第37話 麒麟の本音

 公卿衆による評定の席で、御簾みすに座る麒麟が目を伏せた。彼らは皆、自分が影なる存在――偽物の帝であると知っている。言い方を変えれば、彼ら以外は、皆自分が本物の帝であると思い込んでいる。

 御簾の前に一人の頑強な男が座った。所々禿げていた頭をすべて剃り上げて、今では剃髪ていはつ姿で袈裟けさに身を包んでいる。武家の出でありながらも、従一位じゅういちいの官位を持ち、先の鷲尾帝わしおてい時に於ける摂政、現太政大臣として、国の一切のまつりごとを執り仕切る男は、つい先日出家するも、未だ評定の席で、絶大なる権力を握っていた。名を春日道久、出家名を浄照じょうしょうと言った。

「先日、の者ら月よりの使者が、あちらが世におわす、主上しゅじょうとの交信なることに、成功したようじゃ」

「真ですか! それで方々かたがたの御様子は? 月が世での御暮らしに、不自由はございませぬでしょうか?」

の者らの報告によれば、つつがなく、月が世にて御過ごしあそばされておられるとのことじゃ」

「左様ですか。良かった……」

 ほっと胸を撫で下ろした麒麟きりんに、「真に左様に思うておるのか?」と、浄照が鼻で笑った。

「無論にございます」

「流石は麒麟殿。欲など持たぬ、真の霊獣が如き御仁にございまするなぁ?」

 評定の席に着く公卿らが、一斉にせせら笑いを浮かべた。それに居心地の悪いものを感じ、麒麟は、ぐっと唇を噛み締めた。浄照が愉快そうに鼻先を上げた。

「そなたは主上が留守居を任された影じゃ。この場におる我ら以外、誰もそなたが偽物の帝であるとは思わぬ。そこでじゃ、麒麟よ。一層のこと、このまま真の帝になってしもうては如何どうじゃ?」

「え……?」

 予想だにしない言葉に、麒麟は瞬きもせず、目の前で薄ら笑いを浮かべる浄照に、息が詰まった。

「いやなに、そちらの方が、そなたにとっても都合が良かろう? 何せ、の月よりの使者、は、そなたを真の帝と信じ、色目を使つこうておるようじゃしのう? 麗しき姫に好かれるも、己が身は偽物であると、ただの名もなき浮浪児上がりであると、左様な負い目から、そなたも姫の想いに応えてやれぬ歯痒さがあろう? ならば一層のこと、真の帝になってしまえば良かろう。人間、欲が無いはずがないのじゃ。そなたも麒麟ではなく、一人の男として、かあや姫との逢瀬を愉しみたかろう?」

「わたしは……主上の麒麟で、瑞獣が一人で……」

 ほろほろと出る言葉に、浄照が立ち上がる。杯を片手にの子に出て、酒面さかもに浮かぶ月に目を落とした。

「太古、月が民らは我が先祖らに対し、大戦を仕掛けたと伝承ではある。それゆえ、月を直接見るは不吉とされ、斯様かように水面に浮かべて、月見酒なるものをするようになった。じゃが、月を浮かべた酒を飲むというのも、また一興じゃ。今此処ここに、真の帝はおる。そうして我が嫡男、安孫あそんものう。ふっ……」

 そう思惑宜しく笑って、浄照が月を浮かべた酒を飲み干した。御簾の前に戻ってくるや否や、浄照が麒麟に向かって、深く頭を垂れた。

「浄照様っ、左様な真似はっ――」

「本日、れより、我ら公卿衆は、貴方様を真の帝と奉り、崇拝する所存にございますれば、あちらが世におわす帝のことは、一切御忘れ下さいますよう、御願い申し上げまする」

 浄照に続いて、他の公卿らも頭を垂れた。

「なりませぬっ! 私は影。真の帝は朱鷺とき様にございます! 交換視察の任が無事御済みあそばされた折には、再び朱鷺様御自らが、政に対しより一層の――」

「それゆえにございまする!」

 浄照の迫力に思わず麒麟は押し黙った。日の下一の武人と謳われた男にじっと睨まれ、恐怖心から目が泳ぐ。

「麒麟の本音は何処いずこにございましょうや? 慈悲深く、己が欲に溺れることのない麒麟も、本音では、真の帝として、かあや姫の前に立ちとうと、左様に御考えなのではございませぬか?」

 ドクンと麒麟の心臓が鳴った。先刻のカーヤの涙が蘇り、深く目を瞑った。

「……欺いていたのは、おれも同じ……」

「それも口に出さねば分からぬことにございましょう。影なる存在が、光となる時にございまする。貴方様も、我らも、心は一つにございましょう?」

 御簾の向こうで顔を上げた麒麟に、浄照が笑みを浮かべて、言った。

「臭い物には蓋を……邪魔者は月が世にて、その生涯を閉じれば良いだけのことにございますよ、

「邪魔者……」 

 麒麟は――帝と呼ばれた男は、ゆっくりと掌を返し、自分のそれに目を落とした。





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