第16話 エプロン
放課後、俺は念のため病院へ行き、手首の様子を診察してもらった。
診断結果は軽い捻挫。
幸い、骨などに異常は見られず、医師の診断では一週間ほどで完治するとのことだそうだ。
大事に至らずほっと胸を撫でおろしつつ、湿布の処方を受けてから、俺は家へと帰宅したのだが、今俺の家のキッチンには、なぜかエプロン姿に身を包んだ寺花さんが立っている。
手際よく包丁で食材を切り分けていき、夕食の支度をしているのだ。
「何か手伝うよ」
「ダメ! 安野君はケガ人なんだから、ゆっくり休んでて!」
「……はい、分かりました」
語気強めに言われて、俺はしゅんと項垂れて椅子に座り込むことしか出来ない。
どうしてこんなことになっているかというと、病院から帰って来ると、玄関前で寺花さんがスーパーの袋を持ったまま出待ちしていたのだ。
そして、『怪我をさせてしまった代償として料理を作らせて欲しい』と頼み込んできたのである。
「軽い捻挫だから平気だよ」と俺は断ったのだが、寺花さんは聞く耳を持たず、俺の家に上がり込むなり、そそくさと夕食の準備に取り掛かり始めてしまったのだ。
そして、手伝いも断られて今に至るというわけ。
怪我をさせてしまったという罪悪感が寺花さんの中にあるは分かるけど、いくら何でも過保護すぎると思うのは俺だけだろうか?
そんなことを思いつつも、手持無沙汰になってしまってやることがない俺は、ダイニング越しから、寺花さんが夕食の準備を進めていく様子を観察することにした。
ピンク色のエプロンを制服の上から身に付け、手際よく料理を進めていく寺花さん。
まるで、同棲したての彼女にご飯を作りに来て貰っているみたいな出来たてほやほやのカップルみたいな感じがしてきてしまい、なんだかムズムズして落ち着かない。
何も手伝えない居た堪れなさも相まって、余計なことばかり頭の中に浮かんできてしまう。
そんな葛藤を繰り返しているうちに、部屋にいい香りが立ち込め始める。
寺花さんがお鍋をかき混ぜていて、そろそろ完成間近といったところだろうか。
お玉で味見用のお皿へ掬って、口元へ持って行って味見をする。
上手くいったのか、寺花さんは満足げに微笑んだ。
「うん、いい感じ……! 出来たよ、安野君!」
にこっとした笑顔で夕食が出来上がったことを告げてくる寺花さん。
途中、艶のある唇に付いてしまったソースをちろりと舌で舐め取る場面を見てしまい、なんだか見てはいけないようなものを見てしまった気分になる。
俺は誤魔化すように席を立つ。
「お皿用意するよ」
「ダーメ、安野君は座ってて」
「いやいや、マジでこれぐらいはやらせて?」
「ダメなの! 今日は安野君は私に介護される日なの! 大人しくして」
「えぇ……」
別に歩けないとかそう言った負傷じゃないので、そこまでしてもらわなくてもいいんだけどな。
今日見ていてわかったことだけど、寺花さんは一度やると決めたことは意地でもやり通す性格らしい。
まあ確かに、モモちゃんとしての配信でも、ゲームクリアするまでやり続けたりと、諦めの悪い部分があったっけと思い返す。
結局、食器を用意するのも止められてしまい、俺は椅子に座って料理が運ばれてくるのを待つことしか出来ない。
「お待たせー」
ようやく、寺花さんが料理を運んでくる。
器に入っていたのは、ひたひたまでそそられた、熱々のビーフシチューだった。
コトコト煮込まれた具材はとろみを帯びており、デミグラスの香ばしい香りが辺りを充満している。
「すげー美味しそう」
「えへへっ、私の自信作です!」
自慢げに胸を張る寺花さん。
調理する際にも手間取っている様子は見られなかったので、普段から自炊しているのだろう。
「それじゃあ、早速いただきま――」
「待って!」
俺が手を合わせてスプーンを取ろうとしたところで、寺花さんが制止の声を上げる。
まだ何かあるのだろうかと思って寺花さんを見つめると、彼女はおもむろに俺が座る椅子の隣へと腰掛けてきた。
そして、目の前に置いてあったスプーンを手に取ると、そのスプーンでビーフシチューをひと掬いして、自身の口元へと持っていくと、可愛らしく口を窄めて、フーッ、フーッっとスプーンのシチューを冷まし始めた。
何度か息を吹きかけてから、スプーンを俺の口元へと運んでくる。
「はい……あーん」
頬を真っ赤に染めながら、上目遣いにスプーンを口元へと近づけてくる寺花さん。
まさかの行動に、俺の身体まで恥ずかしさで上気してきてしまう。
「いや、流石にそこまでしてもらわなくても……」
「いいから早く、私だって恥ずかしいんだから」
なら無理にする必要ないのでは?
