第35話 掌にあるもの
「おお! かあや殿、今朝もお早うございまするな!」
現れた女人――かあやと呼ばれる月よりの使者に、帝は丁寧に頭を下げた。月の都の官吏と称し、見目麗しく、とてもこの世の者とは思えぬ月の民は、かあやと共にある二人の男も、凛々しい顔立ちをしている。ただ肌の色が白過ぎて、最初見た時は、死人のそれにも思えた。
一方、かあやと呼ばれることに、どこかもどかしいものを感じていたカーヤも、若々しく丁寧な態度の帝に、徐々に心を許していった。それこそ最初は、目的の為に寝所にまで押し寄せ、色仕掛けで帝の心を落とそうとしたものの、貞操はしかと守るべきと諭され、思い通りに行かないことに腹を立てていた。それでも飾り気がなく、異なる星の者に対しても礼節を重んじる帝の姿勢に、今では自然と笑みを浮かべている。
異文化交流の一環として、カーヤとその従者、赤髪に
時の帝――本物ではなく、偽物。影なる存在。
麒麟――本来は大陸に伝わる霊獣の一種で、空想上の生き物に過ぎないが、酔狂者の主が大陸の『礼記』を基にした、『仁ある政こそ、王たる資質。それ即ち、麒麟の顕現なり』との考えから、ただの浮浪児に麒麟と名付け、時の帝の側近にまで取り立てたのであった。
酔狂者――一言で言えば、物好き。好奇心旺盛で、三年前の帝即位後、四面楚歌であった中でも、どうにか二人の腹心を見つけ出し、彼らと共に都を視察中に、酔狂者の若き帝は、一人の浮浪児を見つけた。少年でも青年でもない、十四、五の男。凡そ似た年の者が、白昼堂々と犯す悪事に、帝は興味を示したのであった。市で大根を盗み、男がそれを同胞の幼子らに分け与えていた時、不意に後ろから声を掛けられた。まずい……と動揺を隠せず、振り返ったそこに、泥と糞の上に立つ、三人の公達の姿があった。当時はただの冷やかしか、死人見たさの好奇心かと思ったが、その中心にいた男こそが、時の帝であった。『何故、そなたらは
『
『御貴族様が自分たちのことしか考えてないからだ』
『ふむ、成程……』帝は考える素振りを見せた後、
『では何故、貴族は己のことしか考えぬと思う?』
男は少し考えて、答えた。
『……考えなければ、そこにいられないから……』
『ふむ、面白い』
そう言うと、帝は無理やり男を連れていった。
『どこに……?』
『付いて来れば分かる。
帝に命じられた通り、水影と呼ばれた男は、それまで男が寝食を共に苦労を分かち合ってきた同胞らに、麻袋一杯の何か、恐らく銭を渡した。それから男は御所――清涼殿に上がり、彼ら公達が途轍もない人間であると思い知らされた。
酔狂者の男は時の帝で、その従者、春日安孫は
『かげ?』
『左様。そなたは浮浪児であったにも関わらず、他と一線を引くものを持っておる。学べばより一層、我が目的が為の手駒となろう。本日より水影の下で学ぶが良い』
流石に恐れ多いものを感じ、男は慌てて断った。反対する安孫の声もあったが、『これは何ぞ?』と突然帝が自分の掌を見せ、訊ねた。
『……主上の、てのひら、でございましょう?』と、安孫が困惑して答えたのに対し、『主上の、生きてこられた証、にございまする』と、水影が礼を重んじるように答えた。
『さて、そなたは如何答える?』
帝が笑って訊ね、男は息を呑むも、真っ直ぐに答えた。『あなたのその手は、民を生かしもすれば、殺しもするものです』
その答えに水影の眉間が動いた。うんうんと頷きながら、ほんの少し笑みを浮かべて、
『確かに、主上の指先一つで、民の命運は決まりましょう』
『成程、左様な捉え方も出来まするな』
思わず感心した安孫だったが、男が素性も知れぬ浮浪児であることを思い出し、咳払いをして体裁を保った。
『やはり俺の目に狂いはないようだな。俺はまだ帝に即位して間もない。正直、
『名は……ありません。
『ならば本日より、そなたを麒麟と呼ぶこととする。そなたも己が名を訊ねられし折は、麒麟と答えよ』
『きりん……』
男は三人の公達の前で、自らに降りかかった運命が、これから先の未来へ自分をどう誘うのかと考えた。しかし答えなど出るはずもなく、麒麟と名付けられた男は、水影の下で学問や礼儀作法、政の仕組みなどを徹底して教え込まれた。そうして三年後――麒麟を影として残した帝は、二人の瑞獣と共に、己が目的を叶えんと、あの月へと昇っていった。
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