第70話 “視えざる者”
月では一刻の猶予もなく、
幼い頃から学問に長け、才気あふれる姿から、神童と呼ばれてきた水影は、時折見ず知らずの場所で、目が覚めることがあった。
「——はて? ここは……?」
「なっ……! またか、なにゆえ……?」
我が身に起きたことが分からず、その場で全身を震わせる。
「……
俄かに背後から声がして、振り返ると、そこには父、
「ちちうえ……?」
朝日を背負う父が眩しく、直視出来ない。気が付くと、相槌丸は晴政の胸の中にいて、ぎゅっと抱き締められていた。
「ちちうえ? いかがされたのです? あいつちは……」
「許せ、相槌丸。
父の言葉に、どっしりとした重みを感じ取った相槌丸は、その腕の中で自分の掌を見た。
「……この血は、だれのもので、ありましょうや?」
「……だれのものでもない。何も感ずるな。ただ、そういうものだと思い込めば良い」
「おもいこむ……」
父、晴政の言葉を、ぐっと胸の奥にしまい込む。そうしなければ、相槌丸は今にも泣き崩れてしまいそうだった。
(あいつちは何もしらない。何もかんじない。この血は、だれのものでもない)
そう強く思い込んだ。それから後も幾度となく、同じ光景を目の当たりにした。いつしか父が迎えに来てくれることはなくなり、ただ一人、無感情のままに、返り血を拭っていく。
「——相槌丸?」
不意に背後から兄、
「
にっこりと笑う。兄の前では、幼い弟のまま、可愛らしくありたかった。
「
怪訝そうな実泰の表情に、「ああ……」と相槌丸の視線が下を向く。だがすぐに正面を向き、笑って答えた。
「狩りの練習にて鳥に矢を放った折、真上より獲物が落ちてきたゆえ、斯様にも返り血を浴びたのでございます」
大人びた相槌丸の言動に、「……真か?」と実泰が疑いの目を向ける。
「真にございますれば、何の問題もございませぬ。ささ、今日も双六にて、あいつちと勝負いたしましょう」
無理にでも明るく言って、相槌丸は、さっと返り血を拭った。相槌丸は、これが常軌に逸した何かであると分かっていた。常人としての務めではなく、選ばれし者が請け負う何かであると分かっていた。だから、何も知らない兄の前では、ただ常人として、無邪気な童であり続けたかった。しかし、何も知らない童のままであり続けることは叶わず、ついにその何かが判る日が訪れた。
「——相槌丸よ、御前ももう九つじゃ。いい加減、己が身に起こっておることを、知っても良い歳じゃ」
宵の刻限、灯の前で、父、晴政が苦痛の表情で言う。相槌丸は感情を殺し、父をしっかりと見つめた。
「
「……
すっかり父に対しても、感情の起伏は見られない。成程と、晴政が頷く。
「其れだけ強うなっておれば、真実を話しても、
父の身勝手な見解に相槌丸は苛立つも、「早う」とその先を促す。「分かった」と晴政が背筋を伸ばす。
「相槌丸、御前は“視えざる者”に取り憑かれ、その恨みを晴らすべく、自らを死に追いやりし者へ、天罰を下す役を担っておる」
父の告白に、相槌丸が
「……
「それでは
「……ならば、禁中も我が存在を容認しておると?」
「恨みを晴らされる方——禁中としても、身代わりとなる者を用意しておる。恨み屋がおれば、恨まれ屋もおるということじゃ」
「恨まれ屋……」
陰陽寮にて隠し持つ、人あらざる者の存在を、相槌丸は知っていた。それらが
「……であらば、彼の返り血はすべて、恨まれるべき公達が用意した、身代わりの血」
「左様。御前の申す通りじゃ」
「身代わりを惨殺したところで、“視えざる者”の怨念が消えるとは思えませぬ」
「彼奴らは、恨みを晴らせたらば、相手は誰でも良いのじゃ。
「極楽浄土? 左様な場所が、真にあるとお思いで?」
「御前は神仏を信じぬのか?」
「当然にございましょう。あれだけ血を浴びてもなお、我が身に神罰は下ってはおりませぬゆえ」
半ば自嘲するように笑った。
「何とも寂しい奴じゃのう」
「左様な死生観を抱かせたは、父上にございましょう?」
「確かにそうじゃな。御前は何も悪くない。すべては、今なお悪しき慣習を繰り返さんとする、禁中を変えられぬ、
そこでようやく、相槌丸に感情が込み上げた。
「……兄上は、此のことは、ご存じかっ……?」
「実泰は何も知らぬ。我が三条家にとって、実泰は光。御前は影ぞ、相槌丸」
ぐっと相槌丸は拳を握り締めた。辛辣にも聞こえる言葉。しかし、それは相槌丸の願うところでもあった。
「願わくは、兄上には此れより後も、此の件につきましては、伏せたままに」
相槌丸が、憎しみを抱く父の前で平伏する。
