつの間にか消えている。その様子を、やや小高いビルの屋上から見ていた青年は、腹ばいになった状態で溜息を吐いた。
「全部、正面か。潔いんだか、マヌケなんだか……」
ぶつぶつ言いながら覗き見るのはM24・スナイパーライフルのスコープだ。
その指は既に一体化するように構えた銃に掛かっている。
「One.」
呟きと同時に轟音が二回響いた。トラックの一台の動きが不意にもつれて隣の一台にぶつかる。次の瞬間には、「Lucky.」と呟いた声が掻き消える程の爆発が起きた。
炎上する二台のトラックを間一髪でかわすように来た一台に、銃口が向く。荷台の上のカバーが捲れ、据え置かれた銃器がこちらを向いたが、トリガーに掛かった指は些かも動じなかった。
「Three.」
先程と同様に放たれた弾丸が、トラックの運転席を貫く。急ハンドルを切る様にバランスを崩したそれの上から、なんとか銃を構えようとした男は構える間もなく頭部を撃ち抜かれた。息つく間もなく現れた四台目は、ようやく敵に対応すべく銃器を掲げていたが、射程距離がまるで違う。虚しい発砲音を聞いた後、構えを変えることなく呟いた。
「For.」
階下の騒ぎが聴こえるようになってきた中、次の弾丸がトラックに噛みついた。がくんと方向を変えた車体が転がり、誰かの叫び声がした。最初の爆発がもうもうと上げる煙の向こうに、最後の一台が方向転換しようとするのが見えた。
「Oh……That’s uncool.(それはカッコ悪いな)」
無慈悲な呟きが出た後、スコープが捉えていたのは、ターゲットの後頭部だ。
瞬き一つ、躊躇いのない狙撃が貫いた。頭ごと吹き飛ぶように倒れた男を炎が照らし、誰かが伸ばした手も爆発に呑まれた。施設を壊す気だった荷台の爆弾はコンクリートの壁一つ焼くに至らず、焼死体だけを生み出して燃え上がる。
その様子さえ、殺し屋は見ていない。
階下では急に目覚めたように施設が騒ぎ出している。引火による爆発音が続くが、タンクやパイプラインには程遠い――燃え上がるのは、テロリストだけだ。
殺し屋は手早くライフルを片付け、薬莢も拾い上げると、飛び降りるように早足に階段を降りた。
ちょうど二階まで下りてくると、中が丸見えになるからだろう、足元を僅かなライトが照らすだけの踊り場で鉢合わせた警備員が、十以上は年下の出現にぎくりとした顔で立ち止まる。話は通っているらしく、持っている武器を持ち上げもしない。
ハルトは温和に笑い掛けた。
「Hold this.(ちょっとこれ持ってて)」
無造作に持っていたバッグを差し出した青年に、男はちらりとバッグを見てから、ロボットのように頷くと、ショルダーをしかと握りしめた。短い礼を述べた殺し屋は身を翻し、流れる様に窓のある部屋に進んだ。此処も暗いが、外で燃える炎が不気味に赤い。数名の警備員が武器を手にしつつも、火事場を眺めるギャラリーの様に窓際でそわそわとしている。すたすたとやって来たハルトは静かに言った。
「Step back.(下がってくれ)」
低く冷静な口調に、年かさの男が慌てて身を引いて、声の主に驚いて目を丸くした。
ハルトは歩きながら、愛用のベレッタM8000クーガーFを手にし、ごく普通の窓から外を覗き見た。下では、入り口に向けて銃を撃ちながら吠えている男たちが居たが、そう安易に厚みのあるコンクリートは破れないし、ドアは特注、窓は割れても子供さえ通れない細さだ。ハルトは窓をほんの少し開けると、先頭で喚いている男にクーガーの銃口を向けた。二発で呆気なく倒れた男を見て、一緒に居た二人が目を見開くが、もう遅い。
三、四、五、六、七――……金属が弾けるような音を立て、悪魔のような弾丸が、次々と人間を噛み砕く。背後で見ていた警備員は、「彼はまるで、玩具の銃で動かぬ人形を撃っているようだった」と述懐している。殺し屋が一息つく頃、外は炎が燃える乾いた音しかしなかった。息を呑む警備員らの視線も気にならぬ様子でハルトはカートリッジを取り換えると、銃を脇に収め、さっさと部屋を後にした。
授業を終えて下校する生徒のような足取りで戻ってくると、階段の辺りで彫像のように立っていた男に片手を上げた。
「Thank you.」
男は神妙な顔で頷き、両手でバッグを手渡した。
愛想笑いと共に受け取った殺し屋は、社長に宜しくと告げて、来た時と同じように――本当に何でもない様子で通用口から自転車に乗り込み、街の方へと帰っていった。その後ろ姿を見送った警備員は、砂漠に転がった死体と燃え盛るトラックを見て、喘ぐように呟いた。
「What a guy……(なんて奴だ)」
その頃、エルは不安に苛まれてカフェ内をうろうろと歩き回っていた。
意味もなく埃を払い、カウンターを磨き、拍子にごとんとぶつかったポケット内の拳銃にぎくりとする。いっそ店を開けたいぐらいだったが、誰かが逃げ帰ってくるかもしれない。
……いや、逃げ帰ると思うなんて良くない。彼らの計画が上手くいけばETON社を占拠し、政府に要求を――……落ち着こうと深呼吸して座った刹那、何処か遠くで花火が上がったような音が轟いた。
エルは弾かれたように立ち上がった。
「い、今のは……」
ドォン……と、再び音がした。
――いや、トラックに積んだ爆薬をうまく使っただけ……悪い想像ばかり浮かぶのを振り払い、エルは表に出た。
周囲は静かだった。まともな人間なら普通に休んでいる時分だが、皆、門扉を閉じて息を潜めている様だった。
「……!」
再び、同じ爆音が響く。無論、花火ではない。不安と迷いに、靴が砂を引き摺る。
――若い日本人一人に、何ができる……?
