補助線

れもん

第1話

「わたし、高校二年生のときが人生で一番楽しかったよ」

 俺がまだ中学三年のクソガキだった頃、近所じゃ美人で有名なお姉さんがそう言っていた。季節は冬だったはずだから、高校入試へ向けて受験勉強中だった俺を励ますつもりだったのだろう。お姉さんは嘘みたいにきれいな笑顔で、「絶対合格するはずだから、最後まで頑張って」と言ってくれた。

 あの時、俺はまだそれなりにガキだった。年上のお姉さんの美しい微笑に生意気に色気付いて照れておきながら、でも照れていると相手に察されるのはなんだか嫌だというチンケな自尊心まで持っていて、故に無愛想に首を縦に振って、「あざっす」とかなんとか短いお礼を言ったと記憶している。

 ただ、それ以上に鮮明に覚えているのは、「高二のときが人生で一番楽しかったのなら、今、お姉さんは生きててそんなに楽しくないってことっすか?」という素朴な疑問を、ぐっと自分の中にしまい込んだことだ。当時、お姉さんは保険屋に勤めて三年目とかだったはずで、その人生がどういったものなのか俺はこれっぽっちも知らなかったわけだが、それでも当時、素直に疑問に思った。

 生きてて楽しいっすか? と。

 あの時俺はまだ中学生、無邪気なふりをして聞いてしまうこともできたかもしれないし、斜に構えた腹立たしい態度でぶっきらぼうにたずねたって許されただろう。でも、俺はそれをしなかった。あの時の俺はきっとそれなりに大人だった。

 そして俺は今、高校二年生。あの時のお姉さんが言っていた、「一番楽しかった」時代だ。

 人生で一番楽しい時間を過ごしているかと問われれば、うなずくことは難しい。別に何か不幸なことがあるってわけでもないし、今よりとりたてて楽しい過去があったってわけでもないんだが。

 ……そんなことを考えていると。

「おい、ウーロン、聞いてっか?」

 ごすん、と右隣に立っているデコボコに肩を殴られた。大して痛くはなかったが、俺は、「いってえな」と大袈裟にリアクションをとる。「急になんだよ」

「急じゃねえよ。ゴールデンウィークどうすんのって話してんのに、ぼけっとしやがってよ」赤いぽつぽつだらけのにきび面を不機嫌そうに歪ませてデコボコは言う。「なんだお前、女のことでも考えてたのか?」

「ちげえよ」女のことと言えば女のことに違いなかったが、俺は首を横に振る。「俺はお前みてえに年中盛ってるわけじゃねえ」

「じゃ、なにぼけっとしてたんだよ」

「うるせえな。ちょっと考え事してただけだろ」

「考え事ってなんだよ」

「おめえの顔面がどうやったらきれいになるかなって」

「余計なお世話だわ」ごすん、と再びデコボコに肩を殴られる。「んなことよりさ、マジでゴールデンウィークどうすんのよ?」

「別にどうもしねえだろ。だらだらして終わりだ」

「は? 暇だろ、どっか遊びに行こうぜ」

「つっても、ウーロンはハルちゃんと遊ぶんじゃね?」俺の左でスマホの画面をずっと見ていたカメノコが、用事が済んだのか、スマホから視線を外し、会話に入ってくる。「ぶっちゃけ俺も商店街の祭りにレナと行く予定あるし、暇なのはたぶんデコボコだけだぞ」

「は? マジかよ」デコボコが不満げに唇を歪ませる。「おめえら女とセックスすんのか」

「別にデートすなわちセックスってわけじゃねえだろ」カメノコはこれみよがしに呆れたような顔をする。「つっても俺はするけど」

「うっざ。女に性病でもうつされてろ」

「レナ性病じゃねえわ」

「これから性病になるんだよ。レナっち、なんかパパ活とかしそうじゃん」

「そこでクラミジアでもひっかけてくるって?」

「クラミジアじゃなくてエイズだよ」

「ひっでえ!」

 デコボコとカメノコがふざけあって笑うので、俺も、「ひでえ冗談だな」と笑い声を出す。げらげらという若者三人分の品のない笑い声だが、夕暮れ時の駅のホームの雑踏の中ではそれほど目立ったものではないだろう。

「つーかウーロンはどうすんの? お前もハルちゃんとどっか遊びに行くんじゃねーの?」

 カメノコの視線が俺に向き、続けてデコボコの視線も俺に向く。

「あ、いや……」俺は一瞬どう答えようか考え、それから、後々バレたほうが面倒だと思い、「はるとは別れたわ」と白状する。

「え? マジで?」

 デコボコとカメノコの目が驚きで見開かれる。

「なんで? お前らすげえお似合いだったじゃん。つーかいつ別れた?」

「別にそんなとりたてて話すようなことじゃねえよ」

 説明するのが煩わしくて俺は話をたち切る。が、二人の下賤な好奇心はそれでは満足しないようで、「あれか? 浮気か?」とどちらからともなく邪推を始める。「ハルちゃんが浮気したのか?」「ハルちゃんはしそうだな。ギャルっぽいし」「でもなんだかんだ頭良いって聞いたぞ」「頭いい女が浮気するんだよ」別れたとは言え、人の女のことを好き勝手に言いやがる。はるの名誉の為にも、「浮気とかじゃねえよ」と否定すると、今度は、「じゃあおめえが浮気したんだろ」とはしゃぎ出す。

「そんなんじゃねえっての」

「ひょっとしてショーシン中?」カメノコがここぞとばかりにからかってくる。「山本君は女にフラれてショーシン中だったり?」

「うるせえな」俺はカメノコの肩をごつんと殴る。「殴るぞ」

「もう殴ってっし!」

 大袈裟に痛がるカメノコ。それを見て、ぎゃはははと笑い出すデコボコ。俺は一応デコボコの肩も殴っておく。

「うわ、とばっちりだ!」それほど強く殴ったわけではないが、デコボコも大袈裟に痛がり、「お前らが別れた理由がわかったぞ。おめえの暴力が原因だ」と言って、さらに大きな声で笑い出す。

「人をDV野郎みたいに言うんじゃねえっての」

 俺もデコボコの冗談につられて笑う。そうして笑う俺とデコボコを、おめえら声がでけえよとたしなめながらも、カメノコがやはりでかい声で笑い飛ばす。

 俺はそんな自分たちの笑い声を聞きながら、調子に乗った男子高校生たちが夕暮れ時の駅のホームでへらへらとしている様子は、きっと周囲からすれば生きてて楽しそうに見えるんだろうな、なんて達観したことを考える。

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