第9話 Crisis×Crisis×Vampire

キュンッ!


「いっ!」


ドサッ


 しかし考えは甘かったらしく、足に痛みが走ってアタシは地面に倒れ込んでしまった。見ると左の太股辺りが何かに切られ、傷口が焼かれていた。血が赤い筋を作る。そのまま視線を滑らせると銃口をこちらに向けた男の人が目についた。冷たい金の瞳がアタシの恐怖を連れてくる。


「外しましたか。意外に足が速いんですね。しかし……」


「走れ!」


 男の人の声を遮って聞こえたアイゼンバーグの声にアタシの身体は反応した。考えるよりも先に立ち上がり、夢中で廃ビルの中に転がり込んだ。文字通り、足の痛みと急に動いて足がもつれたことによってこけて倒れて転がった。その御陰で足だけでなく体中も痛くなった。


「痛ー」


 呟きながら冷たいコンクリートに手をつき、ゆっくり体を起こして座る。髪から滴り落ちる水が冷たい。続いて左足を見ると傷が赤いカーテンを作っていて、スカートが少しだけ焼け焦げていた。めちゃくちゃ痛い。しかしこの傷は何だ。切り傷でなし焼き傷でなし、銃で撃たれるとこんな傷になるのだろうか。それにあの銃、弾がなかったように思える。アタシの見間違いかもしれないが。


ドゴゴゴゴッ


 聞こえた凄まじい音に驚き、振り返った。多分きっとアイゼンバーグがあの男の人と戦っているんだ。廃ビルのどこかにぶつかったんだろうか。コンクリートなどが壊れる音に聞こえた。となれば下は危ないかもしれない。せっかく彼が身を隠せるようにしてくれたんだ。瓦礫の下敷きになってみすみす死ぬことになれば失笑だ。彼は大丈夫、それに相手の人もきっと。だからアタシは自分の心配だけしておこう。


 アタシは床に手をついてゆっくり立ち上がり、丁度近くにあった階段を上ることにした。怪我をした足が痛い。転んだ所為ですりむいた両手も膝も痛かったがこんなことで泣き言は言えない。


 一歩一歩上の階に上りながら考える。廃ビルは砂や埃だらけで、ヒビが入った壁に時折砕けたコンクリートが目立つ。使われなくなってからどれだけ経つのだろう。


 そういえばアタシが買い物に出てからどれだけ経ったのだろう。


 壊れていないことを願いながらスカートのポケットを探り、取り出したスマートフォンを見た。


 二十時五十八分。あぁ、もう二時間になるのか。よくよく確認してみると受信メッセージが十二件もあり、着信が七件もある。それは全て両親と弟からのものだった。弟のまだぁ? から始まり、どうしたの? 何かあったの? 気づいて、という母からのもので終わる。そりゃぁものの十分で往復できるところに買い物に出かけて二時間ほど経っても戻ってこなかったら心配するに決まっている。アタシは苦笑いしながら母のスマートフォンに電話をかけた。


「もしもし!?」


 は、早いな。ワンコールで出るなんて相当心配しているらしい。スマートフォンの前で張りついているのか?


「もしもしお母さん? アタシだけど……」


「アンタ何やってんの!? こっちがどれだけ心配したと思ってるの! 早く帰って来なさい!」


 耳がすごく痛い。スマートフォン越しだが相当な迫力がある。そんなに心配かけていたのかと思うと少しだけ嬉しくなる自分がいる。おかしいと思われるかもしれないが、心配してくれるその心が嬉しいのだ。自然に笑みがこぼれてしまう。こんな私は人でなしだろうか。


「ごめんごめん。帰るから……」


 二階まで上ってまだ上まで行こうと階段に足をかけた時、踊り場に何かが見えた気がした。しかし思い過ごしだったのだろうか。目をこらしてみても何もない。


「ほのか? どうしたの?」


 思い過ごしだ、そうに違いない。


「いや、何でもない。ちゃんと帰るから心配しないで」


「帰れると思ってんだ」


 突然後ろで聞き覚えのある声がして身体が跳ねるほど驚いたアタシは、目を見開いて振り返った。


 そこに、いたのは、紫頭のお兄さん……。深いしわの刻まれた眉間、そして……真っ赤な瞳にアタシが映り込んでいる。アタシの心臓がバクバク叫び始めた。


「ほのか? どうしたの、ほのか?」


「……ごめんまた後で!」


 身体が完全に硬直する前にスマートフォンを耳から離して階段を駆け上がった。お兄さんはそんなに追ってくる気がないのかそれとも遊び半分なのか、後ろを見るとゆっくり歩いて上ってきていた。多分お兄さんはアタシを狙ってここに来ているのだ。アイゼンバーグではなくてアタシを……! お兄さんの目を見た瞬間に分かった。


 アタシへの殺意のこもった目。ゾッと身体が震えた。


 アタシは逃げ切れないと分かっていても、足が痛くとも、ゆっくりでも確実に近づいてくるお兄さんが怖くとも、逃げるしかない。


 階段を上りきり、三階に来たアタシは上るのを止めて階を縫うように走った。錯乱できるとは思っていない。でも上るだけではいずれ突き当たりに来てしまう。


「あっ!」


 壊れて落ちていた天井のコンクリートに躓いて転んでしまった。ドシャッという音に続いてスマートフォンが転がる音がする。


 足が、痛い! ふと揺らいだ目はあの傷から流れる血を見た。走った所為でひどくなったらしい。


 最悪だ! アタシは床を両手で叩きつけ、そのまま手を突っ伏して立ち上がり、再び走り出した。もうスマートフォンなんてどうでもいい! アタシの心にあるのはお兄さんから逃げたいということだけだ!


 埃が立つ中を走り続けてからしばらく経ち、アタシは絶望に近い心境に陥った。くるっと回ってまた階段まで戻ってこられると思っていたのだが、いつの間にか壁がアタシを囲んでいた。怖れていた突き当たりだ……! こうなってしまったらもう走ることも出来ず、為す術が無くなったという失意が満たしていくだけになる。それに加えて、死への恐怖。アタシはうるさい心臓を押さえつけて荒い息をする、だけ。


「もう、逃げ道は無くなったぜ」


 全身の血がすごい速さで引いていった。ゆっくり、声のした方を向こうと身体ごと動かす。


「頑張ったとは思うけど……残念だ」


 お兄さんがこちらに歩いてきている。アタシはお兄さんを凝視しながら少しずつ、すり足で後退した。でも背中に冷たい壁の感覚がして、がくりと膝から床に崩れ落ちてしまった。身体が、動かない。


「怖ぇか? 俺が」


 闇に揺れる赤い瞳。それだけで十分アタシの恐怖を駆り立てる。恐怖というものが人を支配すると、ホントに動けなくなるのだ。


「そりゃ怖ぇよな。俺はお前を殺そうとしてんだもんな」


 ……お兄さんは何を言っているのだろう。アタシは恐怖を忘れようと頭の隅に抱いた疑問にすがりつくことにした。お兄さんは、どうしてそんなことを言うんだろう。どうして、そんなにも泣きそうな顔をしているんだろう。どうして……?

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