第三十五話 救出

「――さん、凪さん」


 小さく、だが必死に自分の名を呼ぶ声に、凪の意識はゆっくりと浮上していった。同時に痛みも甦って増していき、目を開けた瞬間「つっ……!」と呻いてしまう。


「凪さん!」


 ひときわ必死な声に顔を上げると、目の前には見覚えのある少女がいた。凪より二つ三つ年上だろうか、色白で愛嬌のある顔立ちで、頬に散ったそばかすも欠点ではなく魅力に見える。


 だが、その顔にはいくつものすり傷や痣があった。たしか、凪が贄にされるひと月ほど前に銛田家の使用人になった少女で、雪子といったはずだ。


 でも、雪子さんとはしゃべったこともなかったのに……。


 戸惑い訝しむ凪に、


「あの、これを……痛み止めです」


 雪子は濁った液体の入った湯呑を差し出してきた。


「だ、だめです……! こんなことしちゃ……!」


 凪はとっさにかぶりを振った。義彦に見つかったら、雪子の顔の傷が何倍に増えるかわからない。


 だが、雪子は同じしぐさで凪に応え、


「私のことは気にしないで、とにかく早く飲んでください」


 湯呑をいっそう前に押し出した。


 このまま押し問答を続けていれば、誰かに見咎められる危険性も高くなる。凪は心を決め、湯呑を受け取って一口飲んだ。昨夜真帆がくれたお茶よりもずっと苦かったが、そんなことを言ったら罰が当たるだろう。息を止めて一気に飲み干した。


「ありがとうございました……」


 凪が湯呑を返すと、雪子は安堵の色を浮かべ、


「どうか、もう少しだけ我慢してください。真夜中になったら、鍵を盗み出して首枷を外しに来ますから」


 再び表情を引きしめて言った。


 今度は戸惑い訝しむどころではすまなかった。愕然としたといってもよい。


「もっと……もっとだめですそんなこと……! あなたの……雪子さんの命が……!」


 だが、雪子の反応は、凪がつい先刻薬を固辞したときと同じだった。


「どうして、わたしにそこまで……?」


 雪子の決意が固いことがわかると、彼女が命を懸けてまで自分を助けようとしてくれる理由が気になってしかたなくなってくる。


「わたし……」


 雪子は悲痛な声で語り出した。


「凪さんが義彦様にいじめられてるのを見ても、怖くて何もできなかった……。自分も義彦様にいじめられるようになって、そのことをとても後悔したんです。凪さんは何年もこんな痛い思いや苦しい思いをしてたんだ、なのにわたしは見て見ぬふりをしてた、凪さんにお米一粒分けてあげなかった、優しいことばひとつかけてあげなかったって……」


「そんな……! それは当たり前です! 自分を守ろうとするのは卑怯なことなんかじゃない……!」


 感動が潮のように胸に満ちてくるのを覚えながらも、凪は言い募ったが、


「でも、立場が反対だったら、凪さんも同じように考えたんじゃありませんか……?」


 澄んだ微笑とともにそう言われると、ことばに詰まってしまった。


「わたし、もう後悔はしたくないんです。必ず凪さんを逃がします」


 雪子がきっぱりと宣言したとき、凪の胸は感動で満潮になっていた。


 陸にも、人間にも、こんなひとがいるんだ……。苦しんでいるひとを放っておけないひとが、危険も顧みず助けようとしてくれるひとが……。


「わかりました。でも雪子さん、あなたも一緒でなくちゃだめです」


 凪が雪子の手を取ったそのとき、勢いよく戸を開ける音がした。二人がびくりとして部屋の出入口を見ると、同じ使用人でありながら凪を毛嫌いしていた珠代と菊乃が立っていた。凪と雪子はたちまち真っ青になり、どちらからともなく抱き合う。


