第111話 きりんのしなん
それはまだ、
「——良いか、麒麟。今日は己が名を書けるようになろうぞ」
水影から教わる手習い事は分かりやすく、「はい!」と麒麟が素直に返事をする。
「まったく。
満仲の方は、未だに麒麟の指南に乗り気ではなかった。それもこれも、水影に一杯食わされたことが原因である。
「おや? 天才陰陽師、不動院満仲殿は、手習い事を指南されるは苦手か? それとも、単に教えることがお下手かな?」
「なっ……! んなわけなかろう! わしは天才! 無論、人に指南することなど、得意中の得意よ!」
「ならば、麒麟という名を、
「字の読み書きは、三条のが指南するはずじゃろう! わしが指南するは、宮中行事や祭事一般での所作のはず!
ぷいっとそっぽを向いた満仲に、水影が問う。
「ふむ。よもや満仲殿、麒麟という字が書けぬのですかな?」
「ななな! んなわけ——」
「ならば、お書きあれ」
いつもは不愛想な水影が、墨と筆と紙の前で、にっこりと笑って見せる。
「ぐぐぐっ……」
引くに引けない満仲に、「
「案ずることはない、麒麟。天才陰陽師、不動院満仲殿が、そなたの名を指南してくださるでな。ささ、満仲殿。麒麟という字を、お書きあれ」
煽られていることが分かっているからこそ、満仲は水影から筆を奪い取った。
「書けば良いのじゃろう、書けばっ……!」
紙を前に、満仲が墨に筆を浸す。筆を上下に、墨を浸す、浸す、浸す——。
「……満仲殿?
「煩い。三条のは黙っておれ。今思い出しておるところじゃ」
じっと紙に目を落とす満仲が苛立つ。
「っふ。やはり書けぬのでしょう? 若干五つにて
どこまでも見下してくる水影に、ついに満仲の堪忍袋の緒が切れた。式神召喚の札を取り出し、ぼんっと白煙と共に、朱雀と青龍が現われた。庭ではなく屋敷内に召喚させたせいで、巨大な二体の式神により、ミシミシっと三条家の天井にヒビが入った。
「なっ……!
「相すまぬのう、三条の。生憎、わしは凡夫なものでなぁ? 式神を召喚出来ても、それを解く術を知らぬでなぁ? このまま、三条家が屋敷を壊してしまうやもしれぬ」
どこまでも皮肉にものを言う満仲に、「この阿呆がっ……!」と水影の口も悪くなる。その間も、青龍と朱雀が徐々に屋敷を壊しゆく。天井から木くずが落ちてきた。
「わわ! このままでは本当に屋敷が壊れてしまいます! お願いですから、この二体を元の場所へお返しください、霊亀さま!」
麒麟が切実に訴えるも、「わしは知らーん!」と、そっぽを向く満仲。
「三条のがわしを馬鹿にしたのが悪いのじゃ。自業自得じゃろう」
「鳳凰様っ、ここは素直に霊亀様に謝ってください!」
「斯様な
「ななっ! 主上に言いつける三条のの方が、ずっと童じみておろう! 何なのじゃ、ちいとばかし、主上が
「私をいくら蔑まされようが構いませぬが、屋敷を破壊せんとするなど、我が三条家を敵に回すも同然! たとえ陰陽大家、不動院家の公達であろうとも、容赦は致しませぬぞ!」
ぐらぐらと揺れ出した屋敷の中で、水影が柱に掴まりながら、言い放つ。
「ほんとっ、二人とも喧嘩はやめてください! こんなくだらないことで屋敷が倒壊したと、ほかの公達の耳に入れば、それこそ三条家と不動院家の恥ですよ! そうなれば、お二人を従えている主上の御顔も潰れてしまいます! もっと主上のことをお考えくださいっ……!」
麒麟もまた、切迫した状況の中で、懸命に二人を説得する。
「麒麟よ、
満仲が怒りに任せて、懐の札に手を伸す。
「たかが陰陽師が家の者が、貴族が屋敷を破壊せんとするなど、御法度ですぞ! 八逆が罪で、御家断絶も覚悟の上か!」
水影も完全にぶちギレている。
「もうほんとにやめて——」
健気に麒麟が説得する中で、そっと後ろの
「……これを二人にみせよ」
男の声と共に、一枚の紙が麒麟に手渡された。
「え? あのっ……!」
詳細を聞く間もなく、ぴしゃっと襖が閉じられた。麒麟は男に言われた通り、睨み合う両者の前に立ち、「これを見てください!」と勢いよく言い放った。
「ああっ……?」
ぶちギレモードの二人。その苛立つ表情が麒麟に向けられた。ぐっと目を瞑る麒麟が持つ紙に書かれていた言葉に、「ん、んんっ……」と俄かに二人が喉を詰まらせ、赤面した。
「えっと……鳳凰様? 霊亀さま……?」
先程までの殺気立った雰囲気が消え、気まずそうに視線を逸らす二人。麒麟が首を傾げて、二人に見せていた紙を見た。そこに書かれている文字など、当然読むことなど出来ない。出来ないが、何故だか急に大人しくなった水影と満仲の態度に、もう一度その文字を二人に向けた。
「わ、わかった! 我らが大人気なかったゆえっ……」