「当然ぞ。御前は三条家の次兄。陰ながら嫡男・実泰を助け、影ながら生きて参れ」
「嫡男……兄上はともかくとして、嫌いな言葉にございまする」
それから後も、相槌丸は、“視えざる者”の意のままに、その恨みを晴らしていった。そこに何の感情もなく、ただ影として生きることが、己に課せられた人生だと思い込んだ。
やがて元服し、三条水影として禁中に登ることとなっても、“視えざる者”は恨みを晴らすべく、身代わりの体を乗っ取り、その魂が天へと還ることを強く望んだ。禁中に掬う闇が大きければ大きい程、水影の存在意義は証明されていく。日々、返り血を浴び、日に日に心を失っていく。
「——父上! 弓当てにて勝負いたしましょう! 今日こそは
春日家の嫡男——
「我は影。貴殿は……光」
相反する存在だからこそ、強く惹かれる何かを、知らず知らずのうちに、その心に宿していた。
「もし貴殿が私の立場であったらば、
幼い頃からの間柄であっても、どこかつんとした態度で安孫に接してきた水影。その脳裏に、木漏れ日の下、登った木の枝から手を差し伸べて、「あいつち!」と自らを呼ぶ
水影は己が手に目を落とすと、返り血で汚れる
今宵も、水影に“視えざる者”が取り憑いた。珍しく女人の霊で、男のそれよりも、幾分も気性が荒い。一方、恨まれている方も身代わりを用意し、薄暗い小屋の中で、薬によって眠らされている。ほんの少しの明かりを頼りに見えた、今宵の身代わり。それはまだ年端もいかない、幼い浮浪児の少女であった。水影が次第に自我を失っていく中で、頭の中で、女人の鬼気迫る叫び声が聞こえた。怨霊となった女人が、牙を剥き出しに、己が憎悪を晴らせる歓びに、狂気のまま笑った。そこで水影の自我が途切れた。怨霊が取り憑いた水影の体を使い、傍らに置かれた刃物を持って、ふらふらと身代わりに近づいていく。
「……あ、ああ、よう、やっと、あの女に、うらみを、はらすこ、とが……」
怨霊の狂気に水影の顔がゆがむ。嬉々と少女の前で刃物を振りかざした、その瞬間——。
(御止めあれっ)
ぴたっと怨霊の意思が止まった。背後から聞こえた声に、鬼気迫る怨霊が振り返る。
「……だれや、わらわを止めんとするはっ……」
怨霊の見る先に、身代わりである水影が目を瞑り、鎮座している。
「おまえは……わらわの、身代わりのはずっ……! なにゆえ、おまえがそこにおるのじゃっ……」
(よう我が身をご覧あれ)
水影に促され、怨霊は我が手に目を落とした。そこにあるのは肉の体ではなく、生気を失った手——怨霊となった己の手であった。
「なっ……! おまえの体をかえせっ! ようやっと、わらわの番となったのじゃ! 童の分際で、わらわの邪魔をするなっ……」
再び水影の体に己の魂を宿らせ、我が恨みを晴らすべく、怨霊が少女の体に馬乗りとなった。その心臓目掛けて、刃物を振りかざす――。
(……どこぞの、名の知れた姫君と、お見受けいたしまする)
また背後から上がった水影の言葉に、再度怨霊が動きを止めた。鬼気迫る怨霊の顔から、生前の、本来の見目麗しい姫君の姿に戻った。
(左様に恨みを抱かれ、亡くなられた貴殿に、心よりお悔やみ申し上げまする)
「……さい、……れ」
刃物を持つ姫君の体が震える。その姫君に向けて、水影は話し続けた。
(お
「うるさい、だまれっ……! だまれだまれだまれっ……」
姫君がきっと振り返り、鎮座する水影に憎悪をぶつける。
「おまえは大人しく、わらわの恨みを晴らせばよいのじゃ!」
(……ほう? 我が身を使い、その童の命を奪うと?)
「そうじゃ! 誰かに恨みを晴らさねば、我が魂は成仏などせぬっ……」
(ほーう、ほうほうほう。……ふざけなさるなよ。我が手は、貴殿らの恨みを晴らすべく、あるのではない)
瞼を開けた水影が、眼光鋭く姫君を見上げる。思わず臆した姫君が、おろおろと後ずさりしていく。
(貴殿ら“視えざる者”が我が身を使い、その恨みを晴らす。その身勝手な行いも、それを容認し、身代わりを用意する禁中も、恨みを晴らせば極楽浄土へ昇るなどという帰依心も、左様な風習すべて、くそくらえ、にございますれば、今すぐ我が身をお返しあれっ……)
「なっ……」
姫君が、ぐうっと我が身を強い力で引っ張られる感覚がした。それは水影も同じで、パチッと頭の奥で音が鳴ったと思った瞬間、両者の体が本来の自分のものへと戻った。
「……ふう。我が身を取り戻しましたぞ」
(
「
(ぐっ……! 斯様なことで、わらわの積年の恨みつらみが晴れるはずがないっ……! 身代わりは身代わりらしゅう、わらわの手となり足となり、あの女の命を奪えば良いのじゃ!