「おやおや、義彦様はあんたに、お昼のあいだ庭の草むしりをしていろ、とおっしゃったはずだけど?」


 紅など差していないのにやけに赤い珠代の唇から、意地の悪い声が放たれた。


「もう終わったのかしら? 珍しく仕事が早いのね」


「くすくす」と形容するには邪悪すぎる声で、菊乃が笑う。


 珠代はつかつかと部屋に入ってくると、


「じゃあ、義彦様に仕事ぶりを見てもらわなくちゃねぇ」


 右手で雪子の腕をつかんで凪から引き剥がした。


「やめてください!」


 凪は珠代の着物の裾をつかんだが、


「異人の血が混じった汚い手で触るんじゃないよ!」


 珠代は凪を睨みつけて左手で頬を張り、雪子を引きずっていこうとする。


「あたしは義彦様を庭にお連れするわ」


 菊乃が心から楽しそうに身をひるがえした。


 どうしようどうしようどうしよう。このままじゃわたしだけじゃなくて雪子さんまでひどい目に遭う。ひょっとしたら殺されてしまうかもしれない――。


 どうにかして雪子だけでも救いたいが、もはや万事休すだ。凪が絶望の淵に沈みそうになったとき、


「きゃあああっ!」


「いやあああっ!」


「うわあああああっ!」


 何人もの悲鳴が聞こえてきた。珠代と菊乃はぎょっとしていたが、凪は自分でも驚くほど冷静だった。何が起こったとしても、事態がこれ以上悪くなるはずはないと思っていたからかもしれない。


 だが出入口に、すずのような銀灰色の毛皮に鼈甲べつこうのような黄金色の目の狼が現れたときには、さすがに肝をつぶした。先刻凪を運んでいたものよりもなお大きな、威厳と風格に満ちた狼だ。


 続いてもう三頭の狼が現れ、それぞれに沙織と水際と航が乗っているのを見たときには、驚きが極限に達すると同時に、肺の中の空気を全て吐き出してしまいそうなほどの安堵に襲われた。


「ひっ……ひぃぃ……」


 対して、いまのいままでの威勢はどこへやら、珠代と菊乃は我先にと部屋の奥へ逃げ、壁に背を押しつけてへたりこむ。


「凪ちゃん!」


「「凪さん!」」


 沙織と水際と航が、狼たちから飛び降りて駆け寄ってきた。


「ひどい……!」


 沙織は痛ましげに涙ぐみ、水際と航はまなじりを決して歯噛みする。特に水際の露草色の瞳には、凪を傷つけた者への殺意すら感じられた。


「とにかく凪ちゃん、この方の背中に乗って!」


 沙織に助けられ、凪は最初に現れた狼――いや、もう狼人であることは明らかだ――に乗った。沙織自身はもともと乗っていた狼人に飛び乗る。


「あっ、あの、あのひとも……雪子さんも……」


「大丈夫、わかっているわ」


 今度は水際が、もともと乗っていた狼人に雪子を乗せ、その後ろに自分も飛び乗った。幸い、すっかり茫然自失していた雪子は、おびえることもなく水際のされるがままになっていた。


 最後に航が狼人の背に戻ると、四頭は並んで離れの玄関へと走り出す。あっという間に庭へ出て、銛田屋敷の外へ出た。


「何をしておる! 追え、追わんか!」


「役立たずどもめ、追わない者は百叩きの刑だぞ!」


 正彦と義彦の怒鳴り声に振り向くと、使用人たちがへっぴり腰で追いかけてくるところだった。もっとも、ただの人間が狼の姿をとった狼人にかなうはずがなく、彼我の差はみるみるうちに開いていく。


 ついに海岸に着いたとき、凪の胸には歓喜の光が差しこみあふれた。猫鮫ねこざめ虎斑鮫とらふざめ葦切鮫よしきりざめ、よく似た二匹の青鮫あおざめ――ほかにも撞木鮫しゆもくざめ鋸鮫のこぎりざめ白和邇しろわに鼬鮫いたちざめといった種々様々な鮫たちが、泳いだり跳ねたり顔を出したりしていたのだ。むろん、中心にいるのは巨大な純白の頬白鮫ほほじろざめだった。


「広海様……!」

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