「その言葉を
水影と満仲が二人して、頭を抱える。
「あの、これ、何と書かれているんですか?」
「ん……! んんー……と、かかれておる」
「はい? 今なんて?」
赤面する頬を隠しながら、言葉を濁す水影。らしくない態度に、麒麟が怪訝な表情を浮かべる。たまらず、満仲に訊ねた。
「霊亀さま、これは何と書かれているんですか?」
「わ、わしに聞くでない! 文字の読み書きは、三条のに訊ねよ!」
「ええっ……」
こちらも赤面して、そっぽを向く満仲に、麒麟は気色悪くなった。その時、後ろの襖から、男の声で、ぼそぼそと何かを発する言葉が聞こえた。
「——と書かれておる。とびきりの笑顔で言うてみよ」
「は、はあ……」
聞こえたままに、麒麟は気まずそうに立つ二人に向けて、とびきりの笑顔で言った。
「だいすき、あにうえ!」
「ぎゃふ!」
「ぐふおっ……!」
水影と満仲が二人して、麒麟の可愛らしさにズキュンされた。ついでに朱雀と青龍も麒麟の笑顔に絆され、満仲が術式を解く前に、ドロンと消えた。
「わが式神をもほっこりとさせるとは……何たる脅威よ、麒麟」
「はあ……。我ながら、くだらぬことで意地を張ってしまいました。麒麟の名は私が指南いたしまする。貴殿は壊れた屋敷を修復されよ」
「なっ、何気にそちらが方が面倒なのじゃが……。まあ、わしも大人気なかったでな。仕方ないのう」
そう言って、緊急招集された
「……なにゆえ
「
「うむむ。納得いかぬ」
満仲と二人で
「なっ……! 漢字で書くのではなかったのか、三条の!」
「いきなり左様な高難度の字を書かせるはずがございませぬでしょう? まずは平仮名にて、己が名を書けるようにならねば、先へと進めませぬでなぁ? そうだと言うに、どこかの誰かは、きりんという字も書けずにいた模様。何を左様に悩まれておいでなのかと、大いに疑問でございましたが」
「ぐっ……! 真、いやらしい男よのう!」
「おや? 勝手に勘違いされたは、そちらですぞ?」
「くそう! やはり三条のなど嫌いじゃ! きらいきらいきらい!」
ぷいっとそっぽを向いた満仲に、水影が追い打ちをかける。
「っふ。私は、騙されやすい貴殿は、わりと好きですぞ?」
「気色悪いことを申すでないわ! 何をちんたらしておる、安孫のすけ! 早う終わらせて帰るぞ!」
「お、おお。何を左様に怒っておるのだ、まんちゅうは……」
まったく訳が分かっていない安孫は、ただただとばっちりを受けているに過ぎなかった——。
「——とまあ、こういうこともありましたが、その節はお助けいただき、ありがとうございました、
影なる帝として、麒麟が御簾の中から、実泰に礼を言う。
「なに。あれらは、元より弟属性の者らゆえな。末弟気質のそなたが可愛く申せば、喧嘩の仲裁など容易い」
「
改まった口調で、実泰が訊ねる。「ん?」と首をかしげる麒麟に、「とぼけることはない」と実泰が、はっきりと言う。
「懐かしい話をしたということは、そういうことじゃろう? 生まれてくるやや子が名を、決めかねておるのか?」
核心を突く実泰の言葉に、麒麟が、ぐっと背筋を伸ばした。
「……確かに名も決めねばなりませんが、今後のことも、考えなければなりません」
「主上は、そなたの行く末は、そなたに任せると仰せになられた。ならば、そなたが進みたい道に進むが、主上も喜ばれるのではないかのう。かあや姫も、そなたと共に月へと帰ることを望んでおるのじゃろう? ならば、答えは一つではないか?」
「しかしっ……! おれは主上の影。主上が危険に晒された際に、その身代わりとなるのが、おれの務めです! そのために、おれは主上の瑞獣——麒麟になったんです!」
切実に麒麟が訴える。忠義と愛の狭間で苦しむ麒麟に、実泰が、そっと目を細める。
「そなたの気持ちは良う分かる。されど、そなたの瑞獣としての務めは、真に左様なことか? それを、主上が望まれておられると思うておるのか?」
「え……? おれは浮浪児で、主上に拾われた身で……」
「有事の際、主上はそなたを切り捨てると、左様に思うておるのか? 左様な意味で、主上は影という言葉を使われておると思うておるのか?」
実泰に問われ、麒麟が頭を抱えた。首を振り、「……分かりません」と答える。
「私も主上が御心までは分からぬ。されど主上は、己が民だけでなく、臣下の幸せも望まれておいでだと思うがのう」
「幸せ……」
「
「……決めました。もう迷いは致しません」
覚悟を決めた麒麟が、真っ直ぐに実泰を見つめた。
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