自分が言った言葉を胸に、エルは酔っ払いのようによろよろと歩き始めた。徐々に足が早まる。すぐに走り出した足が、イトウの家に向いていた。
――どうか、家に居てくれ。
息を弾ませて辿り着いたとき、イトウが家の前に立っていた。
いつものツナギを身に着け、音がした方を仰ぐように見ている。
「……イトさん……!」
物凄い遠くから走って来たような青年に、イトウが彼にしては驚いた顔をして振り向いた。
「エル? こんな時間にどうした?」
心配そうに近付いて来た男に、エルは呼吸を整える間もなく訊ねた。
「ハルは……?」
「ハル?」
眉を寄せたイトウが、音がする方を振り向いた。
「様子を見てくると、出て行ったが」
「様子を? ETON社に?」
肩を掴まんばかりに凄む青年に、イトウは落ち着くよう促し、静かに訊ねた。
「この騒動は、ETON社なのか?」
「そ、それは……」
エルが言い淀んだとき、その足元から小さな鳴き声がした。
「……ラーラ……」
ズボンに纏い付いて小首を捻る青い目を見つめ、泣き出しそうな顔になる青年の肩をイトウはそっと叩いた。
「エル、ともかく中に入りなさい」
青年は仔猫を抱き上げ、憔悴した様子で頷いた。座ろうとして、ポケットの中身の重く冷たいものにぎくりとした青年を余所に、奥に引っ込んだイトウはすぐにお茶を運んできた。どぎまぎと座ったエルの前に置いたのはナッツの入った茶だ。
二人しか居ない筈だが、イトウはグラスを三つ置いた。
「これはラーラに」
エルは茶が飲めない猫を抱えたまま、物静かな男を見た。高い位置から注がれて泡立った甘いお茶は、妹が好きだったものだ。飲み干したお茶からナッツを摘まみ上げて嬉しそうに頬張っていた姿が浮かび、エルは男の気遣いに頭を下げた。
「……ありがとう」
「そのおてんばも、ラーラに似て、しとやかになるといいんだが」
先日のハルトのように服の引っかき傷を指差すイトウに、エルは寂しげに微笑んだ。
そのとき、闇の中からじゃりじゃりと砂を噛んでくるタイヤの音が聴こえてきた。
イトウがのそりと立ち上がり、砂を払いながらガレージに自転車を運んできた青年に声を掛けた。
「おかえり。エルが来ている」
「エルが?」
猫を抱いて出てきた青年に、ハルトが軽く片手を上げる。
叔父のような薄暗い雰囲気は無く、いっそ清々しいぐらいだ。
服に妙な染みなど一つも見られず、エルは胸の内が少し軽くなる気がした。
イトウは彼のバッグを受け取り、自転車を隅に置きに行った。
ハルトは彼の背に礼を言いながら、エルに振り返った。
「ひどい顔してるな。何か有ったのか?」
「……いや、ごめん、大丈夫。なんだか一人で居づらくて……」
「そうか」
何でも無さそうに頷くと、彼はのんびり歩いてきた。
茶とナッツを満たしたまま余っているグラスに目を留めたが、何も言わずにキッチンへと通り過ぎる。ふわりと焦げ臭い香りが掠めて、エルは落ち着いた筈の内臓が締め付けられる気がした。
「ハル……様子を、見に行ったそうだけど……」
「ああ。トラックが燃えてた」
グラス一杯の水に上下する喉を見つめていると、ハルトの物静かな目が振り返った。
「お前は、行かなかったんだな」
咎めるでも喜ぶでもない調子に、エルは頷くしかなかった。
「……彼らがどうなったか……見たかい?」
ハルトはすぐに答えなかった。コン、とグラスを台に置き、壁に寄りかかってエルを見た。
「死んだよ」
それは、天気を告げるよりも素っ気ない響きだった。
「……」
エルは押し黙り、のろのろと猫をテーブルに下ろすと、力なくはにかんだ。
「……僕、帰らなくちゃ……」
「送っていこうか」
顔を覗かせたイトウが告げるのに、エルは夢遊病者のように首を振った。
ハルトが壁から身を起こし、その肩をトンと叩いた。
「俺が行くよ。お前、顔が真っ青だ」
