如月駅 Ep.7
酸素不足で目眩がして、地面にへたり込む。空気の塊が、喉の奥でつっかえる。いつもは意識できない心臓の鼓動と血管の脈打ちに、生の実感を感じる。
「なんだったんでしょう、あれ」
「怪異だろう」意地でも列車の中に引き籠もればよかったと、後悔する。もう、あんな怖い思いはしたくない。帰ったら退職願を書こう。
「顔が青いぞ」あなたが火を点けたせいです、と言いたい気持ちを唾と一緒に呑み込む。
「奴らには銃が効く。必要以上の恐怖を感じる必要はない」そう言われても、怖いものは恐い。完全武装の特殊部隊員となり、手ぶらでバンザイ突撃を敢行するゾンビを、一方的に蹂躙するタイプのホラーゲームさえ、恐ろしくてやったことがないのだ。
「それにしても、生存者。見つかりませんね」黒川は何事もなかったように、キョロキョロと周囲に視線を走らせる。そのSAN値精神力を少しでいいから、分けて欲しい。
顔を覆う指の隙間から、外の世界を見る。そこにあるのは、世界の壁に黒漆喰くろしっくいを塗りたくったような闇。踏切の赤い光も、公衆電話の眩しいライトも、自動改札の眼光も、ここには届かない。サボタージュを決め込む彼らに代わり、月明かりがアスファルトを照らす。梅雨時の川みたいに太く、探照灯のように強い満月の光が。
息を呑んだ。
出発したときは、半月のはずだった。
「課長、月が!」言い切る前に、愛想のない上司が言葉を引き取る。
「ああ、満月になってるな」気付いてたのかよ。
「どうした、そんなに驚いた顔をして。散々、奇妙な現象が起こっているんだ。今さらだろ」それもそうか、と(無理に)納得させられ、視線を少し下げる。月と地面の間、この世とあの世の境目に引っかかったみたいに、看板が立っている。高速道路で見るような、緑の案内標識。まっすぐ伸びる矢印の横に『出口』『Exit』、『나가는 곳』、『выход』の標記。多分、どれも同じ意味だ。
「課長、看板があります」どうせ気付いていて、言及する必要が無いから黙っているだけなのだろう。だけど一応、報告しておく。
「この先、出口か。胡散臭いが、行くしかないな」
そっちは気付いてないのかよ、と心の中でツッコミを入れる。。恐怖と不安のせいか、今日は心の中の粗品漫才師が荒ぶっている。光の当たる角度のせいか、看板は虚空に浮いているように見えた。
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どこにも繋がっていないトンネルがあったとすれば、それは果たしてトンネルと言えるのだろうか。眼前に広がる漆黒はどこまでも黒く、それがどこかに通じているとは思えない。実際は、炭鉱や地下倉庫なんかもトンネルと呼ばれるみたいだから、トンネルなのだろうが、この伊佐貫トンネルに関しては穴と呼ぶ方がしっくりくる。口を開けて待ち構える袋小路。踏み込めば二度と戻れない事象の地平線。
「本当に、入るんですか?」今回ばかりは、勇猛果敢な課長も、恐怖心の麻痺した黒川も、躊躇っているようだった。仮に穴の反対側があるとすれば、それはこの世ではなく……。腐って塊だまになったコレステロールみたいな寒気が、血管を昇ってくる。
唐突に、闇のなかに光が灯ともる。ゆたゆた揺らめく蝋燭の光。ガラスの水槽を泳ぐランタンの光。行灯を覆う和紙には紅葉の模様が浮かぶ。どれも温かい色なのに、温度を感じられない、シェールガスの炎みたいな煌きらめき。薄い影が何重にも重なるが、その輪郭はどこか現実感がなくて朧気おぼろげだ。
『シャン』透き通った音色が響く。
『シャン』まるで、彼らの登場に合わせて稼働を始めた舞台装置。
「何の音でしょう?」黒川が聞く。
「鈴ですかね」俺が答える。キーホルダーについている鈴みたいに、ちゃっちな軽い音ではなく、もっと重たく、神秘的な音。
ボンヤリしていた灯りが次第に大きくなり、音のボリュームも上がる。鈴の響きの裏側から、キーキー唸る尺八や、拍子の外れた小鼓こつづみ、そして場違いなエレキギターの姿を覗かせる。
そして光は、トンネルの外へと達する。月の筋光きんこうとトンネル信号の緑が、影の正体を暴く。二本の足に、二本の手、一つの頭に、二つの眼球。紛うことなく、彼らは人間だった。
スーツを纏うサラリーマン、パンクなギターを抱えた女子高生、タンクトップ一枚いちまいの若者、虎柄のT-シャツを被った老女。
「あれって……」車の中でインプットした行方不明者リストが、頭の中に表示される。圧縮された画像が解凍され、ピクセル数が少しずつ増えていく。彼らの顔立ちと顔の骨格は行方不明者と相違ない。生存者を見つけた。喜ばしいことのはずだが、本能は警鐘を鳴らす。
「我々は怪異対策庁の者です。皆さんを救助しに来ました」課長は進路を塞ぐように、行列の前に躍り出る。統一感のない人の波は、俺達を無視して淡々と進む。
「様子が変だ」課長は、無駄にかっこよく、そして巧みにギターを弾く女子高生の腕を掴もうとするが、その試みは失敗する。課長の腕が、彼女の体をすり抜けたのだ。
「え?」戸惑っていると、みるみる行列が迫ってくる。しかし足が竦すくんで、この場から動くことができない。列の先頭に立つのは、さっきの女子高生。『ぶつかる』、『痴漢で訴えられる』と思ったが、俺の体と彼女の体は触れあうことなく交差する。そして、彼女の頭の中が、眼球が、神経が、脳が、見えた。見えてしまった。それが生々しくて、グロテスクで、こんなものが俺の中にもあるのか、と具体的に想像してしまって、気持ちが悪くなってきた。胃から酸っぱい液体が込み上げる。口を両手で塞ぎ、それを飲み込み、胃の中へ押し戻す。大きく息を吐く。
おそらく青白く変色したであろう顔を上げる。いつの間にか、トンネル信号の色が緑から、ベニテングダケみたいな毒々しい赤に変わっている。その赤の真下。学校の体育館にあるような、長細いスピーカーからノイズが漏れる。そして……
『間もなく、電車が参ります。お乗り間違えにご注意ください』その声は祭り囃子に掻き消されることなく、はっきりと聞こえた。
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