第36話 カーヤの望み

「――七夕、でございますわね」

 釣殿つりどのから星空を見上げていた帝に、十二単姿のカーヤが声を掛けた。隣に立ったカーヤに、「装束には慣れましたか?」と穏やかに訊ねる。

「ええ。最初は重苦しく感じられましたが、今となっては、所作も完璧ですわ」

 そう言って、カーヤは扇子を広げて、優雅に舞った。裾を踏み、思わず体勢を崩したところを、「おっと」と帝が受け止めた。初めて触れ合うその温もりに、カーヤの心臓がドクンと高鳴る。

「大事ありませぬか? どうやら、完璧に着こなすには、まだまだ時が必要にございますな」

 見上げた帝が、自分を見て優しく微笑みを浮かべた。かあっと頬に熱が集まるのを感じ、不意に帝が手を離したのを、カーヤは袖を引き、顔を伏せて首を振った。

「かあや殿? 如何いかがされました?」

 目を伏せたまま、カーヤは口を開いた。

「……今宵は七夕ですわ? 我が故郷である月でも、ルナフェスという祭りが行われるのです」

「ほう、るなふぇす。一体、如何様いかような祭りなのですか?」

「本来は、王族による民衆への慈善活動として、王族から民衆へ施しを与えるものであったのが、いつからか、大切な間柄である者同士が、互いに贈り物をする日に変わっていったのです」

「王から民への、施し……」

 麒麟きりんの脳裏に、ふと浮浪児時分の記憶が蘇った。かつて帝である男に見いだされ、今のこの立場にある。あのまま浮浪児を続けていれば、いつどこで死んでいたかも分からない命だ。名もない男が麒麟という名を与えられたそれは、紛れもなく、王たる帝からの施しであった。

「ですが、それ以上にルナフェスは、私にとって、意味のある特別な日なのです」

 カーヤは顔を上げると、本来の目的を告げる為、帝の前で装束を脱ぎ始めた。

「な、なにをされるおつもりですか!」

 動揺した帝が目を反らし、紅潮する表情を手の甲で隠した。カーヤは十二単の下に着ていた赤いシルクドレス姿となり、その場に跪いた。

「か、かあや殿! 斯様かような場所で、女人が薄着になってはなりませぬ!」

 慌てて麒麟はカーヤの肩に小袖こそでを掛けた。露出する細い腕に、思わず生唾を飲む。カーヤは帝の手を取り、その黒い瞳で見上げた。

「帝様、私はずっと、帝様を欺いて参りました」

「欺いて……?」

「はい。私は月の都の官吏などではなく、あちらの世界の、第一王女の立場にあった者なのです。そうして共に視察団として参った者達は、私が王女であった時の護衛なのです」

 物陰に隠れていたレイベス、フォルダンの二人が、帝の前で深く頭を垂れた。

「王女とはっ、月が世の姫君でございましたか! これは大変ご無礼仕りましたっ……。されど、それは過去の呼称。何故王女ではなくなられたのです?」

「私の父、前月の王が急逝し、宰相による反乱が起きたのです。その際、母である第一王妃が失脚させられ、私と妹もまた、地球への追放と、メイドへの身分落ちという仕打ちを受けました。妹は未だ苦汁の日々を送っていることでしょう。私もまた、地球への追放は、心が打ち砕かれる想いでした。しかし、私は然るべき目的を持って、この星へと訪れたのです。どうか帝様、私の望みを聞き入れてはもらえませんでしょうか……?」

「望み? 貴方の望みとは?」

 帝の問い掛けに、カーヤは握っていたその手を、自分の豊満な胸に引き寄せた。

「なっ! 左様な振る舞いはなりませぬと、散々っ――」

「どうしても地球の王たる方の子が欲しいのです! かつて私がそうしてこの世に生を受けたように、私もまた、母と同じく、地球の王とっ……!」

 そこまで叫んで、カーヤが咳き込んだ。

「かあや姫! 大事ございませぬか!」

「カーヤ殿下は幼い頃よりお体が弱く、宰相は、殿下が地球にて、お命が尽きるとの思惑でいるのです」

 屈強な体付きのレイベスが、ぐっと拳を丸めて言った。息を乱しながらも懸命に手を握ってくるカーヤに、麒麟は息を呑んだ。

「私は何があっても、生きて月へと戻ります。必ず我が子を抱いて、あの国を取り戻してみせますっ……!」

 弱い体でも、強い信念を持ってカーヤは帝を見上げた。麒麟はカーヤの胸から手を離すと、そっと微笑んだ。ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「私は、貴方をとても愛おしく思うております。ですが、貴方を抱くことは、私には許されないのです」

 それがいつもの貞操云々だと思った。カーヤは俯き、一筋の涙を流した。

「……ルナフェスは、私にとって特別な日。地球の七夕に当たるその日に、母は私を抱いて、地球から月へと戻ったのですから……」

 呟きに似た言葉に、麒麟がそっと目を細めた。



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