第35話 掌にあるもの

 御所ごしょ――清涼殿せいりょうでんにて朝日を浴びる帝に、「おはようございます」と声を掛ける、一人の女人。

「おお! かあや殿、今朝もお早うございまするな!」

 現れた女人――かあやと呼ばれる月よりの使者に、帝は丁寧に頭を下げた。月の都の官吏と称し、見目麗しく、とてもこの世の者とは思えぬ月の民は、かあやと共にある二人の男も、凛々しい顔立ちをしている。ただ肌の色が白過ぎて、最初見た時は、死人のそれにも思えた。

 一方、かあやと呼ばれることに、どこかもどかしいものを感じていたカーヤも、若々しく丁寧な態度の帝に、徐々に心を許していった。それこそ最初は、目的の為に寝所にまで押し寄せ、色仕掛けで帝の心を落とそうとしたものの、貞操はしかと守るべきと諭され、思い通りに行かないことに腹を立てていた。それでも飾り気がなく、異なる星の者に対しても礼節を重んじる帝の姿勢に、今では自然と笑みを浮かべている。

 異文化交流の一環として、カーヤとその従者、赤髪に雀斑そばかすのレイベスと、紫紺色の長髪を一つに束ねるフォルダンの三人は、ヘイアン装束で、御所内で行われた半夏生はんげしょうの宴に参加した。池に咲いた蓮を愛でながら、地球の公家衆と酌み交わす酒に、白昼の空に浮かぶ月に故郷を想う。カーヤは帝に酌をし、色目を使う。帝はそっと微笑むだけで、抱き寄せることも、手を握ることもしない。季節は汗ばむ夏――七夕まで残り五日と、本来の目的に向けて、最後の落としどころに迫っていた。それなのにも関わらず、カーヤの下には、結婚を申し込む貴公子らが後を絶たない。毎日断りを入れる身としても苛立たしく、どっと疲れた。本当に愛されたいと願う男は、帝ただ一人であった。

 時の帝――本物ではなく、偽物。影なる存在。主上しゅじょうに留守居を命じられ、一部の公卿を除き、臣下と民を欺く男は、生まれ落ちての名はなく、十四かそこらの時に、主より賜った麒麟きりんという大層な名を持っている。

 麒麟――本来は大陸に伝わる霊獣の一種で、空想上の生き物に過ぎないが、酔狂者の主が大陸の『礼記』を基にした、『仁ある政こそ、王たる資質。それ即ち、麒麟の顕現なり』との考えから、ただの浮浪児に麒麟と名付け、時の帝の側近にまで取り立てたのであった。

 酔狂者――一言で言えば、物好き。好奇心旺盛で、三年前の帝即位後、四面楚歌であった中でも、どうにか二人の腹心を見つけ出し、彼らと共に都を視察中に、酔狂者の若き帝は、一人の浮浪児を見つけた。少年でも青年でもない、十四、五の男。凡そ似た年の者が、白昼堂々と犯す悪事に、帝は興味を示したのであった。市で大根を盗み、男がそれを同胞の幼子らに分け与えていた時、不意に後ろから声を掛けられた。まずい……と動揺を隠せず、振り返ったそこに、泥と糞の上に立つ、三人の公達の姿があった。当時はただの冷やかしか、死人見たさの好奇心かと思ったが、その中心にいた男こそが、時の帝であった。『何故、そなたらは斯様かような生活をしておる?』と帝に訊かれ、『国のまつりごとのせいだ』と男は不躾に答えた。付き添いの一人が、いきり立つ仕草を見せたが、もう一人が袖を掴み、首を振ったのが分かった。

何故なにゆえ国の政が悪いと思う?』

『御貴族様が自分たちのことしか考えてないからだ』

『ふむ、成程……』帝は考える素振りを見せた後、

『では何故、貴族は己のことしか考えぬと思う?』

 男は少し考えて、答えた。

『……考えなければ、そこにいられないから……』

『ふむ、面白い』

 そう言うと、帝は無理やり男を連れていった。

『どこに……?』

『付いて来れば分かる。水影みなかげの者らに餞別を』

 帝に命じられた通り、水影と呼ばれた男は、それまで男が寝食を共に苦労を分かち合ってきた同胞らに、麻袋一杯の何か、恐らく銭を渡した。それから男は御所――清涼殿に上がり、彼ら公達が途轍もない人間であると思い知らされた。

 酔狂者の男は時の帝で、その従者、春日安孫は従五位下じゅうごいのげ兵部少輔ひょうぶのしょうゆうであり、三条水影は六位蔵人ろくいくろうど式部少丞しきぶしょうじょうと、互いに弱冠十五歳にして、朝廷の要職に就いていた。帝は男の前に座ると、突然、『そなたを本日より俺の影とする』と、勝手な宣言をした。

『かげ?』

『左様。そなたは浮浪児であったにも関わらず、他と一線を引くものを持っておる。学べばより一層、我が目的が為の手駒となろう。本日より水影の下で学ぶが良い』

 流石に恐れ多いものを感じ、男は慌てて断った。反対する安孫の声もあったが、『これは何ぞ?』と突然帝が自分の掌を見せ、訊ねた。

『……主上の、てのひら、でございましょう?』と、安孫が困惑して答えたのに対し、『主上の、生きてこられた証、にございまする』と、水影が礼を重んじるように答えた。

『さて、そなたは如何答える?』

 帝が笑って訊ね、男は息を呑むも、真っ直ぐに答えた。『あなたのその手は、民を生かしもすれば、殺しもするものです』

 その答えに水影の眉間が動いた。うんうんと頷きながら、ほんの少し笑みを浮かべて、

『確かに、主上の指先一つで、民の命運は決まりましょう』

『成程、左様な捉え方も出来まするな』

 思わず感心した安孫だったが、男が素性も知れぬ浮浪児であることを思い出し、咳払いをして体裁を保った。

『やはり俺の目に狂いはないようだな。俺はまだ帝に即位して間もない。正直、さきの帝が幼子だったゆえ、まつりごとに口出しする俺を煙たがる公卿くぎょうらも多く存在する。正に四面楚歌よ。だが、俺には絶対の従者がおる。俺に間違いがあらば、間違まちごうておるから正せと指摘し、俺が危ないことをしようとすらば、危ないからやめろと制止する者らだ。勝手ながら、俺はこの者らのことを、随従ならぬ瑞獣ずいじゅうだと思うておる。優れた知恵を持つ鳳凰ほうおうと、護り神でもある九尾の狐。そうしてそなたもまた、我が瑞獣が一つ、如何いかなる生き物であっても傷つけず、優しく、仁ある王の前に現れるとされる、麒麟きりんよ。我が瑞獣は俺の掌を見て、各々に現在、過去、そうしてそなたは、未来を見据えた。これは運命ぞ。三者三様の見方を持って、我が味方と成す。そなた、名は何と申す?』

『名は……ありません。あんちゃんとか、そういう風に呼ばれてたんで』

『ならば本日より、そなたを麒麟と呼ぶこととする。そなたも己が名を訊ねられし折は、麒麟と答えよ』

『きりん……』

 男は三人の公達の前で、自らに降りかかった運命が、これから先の未来へ自分をどう誘うのかと考えた。しかし答えなど出るはずもなく、麒麟と名付けられた男は、水影の下で学問や礼儀作法、政の仕組みなどを徹底して教え込まれた。そうして三年後――麒麟を影として残した帝は、二人の瑞獣と共に、己が目的を叶えんと、あの月へと昇っていった。



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