4.Outsider.

「良い車だな」

往来で声を掛けた瞬間、その肩が跳ね上がった。

「ハ……ハルか、おはよう……」

エルは、向かい合っていたピックアップトラックの荷台に掛けられたカバーをぐいと引き下ろしてはにかんだ。昼近い時分の日差しに汗一つかいていない青年は、背に冷や汗をかいていそうな顔をしている。

「今日は……買物かい?」

「店に行ったら、休みって書いてあったから」

「あ、ああ……今日はちょっと用事が有ったから。――あ、そうだ、猫はどうしたかな?」

明らかに話を逸らそうとする青年に、ハルトは苦笑混じりに着ていたシャツの裾を示した。

「結構な猛獣だ」

糸が数本ほつれ、生地がつれて穴も開いたシャツを見て、ようやくエルが顔を綻ばせた。

「元気そうで良かった。ここ最近では、一番嬉しいニュースだ」

背後のトラックを気にしながらの青年に、ハルトは敢えて街並みに視線を外した。

「お前、昼は?」

「まだ、だけど……」

「ショルバが美味いとこ知らないか。うちの親戚は作る派なんだと。本場を知りたい」

奢るよと告げたハルトに迷ったような顔つきで微笑んだ青年は、トラックが停まっていた建物に声を掛け、応じる声を聞いてからほっとしたようにハルトに振り向いた。

「向こうだ。少し歩くよ」

「ちょうどいい」

隣り合って歩くと、視線を感じる。この若い日本人が珍しいのか、日本人とアマーズィーグの血を引く青年の組み合わせが珍しいのかはわからないが、当のハルトが気にした様子は無かった。

イトウもそうだが、異国でどっしりしているのは国民性なのだろうか。

エルも不思議そうに見ていると、何か顔についてる?と聞き返されて首を振った。

「何もついてないよ。――あの猫、名前は付けた?」

「いや。俺はセンスが無いんだ。お前が付けてくれよ」

「僕? うーん……そうだなあ……あれ、そういえばオスとメスどっちだった?」

「メスだ」

「女の子かあ……」

彼はそこで言葉を呑み、対向車線に停まっていたピックアップトラックを流し見た。

まともに動くのか疑わしい砂まみれの車の荷台には、同じように乾ききった土に汚れたカバーが掛けられている。

「――民間人の死亡原因の八割が軍事衝突や空爆なんだってな」

ハルトの声に、エルはぎくりとした顔で振り向いた。

「……詳しいんだね」

「まあ、日本は安全にうるさい国だから」

日本から来たわけではないが、アメリカとてそんな死亡原因は0.1%にも食い込まない。自衛と称する以外の軍備を持たない日本では尚更だ。交通事故や自殺者の方が遥かに多い。

「……政治が悪いんだ」

エルは悲痛な面持ちで呟いた。通り過ぎる街並みはただ乾いているだけで、何も起きていないように見える。データ上では、アフリカ最大レベルの油田を持つリビアの経済状況はさほど悪くはない。平均月収や物価高を見れば、南米の方が貧しい国は多々ある。

しかし、豊かな資源と住民の生活は安全とさえ結び付いていない。

「東西政府は主権を争うばかりだ……このまま連中に任せていたら、僕たちは砂漠みたいに干からびる運命だろう。周辺国も軍事政府も、国連も――政府の後ろにくっついて、この国を食い潰す気しかない」

「お前、反政府勢力に協力してるんだな?」

ちょうど、辺りに人は居なかった。重い問い掛けを軽く投げた青年を、灰色の綺麗な目がじっと見つめた。

「……そうだよ」

隠すことでもないのか、エルはあっさり答えた。

「君の事も探れって言われた」

「仲良くしてもらってるが正しいな」

ハルトが苦笑いすると、エルも同じように照れ臭そうに笑った。

「君、悪い人には見えないもの。イトさんが良い人だと思うのは本当だし……彼も、君が来てから何となく楽しそうに見える。僕も同世代の人と、こんなふうに話すのは久しぶりで……」

