第302話

「誠に、申し訳ありませんでしたっ!」


 女の子は直角に頭を下げ、風のように走り去って行く。


「あっ、せめてお名前を!」


ぼくは慌てて、彼女の背中に呼びかける。「名乗るほどの者ではありません!」と声が返り――少し先の通りで、車に乗り込んだのが見えた。


「行っちゃった……」


 あまりの素早さに、ぽかんとしてしまう。――恩人に、きちんとお礼も出来ひんかった。

 悔やんでいると、宏ちゃんに頭をぽんと撫でられる。


「大丈夫だ。あの子が何者かはわかってるから」

「ほんとっ?」

「ああ。お前を助けてくれたんだ、俺からもきちんとお礼をしたいし」

「宏ちゃん……」


 ぼくを見下ろす宏ちゃんの眼差しは、とても優しい。ぼくは、じんと胸が熱くなった。


――宏ちゃん。


 目の前の広い胸に、ぎゅと抱きつく。シャツ越しに、どきどきと鼓動が頬に伝わった。――安心する。何があっても怖くないくらい……

 じっと目を閉じていると、大きな手が頭を撫でてくれた。


「成、どうしたんだ。用心深いお前が、家を飛び出すなんて……」

「ごめんなさい、心配かけて。ぼく……」


 ぼくは顔を上げて、宏ちゃんの目を見つめた。


「お兄さんに、聞いたん。宏ちゃんの秘密。それで、居てもたってもいられなくて」


 宏ちゃんは、ぴくりと眉を上げた。腰を抱く手に力が籠もる。


「俺の秘密?」

「うん――あのね、」


 ぼくは、すうと息を吸い込む。


「宏ちゃんが、ぼくを守るためにしてくれたこと。それと……綾人のことも」

「!」


 宏ちゃんの目が見開かれた。


「お兄さんは、宏ちゃんが綾人を辞めさせたって、言うたん」

「……」

「宏ちゃん、聞かせて? ぼく、宏ちゃんの言う事を信じるから」


 ……そう。

 ぼくは、宏ちゃんがどれ程優しいか知ってるもの。綾人のことも、ずっと心配してたって……だから、


「何があったか、宏ちゃんの口から知りたいねん」

「成……」


 じっと見上げていると、宏ちゃんは息を吐いた。


「……わかった。ともかく、移動しよう」

「うんっ」


 ぼくは、力強く頷いた。








 宏ちゃんの乗り捨てた車を回収し、ぼく達は帰路についた。


「宏ちゃん、お家に帰るん?」


 帰り道が、野江邸へと向かう道や無い気がして、ぼくは尋ねる。


「ああ」


 宏ちゃんは頷いた。――どうしてって、聞かなかった。なんとなく、それもお家に帰ってからじゃないと、話してくれない気がしたん。 


「……」


 やから、黙って外を見てた。

 夜の街を行き交う人達や、ビルの明かり。それが流れて――次第に、見慣れた道に変わるまで。


「成、着いたよ」


 うさぎやが見えると、ホッとした。宏ちゃんも同じなのか、声がやわらかい。

 離れていたのはたった一日なのに、お家を見れば懐かしい気がした。


――灯りもついていないのに、あたたかく思うのはなんでだろう? 


「足元、気を付けて」

「ありがとう」


 大きな手を取って、門をくぐって驚いた。……お庭は暗かったけれど、荒れ果ててはいなかったん。割れた植木鉢もなくなって、ポストはまっすぐになってた。


「お片付けしてくれたの?」

「昼間に、ちょっとだけな」

「そんな。ひとりで、大変だったでしょう?」


 ぼくもしたかった、と肩を落とす。

 宏ちゃんは鍵を開けながら、こともなげに言う。


「いや。消毒するまで、お前を近づけたくなかったから」

「……!」


 ぼくは、息を飲む。

 言われてみれば、辺りに充満していた薔薇の香りは、跡形もなく消えていた。


――『成己……!』


 陽平の声を思いだし、俯いたとき――がちゃりと音がして、鍵が開く。


「入ろう。それで……全部話すから」

「……うん」


 宏ちゃんに背を抱かれ、ぼくは一日ぶりの敷居をまたいだ。




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