と思いつつも、野暮なことは言わず、目の前に差し出されたスプーンを見つめる。
俺は思わずごくりと生唾を飲み込んでしまう。
まさか、クラスの『アイドル』が家に押し掛けてきて、夜ご飯を作ってくれただでなく、「あーん」までしてくれるなんて……。
明日は雪でも降るのではないかと思ってしまうほどに、この状況は現実離れしすぎていた。
「どうしたの? 食べないの?」
「た、食べるよ! あーむっ!」
俺は慌ててスプーンを口の中へと含み、ビーフシチューを頬張った。
濃厚なソースが口の中に広がり、優しい味わいが包み込む。
お肉も程よい柔らかさで、しっかり味が染みこんでいる。
「ど、どうかな……?」
不安げにこちらを見つめてくる寺花さん。
俺はゆっくりお肉を噛みながら、手を前に出して待ってねとジェスチャーする。
ゆっくりと口の中で噛み、飲み込みやすくしてから、詰まらせて咳き込まないよう気を付けながら、ごくりと喉の奥へと流し込んでいく。
一つ息を吐いてから、俺は寺花さんに向かって笑みを浮かべた。
「凄く美味しいよ。こんなビーフシチュー、初めて食べた!」
「本当に? 良かったぁ……」
ほっと安堵の息を吐く寺花さん。
寺花さんが作ってくれたビーフシチューは、なんだかとてもほっとする味わいで、家庭的なぬくもりが感じられるような気がした。
「じゃ、今度はお野菜もどうぞ!」
そう言って、寺花さんは再びスプーンでシチューをひと掬い。
今度はニンジン入りのシチューを口元で冷ましてから、俺の口元へと差し出してくる。
「あのさ……これまだ続けるの?」
「うん。だって安野君はケガ人なんだから、しっかり安静にしてないと」
「いやでも、スプーンなら左手使えるから、普通に食べられるよ?」
すると、寺花さんがぷくーっと頬を膨らませて不満げな顔を浮かべてくる。
「安野君は、私から食べさせてもらうの嫌なワケ?」
目を潤わせながら聞いてくるのはずるいと思う。
だってそんな可愛らしく言われたら――
「そ、そんなことないけど……」
と、答えることしか出来ないのだから。
「ほんとに? じゃあ一杯召し上がれ」
俺が答えるなり、パッと花の咲いたような笑顔でスプーンを運んでくる寺花さん。
そんな嬉しそうな彼女の姿を見ていたら、なんだか恥ずかしがっている自分が馬鹿らしく思えてきてしまう。
「はい、あーん」
俺も覚悟を決めて、寺花さんのアーンを受け入れることにした。
やはり、シチューは普段食べるモノよりもほんのり甘くて、寺花さんの愛情が感じられる。
その後も、器に入ったシチューを完食するまで、寺花さんから食べさせてもらうのであった。
やってることバカカップルみたいだよな……。
そんなことを内心思いつつ、クラスの『アイドル』であり推しに食べさせてもらっているというこの上ない優越感にしばし浸ることとなった。
しかし、うつつを抜かしていると、またすぐに某名探偵並みの早さでやってくるのが事件というものである。
それは、俺がビーフシチューを完食した後に起こった……。
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