「ありがとう、でも……」
「こういう夜は、一人で歩かない方がいい」
その一言は、敵意も冷たさも無いが、優しさとも無縁に聴こえた。
殆ど従うような感覚でエルは頷いた。
ふと、振り返ったテーブルでは、仔猫がナッツが入った甘いお茶の匂いを嗅いで、小さな手を伸ばそうとしていた。
風に乗って、煙たい匂いがしてくる気がした。
これは、爆発物が燃えているだけの匂いだろうか。何か、もっと生き物が…………
えずきそうになって口を押さえたエルを、ハルトが振り向いた。
「大丈夫か?」
そっと背を擦る手に、エルは頷いた。カフェはもうすぐそこだ。
大丈夫だと言おうとして、車の走行音に顔を上げた。
刹那、ハルトが路地に向かってエルもろとも倒すように飛び込んだ。他愛なく倒れたエルが驚きと衝撃から慌てて身を起こす頃、友人は既に立ち上がって壁際に寄っている。粗暴な運転をしてきた車が胸の悪い音を立てて行き過ぎ、急ブレーキをかけて止まった。道路の様子を窺うと、粗末なジープから転げ落ちるように誰かが降りた。
何か杖のようなものにすがりながら、蠢くようにずるずると歩く姿にエルは息を呑んだ。
叔父だ。暗がりでよく見えないが、足を引き摺り、背中は老人のように前かがみになっている。
「叔父さ……」
出て行こうとした腕をぐっと引っ張られてエルは振り向いた。ハルトだ。何処にそんな力があるのか、ぴくりとも動かない。
「行くな。危険だ」
押し殺した声は低く、警告は鋭かった。思わず躊躇したエルが何か言う前に、大声が響いて来た。様子を窺うと、ジープの運転手と叔父が怒鳴り合っているらしい。
「乗せてやったのに何をしやがる! 放しやがれ!」
「ふざけるな! 臆病者の分際で……対価を求むなど、何様のつもりだ!」
察するに、乗車賃を渋った叔父から運転手が金を奪おうとしているものらしい。
口角泡を飛ばして喚き立てる叔父から、運転手が幾枚かのディナール紙幣を奪い取り、さっさとジープに戻ろうとした時だった。
支離滅裂な叫びを発した叔父が、不意に懐から黒いものを取り出した。エルがあっと思った瞬間、発砲音が響き渡った。運転手が前のめりに倒れる。近くから悲鳴が上がり、叔父のぎらついた目がそちらを見た。
「うるさい! 裏切者どもめえッ!」
再び、叔父が何処かに向けて発砲した。まともな精神状態ではないのは確かめるまでも無い。泡を吹いて叫ぶ男にエルはひきつけを起こしたように戦慄いた。
「や、やめて……!」
「出てこい異教徒どもが! サイードの仇は俺がとる! 出てこいィィッ!」
銃を振り回して怒鳴り散らす叔父が、唐突に傍の民家のドアを蹴破る。
中から女性と思しき悲鳴が上がった刹那、エルの腕を掴んでいた手がサッと離れた。声を掛ける間もなく脇をすり抜けて行ったハルトが、騒ぎがした民家へと迷いもなく滑り込む。
ダン! と一発、金属を勢い任せに打ち付けるような音がした。
それは叔父の発砲音とは比べ物にならないほど、有無を言わさぬ音のように聞こえた。
エルがよろめきながら民家に向かうと、ハルトは入り口に立っていた。
彼の後ろから覗き見た中では、放心状態の女が我が子を抱き締めて震えている。幼子は目をいっぱいに見開き、母にしがみついていた。その足元には、薄汚れたボロ布で作られたような叔父が倒れ伏している。土嚢にでも変わったような頭部から、どす黒い血が流れ出ている。
エルは、自分の呼吸が止まった気がした。
嗚咽とも呼吸困難ともつかない息切れをしながら友人を振り返ると、彼は手にしていた真っ黒な自動拳銃を脇にしまっていた。
「悪い、汚した」
無感動に出たセリフは、今此処にある何よりも軽く響いた。女は返事もできずにがくがくと震え、ハルトもそれ以上は何も言わない。既に自分とは無関係であるかのように踵を返すと、声も出ないエルの腕を取った。