「お黙りあれ!」
童の気迫に、ぐっと姫君が押し黙った。
「……過去、幾人もの身代わりが、幾人もの身代わりを殺めてきた風習など、とうに意味を成してはおりませぬ。その
水影に説得され、姫君は己の手に目を落とした。それは生前のままで、まだ誰の血にも染まっていない。姫君はゆっくりと目を閉じると、そうじゃのう、と水影に目をやり、穏やかに笑った。
(水の君の申す通りぞ。わらわが間違うておった。わらわはわらわのまま、天へと還ろう。彼の童の命を奪うては、彼の女と同じになるでな)
「左様。次生まれいずる時は、きっと幸せな人生となりましょうぞ」
(ああ。その時は、水の君に会いにゆく。それまで、わらわと同じ“視えざる者”に
「そのつもりにございます」
水影が力強く頷いた。それに満足した姫君の姿が、光と共に消えていく。
(強き優しき
ふっと姫君の魂が消え、辺りを灯の明かりが揺らいだ。糸が切れたように、水影がその場に倒れこむ。
「はああああ」
大きく息を吐いて、大の字で天井を見上げた。
「上手く事が進んで良かったぁ」
始めこそ、“視えざる者”に抵抗など出来なかったが、次第に自分の意識を保ちつつ、説得出来るまでの力を溜めてきた。これ以上、“視えざる者”に好き勝手されることに、苛立ちを覚えてならなかったのである。悲痛な顔で、悲惨な人生を送るなど、水影は真っ平御免だった。
それから後も、水影は“視えざる者”相手に、説得を繰り返した。ある時は優しく、ある時は叱咤、ある時はブチギレ……そういった努力の下、水影が返り血を浴びることはなくなっていった――。
生死の淵を彷徨う水影が、忌まわしき過去を思い出し、そっと
「……乗り越えたと、思うておったのに」
そう呟いて、水影は己の手に目を落とした。そこには、“視えざる者”に傀儡されていた当時と同じく、誰かの血で染められている。
「
そう呟き、水影が一歩踏み出そうとした、その瞬間——。
「お待ちくだされ!」
誰かの手に引かれ、一気に
「——水影っ……!」
意識を取り戻した水影の目前に、今にも泣きだしそうな
「……しゅ、じょ……」
そうしてすぐ傍に、意識のない安孫の姿もある。しかしその手は、しっかりと水影の手を握っていた。
「……そん、どの……」
ぼんやりと水影は走馬灯を見た。
『——あいつち!』と笑う、幼い安孫——
途切れ途切れの意識の中、水影は、安孫の手を強く握り返した。
「……貴殿に、助けられて、ばかり……。きでんなど、きらいであった、のに……」
「水影! 己を強く持て! 俺より先に死ぬなど許さぬぞっ……!」
「しっかりしてください、三条さん! 今ここで死んだら、春日さんがどう思うか、賢い貴方なら分かるでしょ! 目を瞑ってはいけません! 貴方がいるべき場所は、こちら側ですよ!」
朱鷺とセライが、必死に水影に呼びかけ続ける。しかしその甲斐虚しく、水影の呼吸が弱まり始めた。
「みなかげ……? そなたは我が
呆ける朱鷺に、「
「死ぬことなど、許さぬ。我が
瞬きもせず、朱鷺が呟く。呆けた物言いではあるものの、そこにある執念に、思わずセライは声を失った。
パチパチと火の粉が上がる中、暗がりの中を、一人の青年が近づいてくる。
「あれは……救世主?」
セライの目に、怪我を負った救世主が映った。ふらふらと水影と安孫に近づき、その手をかざす。
「きゅうせいしゅ、どの……?」
朱鷺の頬に、一筋の涙が流れた。水影と安孫の体が光に包まれた。いつかと同じく、二人の傷を癒していく。あっという間に治癒し、二人の顔に血色が戻った。
「おお、おおっ……!」
救世主の奇跡の力に、朱鷺が目を見開く。パチッと目が覚めたように、朱鷺もまた、いつもの朱鷺に戻った。
「水影、安孫!」
主の呼びかけに、二人の瞼が、ゆっくりと開いた。
「春日さん、三条さん!」
「……しゅじょ、せらい、どの……」
安孫が頭を押さえながらも、ゆっくりと上体を起こした。
「……これはまたもや、救世主どのに、助けられました、かな?」
水影もまた、この状況を理解し、全身の傷が消えてなくなっていることに、今度こそ信仰心が芽生えそうになる。
「何とお礼を申し上げれば良いか……。魔訶不思議な力ではあるが、
「……ソウダ ワレハ カミ デアル ヒノクニ ノ カミ アノモノ ラ ヲ メッスル タメ ナラバ イクラデモ ソナタラ ノ キズ ヲ イヤソウ」
「神よ、感謝申し上げまする」
朱鷺が深く頭を下げた。その信仰心に、救世主も我が身の傷を癒していく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます