第74話 鳳凰と九尾の狐

 月では朝の照明となり、森で一夜を過ごした朱鷺ときらが、王宮へと戻ろうとしていた。昨晩、死の淵を彷徨った水影みなかげは、あれから再び眠りに落ち、安孫あそんはというと、一睡も出来ないでいた。二人とも、救世主に傷を癒され、不調なところはどこにもない。それでも、安孫は自分のせいで水影が死の淵を彷徨ったことに、重苦しい責任を感じていた。

 寝起きの水影が泉で顔を洗う。その背後に立った安孫が、小さく吐息を漏らし、俯いた。

「……酷い御顔にございまするぞ」

 その気配を察知していた水影が、手拭いで顔を拭きながら、言った。はっと安孫が顔を上げるも、気まずい空気に、悲痛な表情が収まらない。

「……昨晩は、わが命を助けて頂き、御礼申し上げまする。されど、あのような命知らずな行動は、水影殿らしゅうございませぬ」

「私らしゅうない? 私らしいとは、如何様いかような行動で?」

「水影殿は、知に優れし、冷静沈着な御仁ごじん。その上、武にも秀でる名門貴族の公達きんだち。文武尊徳に生きられる貴殿が、主上しゅじょう以外の窮地に、己が命を投げうるなど、左様な無謀を犯す御仁とは存じておりませんでした。水影殿は幼き頃より、それがしのことを、無き者と視ておられる。昨晩も左様に思うて、某のことは、放って置かれて良かったのですぞ」

 安孫の胸に、ちくりと痛みが走る。本当に言いたいことは、こんな素っ気ないことではない。それなのに、沈鬱とした表情が晴れることはない。何故なのか――?

「……安孫殿が命を救うつもりで、のような無謀を犯したとお思いか?」

自惚うぬぼれるな、とお思いならば、謝りまする」

「自惚れ? 貴殿は己が価値を、お判りでない。私こそ、貴殿に救われた身にございますれば、自惚れなどと謙遜されますな。さきに申し上げた通り、私は貴殿を眩く思うておりまする」

 水影が安孫と向き合い、そっと微笑んだ。

「水影殿っ……! 某こそが貴殿に救われたのですぞ! だのに某は、貴殿のことを嫌いなどとっ……!」

うそぶくものにございませぬ、にございましょう? それは呪いの影響ゆえと、此度こたびは我が心内にて留めておきまする。それに、わが命が斯様かようなところで潰えるとも、思うてはおりませぬでな。必ずや、斯様な結果になると、高を括っておりましたゆえ」

「なんと! 水影殿はまんちゅう同様、未来が吉兆が占えるのか?」

「んんっ……あの御仁の名は出されますな。私に予見能力はございませぬ。前に一度、我らがちきうへ戻りし後がことを、ハクレイ殿より、お聞きしただけにございまする」

「はくれい殿に?」

 安孫が朱鷺と話すセライに目を向けた。その愁いに満ちた視線に、水影がその時のやりとりを思い出す。

『——僕も君達の未来を予言してあげよう。……君達が地球のヘイアンに戻ってから暫らくして、皇位継承を巡って、国を二分する大戦が始まるだろう。その大戦で帝である朱鷺君も、武将である安孫君も、それから下国に追いやられることになる君も、時の帝が信頼する者は、皆死んでしまうだろう。誰もが悲惨な最期を迎えるんだ。どんなに優れた知恵や勇猛さを兼ね備えていようが、いずれ君達は大きな鷲の前に、敗北するんだよ』

 ぎりっと奥歯を噛み締めた水影に、「水影殿?」と安孫の目が向く。本当にハクレイに予見能力があるかは分からない。今回たまたま命が助かっただけかもしれない。ハクレイが予見した不吉な未来は、何があっても避けなくてはならない。

「……我らも、主上が瑞獣ずいじゅうとしての務め、しかと果たさねばなりませぬな」

 呟きに似た言葉に、「水影殿?」と安孫がその顔を覗く。直後、安孫の顔に鉄拳が飛んだ。

「ぐふっ……! み、みなかげどの? なにゆえかっ」

「やはり、斯様かようなしみったれた関係、しおらしゅうない。我らはれより後も、ギスギスした鳳凰ほうおうと九尾の狐の間柄でおりましょうぞ」

 さっと無表情となった水影に、「わ、わけが分からぬ……」と安孫が、鉄拳が下った鼻を押さえ、首を傾げた。

「——水影、安孫、王宮に戻るぞ」

 遠くから朱鷺が呼びかけ、「御意」と水影が主の下へと向かう。

「うむむ。真、幼き頃より、よう分からぬ御仁ぞ。あいつち時分は、あれ程素直であったのに……」

 安孫もまた、腑に落ちない表情で主の下へと向かう。優しい朝の照明下、朱鷺と水影、セライが穏やかに自分を待つ姿がある。安孫もまた、安穏たる気持ちで足を進めるも――不意に、以前見た不吉な夢が脳裏に走った。

『——そなたが一等、遅かったでな。安孫、そなたが一等、死ぬのが遅かった』

「……某が、一等遅かった?」

 足を止めた安孫は、ぎゅっと目を閉じると、頬を二回叩き、「夢は夢ぞ!」と、不吉な未来が訪れないよう、しっかりと前を向いた。

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