「行こう。どうせ、当局が片付ける」
エルの視線は叔父とハルトの間を彷徨ったが、意志がないもののように、腕を引いた力に従った。辺りには人が集まり始めていたが、まだ当局や軍人が来る気配はない。
ハルトは鍵が開けっ放しだったカフェに注意深く入ると、そっと扉を閉め、すぐ脇の壁にもたれた。
「君は……」
エルの声は痺れたように震えていた。吐かずにいるのが精一杯だった。
「君は……誰なんだ、ハル……!」
「……俺は殺し屋だ。誰という程の者じゃない」
「殺し屋……?」
信じられない、と首を振った。
「猫を助けるような君が――殺し屋?」
ハルトは冷静に頷いた。
「俺は別に助けていない」
確かに治療をしたのはイトウだが、運んでくれたのはハルトだ。
助けることに戸惑った背を押したのは、この……殺し屋?
「サイードを、殺したのは……――」
「俺だ」
逃げも隠れもする気のない言葉に、エルはがっと目を剥いて吠えた。
「どうして! 君には……君には関係ないだろう!」
「そうだ、関係ない。いつだってそうだ。俺にとっては仕事に過ぎない」
「そんな……どうなると思う! サイードを失った組織はバラバラだ……! みんな次々と捕まって……拷問されて殺されるんだぞ!」
「お前らは、捕まるのも殺されるのも嫌なのに、テロリストをやっていたのか?」
「ハル……!」
胸倉掴むと、エルは憤怒にぎらつく目でハルトを睨んだ。
「訂正しろ! 僕たちはテロリストじゃない……! 正しい教えを守り、真の平和をもたらす義勇軍だ!」
「平和だと?」
冷たい双眸が、怒りに震える目を見据える。
「爆弾で子供の手足を吹っ飛ばして、女性をレイプ目的で拉致するのが、お前たちの平和なのか?」
笑わせんな、と全く笑わずに言った男を、エルは拳も唇もぶるぶると震わせながら見つめた。火薬と、血の匂いが鼻を掠めた。
「エル。イトウはお前を助けたいと言っていた。頼れば力になってくれる」
「……」
無抵抗のハルトのシャツをエルは生地ごと拳を握り締め、恐ろしく座った目で差し出された片手を凝視した。その年齢にしてはしっかりした手だが、綺麗だった。
この辺りの人々とは違う。綺麗な手だ。
この手が、殺したのか。
皆を。
「エル。医師になれよ。お前ならできる」
「黙れ……!」
苦悶に歪んだ顔で叫ぶと、エルはハルトを壁から引き起こしてから突き飛ばした。
「帰ってくれ……!」
泣き叫ぶような声に、ハルトは声を発しなかった。
しばらく、静かな視線を感じたが振り返らなかった。
やがて殆ど音を立てずに扉が開き、外の騒ぎ――人々のざわめきとエンジン音、砂をタイヤが噛む音がしたが、それもすぐに消えた。
振り返った先には、物言わぬ扉があるばかりで誰も居ない。
せり上がる感情のまま、拳が扉を殴り付けた。粗末な木は乾いた音を響かせたが、忌々しくもヒビ一つ入らない。幾度もぶつけた自分の拳だけが、擦り切れ、皮膚が破れ、熱い血に濡れては乾く。こんなもの、痛くも無い。喉の奥の方が、食い縛った歯の方が、在り処のわからぬ胸の奥が痛くてたまらない。
「う、うう……」
何に対してか、涙がこぼれた。殴るのをやめた拳がずるずると扉を這い、懺悔するようにうずくまる。喉元から我が身が千切れるかと思うような痛みを伴い、ぼたぼたと涙がこぼれる。発作の様にしゃくりあげるが、何が辛いのか、何が苦しいのかわからない。がたがたと震える指先が、すがるようにポケットから写真を取り出した。
微笑む少女の顔に、雨粒のような涙が落ちる。
薄暗がりの中――しばらく見つめた後、ふと……ポケットの重みに気付いた。
誘われる様に手を伸ばした先に有ったのは、誰かの温かい手では無かった。
指に触れたのは、この世の何よりも冷たい塊。
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