第47話 口づけ

 地球では望月が雲に覆われ、松明たいまつの灯りだけを頼りに、実泰さねやすが従者の二人を引き連れ、急ぎ御所へと向かっていた。事の発端は今朝、月と地球を繋ぐ特別な竹――嵐山らんざんの黄金竹を見たいとの帝からの要望を受け、二人が嵐山に案内した直後、急にその特別な竹を切り落とすよう、帝が命じたのだ。切り落とされた竹に、「これでは帰れません!」とレイベスが抗議するも、人が変わったように、帝は従者の二人を三条家に幽閉するよう命じた。そうして何も知らないカーヤは、清涼殿せいりょうでん――夜の御殿おとどで今この瞬間、帝と向き合っている。

「ようやく、私の望みを叶えて下さるのですね」

 カーヤが、白小袖で帝の体に寄り添った。御帳みちょう台の上に座って、同じく小袖姿の帝が、カーヤの頬に触れた。

「貴方の望みは、王たる者の子が欲しい、ということでしたね」

「ええ。帝様の御子を、この手に抱きたいのです」

 微笑みを浮かべるカーヤに、帝は――麒麟きりんは、そっと唇を近づける。目を瞑ったカーヤの美しい顔に、麒麟は動きを止めた。自身も目を瞑り、ゆっくりと体勢を戻した。

「帝、さま……?」

 立ち上がって外に出た帝の後を、カーヤも追った。帝はの子に立って、雲から顔を出した望月を見上げていた。

「……私は、ずっと貴方を欺いておりました。貴方だけでなく、臣下も、民も。私は、真の帝ではないのです。影なる存在。王たる者とは程遠い、ただの浮浪児上がりの男。……泥と糞に塗れたおれを、帝様が拾い上げて下さったのです。本物の帝様は、あの月におられます。美しく、静かで、遠く離れたあの場所に、貴方の望みを叶えることが出来る、唯一の御仁ごじんは、おられるのです」

 麒麟は、目を伏せて振り返った。そのまま深く頭を垂れた。

「今までずっと黙っていたこと、心よりお詫び致します。かあや姫があまりにお美しく、一目見た時からこの影の心を捉えて離さず、卑しき身でありながらも、貴方の傍にいることが、何よりも幸せでっ……」

 溢れ出す涙が、簀の子に落ちていく。カーヤは胸を押さえ、地球での思い出を振り返った。この三十日近くを帝――影なる男と過ごし、カーヤもまた、幸せでないはずがなかった。確固たる目的も、この男でなければ、寝所に押し入ることさえ嫌悪し、簡単になかったことにしたかもしれない。

 松明たいまつの灯りが近づいてきた。御所に忍び込んだ実泰さねやすと従者の二人に、麒麟は顔を上げて微笑んだ。

「流石、水影様の兄上様にございますね。必ずや、かあや姫を取り返しに来て下さると、信じておりました」

 身なりを整えた実泰が、「水影もそなたを信じておった」と力強く頷いた。

「どういうことですか?」

 カーヤの質問に、麒麟が目を伏せた。

「今朝、あちらとこちらを繋ぐ嵐山らんざんの特別な竹を、切り落としたのです。従者の方々は三条家に幽閉し、貴方も我が手に収める。真の帝を帰って来させず、おれを真の帝に据えようとする、公卿様方の陰謀を受け入れたのです。生まれだけではなく、心までもが卑しい。あの頃の不満を貴族のせいにしていたのは己自身なのに、貴方を失いたくない一心で、この場に居続けることを選んでしまった……」

 麒麟は、初めて帝と会った時の問答を思い出した。何故貴族は己のことしか考えぬのか、という問いに対し、考えなければそこにいられないから、と答えた自分が正しかったと、自嘲した。

 麒麟は自分の掌に目を向けた。

「おれは、帝様の影。あの御方と比べたら、なんと小さな手だろう……」

 過去、名すらなかった男が、主や愛する者らを裏切った現在いま、その先の未来はない。胸元には麒麟の刺青が彫られているも、その名に相応しくないと、ぐっと拳を握り締め、目を瞑った。

「カーヤ殿下、お早く。あちらでは今、ルーアン殿下と地球人によるクーデターが起きております。妹君が、宰相相手に国を奪い返す為に戦っておいでです」

「なんですって? ルーアンが……」

「はい。嵐山らんざんの竹は切り落とされてしまいましたが、セライ様が過去の技術を復活させ、再び二つの星を繋ぐ準備をされています。さあ、我らも月に戻りましょう。今こそ雪辱を果たす時です!」

 二人が足早にカーヤを三条家へと連れ戻す。「待って!」とカーヤは立ち止まった。影なる男に振り返る。真実を話してから、一度たりとも目を合わせようとしない男の下に駆け寄った。勢いのまま口づけをする。面喰った男に、カーヤはそっと微笑んだ。

「たとえ帝でなくとも、その存在が影であっても、私を愛しているのであれば、必ず迎えに来て下さい」

 それだけ伝えて、カーヤは従者と共に、三条家へと向かった――。


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