「俺から言わせれば、お前の方がよっぽど人が好いな。安易に騙されるタイプだ」

「ハルは、政府や他国のスパイなのかい?」

「違う」

「それなら誰でも構わないさ」

彼方から吹いた砂塵に、コーヒーにも似た色の短髪が煽られる。いつも何かを憂うように滲んで見える目は穏やかだった。

「ハル、君――はっきり話すけれど、言葉のあちこちが優しいんだ。気遣ってくれているのがわかるよ」

そう言われてしまうと、もう言い返す皮肉は出なかった。

「……俺も、同世代と喋るのは久しぶりだ」

かつては、周囲に大勢居た同世代。彼らとは、こんな風に喋っていないが。

ハルトは肩をすくめてから、歩き出したエルの隣に並んだ。彼がにっこり笑うと、拳銃を吊っている左側が、何やらとてつもなく重く感じた。

「なんて名前が良いかなあ……」

土埃で薄ぼんやりとした日差しに、エルの言葉が消えそうに浮かんだ。



 誰かと食べるショルバや羊肉が乗ったクスクスは美味しかった。

ハルトは健康的な若者といったふうに旨そうに食事をし、言った通りに奢ってくれた。素っ気なく無造作ではあるが、偉そうな感じはしない。一緒に食事をしてスークをぶらぶらしていると、今より若い頃、父親に連れられて来た日を思い出した。

あの頃はまだ母も居たし、妹も元気だった。

彼は道にどっさり積まれた露店の売り物を珍しそうに眺め、商店の壁一面の棚をびっしり埋める茶のパッケージを見て、壮観だと笑った。鰯のオイル漬け缶が有るのに少し驚いた顔をして、面白そうにスパイスやナッツと一緒に買い求めた。初めは奇妙なものを見る目だった店員も、別れる時はにこやかにしていた。

この青年はどうしてか、さらりと相手の内側に入り込む。

食事の後に訪れたイトウの家では、入り口脇のガレージめいた作業場で、イトウが古そうなオートバイを前に小さな猛獣と格闘していた。

「なんとかしてくれ」

こちらを見るなり無表情に訴えた男に、二人の青年は笑った。

手のひらサイズの猛獣はスプレー缶やタイヤの陰に隠れては、男の腕に飛び掛かったり、小さな爪を立てて背中をよじ登るおてんばぶりだ。ハルトが引き剥がしてやると、動く三本足をいっぱいに伸ばして抗議の鳴き声を上げた。真面目な男の作業を妨害せぬよう、リビングに移された仔猫は、カーペットの上を三本足でうろうろと歩き回る。

「やあ、元気そうだね、おちびちゃん」

話し掛けたエルに、仔猫は何度も鳴きながら差し出した手や袖にしがみついた。

処置が良かったのか運が良かったのか、感染症に掛かった様子もなく、傷の治りは良好だった。曲がってしまった脚はどうにもならないが、ハンディを感じさせないほどに仔猫はよく動いたし、ミルクもよく飲んだ。

「君の名前を決めたんだ。ラーラはどうだい?」

仔猫は薄いブルー掛かった目をくりくりとさせ、小首を傾げる様な仕草をした。

「暴れん坊には、上品な名前だな」

茶のグラスを置いたハルトに、エルは微笑んだ。彼はそっと胸ポケットに手を差し入れると、大事そうに一枚の写真を取り出した。ポラロイドカメラで撮られたらしい、とても小さなそれの中で、今より若いエルとよく似た小さな女の子が笑っている。

「……妹の名前なんだ」

観光客が撮ってくれたそれは、手放せないらしい。少女とはいえ、宗教上、女性の写真を撮るのが厳しい社会だ。こっそり受け取ったのだろう、すぐにポケットに収められるそれを見つめ、ハルトは問い掛けた。

「そんな大事な名前をやっていいのか」

「いいんだよ。呼んでもらった方が、彼女も喜ぶだろうから……」

切なくも危うい瞳が猫を見つめる。何も知らない茶色い虎縞が、無邪気に跳ね回る。

「お前、向いてないよ」

唐突に出た一言に、エルが顔を上げた。

「……何に?」

「反政府勢力に」

音もなく茶を飲んだ青年はグラスを置いて、ようやく仕事に集中できるらしいイトウの背を眺めながら言った。

「頭がイカれない内に、此処を出た方がいい。彼はお前を助ける気でいる」

「イトさんが……どうして……」

「さあな。本人に聞いてくれ」

素っ気なく言うハルトに、エルは写真を見つめ、力なく首を振った。

「できないよ……僕だけ逃げ出すなんて……――」

「だからテロリストになるって? それで良くなるのか? 敵の正体ぐらいは見てきた方がまともな政治が出来ると思うぞ」

「君に何がわかるんだ……!」

エルは微かに声を荒げたが、すぐに項垂れて首を振った。

「……ごめん、ハル。君が言うことはたぶん正しい……」

どうしようもないんだ、と付け加え、形の良い眉を寄せて肩を落とした。

「僕たちは……、いや、僕は無力なんだ。反旗を翻すには未熟だとわかっている。けれど、暴力や空腹、貧困、病気に泣いている子供たちを見ていると、どうしようもなく苦しいんだ。彼らは今、辛くて泣き叫んでいるのに、数年後のビジョンを計画するなんて……そんな悠長なことは言っていられない」

今しがた歩いて来た街では、そんな子供とは遭遇していない。

しかし、世界屈指の油田が紛争の火種となっているこの地では、二週間前の戦闘でも犠牲になった子は勿論の事、学校がしばしば運営停止になり、街中で子供が自由に遊び歩く様子は見られない。静かな街の正体は、誰も居ない静寂ではなく――大勢が一言も喋らずに佇む不気味な静けさなのだ。見えないあちこちで、この地を逃れるしかない五十万以上の難民がどこかにひしめいているが為の。

エルは握った両の拳を見つめて首を振った。

「僕だって……暴力を振るうようなことはしたくない。黙って大人しくしていて、誰かが何とかしてくれるならそうするさ。他の誰かの支援というものが、資源も、信じる神も奪い取る救済でなければね……!」

「エル、テロは正義にはなれない」

ハルトの言葉は静かで明瞭だった。

「俺は他の国で反政府勢力を見たことがある。初めは良くても、人間を『敵』だと認識して殺し続けた奴は、みんな頭がおかしくなるんだ。誠意や大義がある奴ほどそうなるし、優しい奴はもっとひどい。それに、お前たちの信仰はアルコールも禁止なんだろ? 逃げ場がないのは狂えと言ってるようなもんだぞ」

「……わかるさ。君が言う通りだ……わかるよ……」

エルのしっかりしている筈の双肩は、バケツで水をぶっかけられたティッシュみたいに萎んでいた。信じるものを疑うのは辛い。それが明瞭であるほど。

「なあ、エル……お前は賢いし、この国を良くできる人材だ。反政府活動なんかやめて、一度この国を出た方がいい。恐らく、彼は上手くやる」

「……内戦に苦しむ人を見捨てて、僕だけ逃げろっていうの? 手足が千切れた子供も、病気の高齢者も見捨てて?」

苦笑いは自嘲に満ちていた。

「できないよ、ハル。君たちの気持ちは嬉しいが、僕は仲間を裏切ることはできない。その気が無くても、裏切りは死だ。僕が逃げれば、残った親戚はきっと殺される……」

焦げ茶色の目はエルを見つめていたが、ふいと逸れた。

「滅茶苦茶だな。お前らの神は、信じる者に死ねというのか?」

厳しい一言に、エルは首を振る事しかできない。

――そうじゃない。そうじゃない筈だった。

でも、自分は神の声を聞くことはできない。この国を牛耳ろうとする下らない政権も、背後から利益を貪ろうとする諸外国も、神が与えたものではないと信じるしかない。ろくすっぽ人命を救わない信仰も、暴力でしかないテロリズムも、これしかないんだと喘ぐみたいに強行する。

仕方ない。それが――この地に生れ落ち、信じることを選んだ者の意志なのだから。

ハルトはもう何も言わなかった。

ただ、静かに茶を啜り、裾をロックオンした仔猫を見つめ、しばらく好きにさせた後にぽつりと呟いた。

「エル、お前……叶うなら、何になりたい?」

「僕……? 僕は……」

ついぞ聞かれたことのない問いに、イトウが肩越しにこちらを見た。

「……妹のような子を……死なせずに済む……医師になりたい…………」

その呟きは囁きほどに小さくて、砂粒よりも儚く聴こえた。



「あの日本人、何をしている?」

夕刻、カフェの一角から放られた叔父の詰問に、エルは清掃の手を止め、煤けたTシャツを纏い、黒い髭に覆われた顔を見つめて首を振った。

「……ハルは、何もしていないよ」

箇条書きを読み上げる様に答えた甥を、どこか薄暗く感じる場所から厳しい目が見つめた。

「あの日本人が、ETON社で白人と居るのを見た奴が居る」

「一緒に居ただけかもしれない」

「お前、何か喋っていないだろうな?」

「何も。彼も、僕に何も聞いてこない」

聞いたのは、美味しいショルバの店と、出国のことと、叶え難い夢だけ。

叔父は動じることのない灰色の目を忌々し気に睨み、首を振った。

「ETON社は信用ならない」

「石油収入を提供してくれているのに?」

叔父の憂慮を知った上で、エルは聞き返した。

無論、それが騒動の要諦なのも知っている。

一国二政府状態が続いているリビアは、東西で争いが続いている。

互いを正当な政府であると主張する背後には、それぞれ大国や国連が絡み、

長年「代理戦争」状態だ。トリポリを拠点とする東部政府は国連承認政府だが、中立を約束している筈の石油産業に関して、西側と度々揉め事が起きている。この渦中に居るのが他国の参入企業で、イタリアに本社を置くETON社は西側の石油施設を実効支配する実質的な支配者だ。東西政府が揉めると、東西の企業は互いに圧力を与える為に閉鎖の運びとなり、メンテナンスや労働者賃金などの揉め事よりも閉鎖期間は長期化の傾向にある。特に両政府が恐れるのは、第三者たるテロリストであり、彼らの活動に石油が流れることだ。閉鎖は世界的な打撃になるのは無論の事、企業としては儲けを得る為に早い再開を望む――故に、米国などの介入が行われる。

ETON社の代表であるダニエルが米国と繋がっている話は公然のことだし、先日は米国のお金持ちが病院に多額の寄付をしていった話はエルも聞いた。それに裏があるとしても、国家も国連も、本来やるべき政府が手をこまねいている中、実効力のある行動を起こした相手を恨むのは筋違いではないだろうか。

人々を助ける為の金は、今、必要なのだ。武器よりも、エネルギーよりも、テロの為の資金や戦士よりも、知恵と正しい情報と、意識ある人材が要る。

それなのに、屈服を弄って立ち上がった筈の彼らの関心は、目の前の資源と武器、潤沢に見えるETON社のフェンスの向こうと、ただ静かに生活しているだけの日本人青年ひとり。

……これでは、侮られても仕方がない。

「叔父さん……怪しいかもしれないけど、若い日本人一人に何ができるの? イトさんが来た時だって皆疑っていたけれど、彼は良い人だったろ。皆の頼みを聞いてくれて、物を直してくれる。怪しいことなんて、何もしていないよ」

「わかったようなことを言うな!」

一喝されるが、エルは怯まぬ視線で叔父を見た。

二週間前よりも、ずっと陰気な顔つきになってきている。何人か殺していたと聞いても驚かない。気が進まない様子の兄を引っ張り込んで死なせた上、その息子と向かい合い、今は何を考えているのだろう。

「お前も敬虔なムスリムだ。正統な地を荒らす連中を断じて排除せねばならない!」

父は、そんなことは言わなかった。

――胸に呟いて、エルは拳を握った。

本来、イスラム教には無実の者を殺さないようにと記されているし、暴力はこの教えの本質ではない。彼らの暴動はジハードの名を悪用した残虐行為だ。

品性を持ち、人権を尊重する考えが有った筈なのに、他国や自国への不満や憤りが、どんどん歪めてしまった。

「……僕はムスリムだけど、それは誰かを排除する理由にはならないと思う」

「生意気な世間知らずめ。他国の連中が何をしてきたか、わかっていない」

「ねえ、叔父さん……皆が言いたいことはわかるよ。でも、僕たちが石油産出の知識や技術がちゃんとあれば、他所の人たちに頼ったり、奪われることもないんだろ? 主権争いなんかしていないで、自分たちの国を自分たちで動かす知恵を身に着ける方が――……」

ガン!と叔父の拳がカウンターを殴り付けた。食器棚が震え、歯を鳴らすように揺れた。エルは唇を噛んだ。震えない様、感覚がなくなるほど拳を握りしめる。こちらをねめつける親族の目は、得体の知れない魔物のようだった。

「お前はよそ者の匂いがする」

瞬きもしない視線が、甥の中身を覗くように刺さる。

そんな叔父の身から微かに匂うのは、スパイスの芳香ではなく、何やら燻したような香りと男臭さが混じった嫌な匂いだった。

「臆病者は戦いには出てくるな。此処の番でもしていろ」

吐き捨てるように言うと、懐から出した拳銃――大嫌いな西洋人が生み出した黒い自動拳銃を置いた。

「……わかったよ」

力なく頷いて冷たい塊をポケットに収めると、幾らも無い売上金をそっとカウンターに置いた。

「余計なことを漏らすんじゃないぞ」

エルは溜息を吐くまいと眉間に皺を寄せて頷いた。紙幣を乱暴に掴む叔父の手――薄汚れて硬そうなそれを見つめ、独り言のように呟いた。

「サイードは……元気にしているの?」

「お前には関係ない」

そう言い放つと、叔父は乾いた夜の中へと出て行った。

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