第292話

 ――ちゃぷん。

 爪先から湯船につかると、とろみのあるお湯が肌を包んだ。手足をうんと伸ばして、息を吐く。

 

「はぁ、あったかい~」

 

 薬草が入っているらしいお湯のおかげか、リラックス効果がすごいです。母屋のお風呂に入らせていただいてるんやけど、すごく大きいお風呂でね。

 

「泳げちゃいそう。宏ちゃんと一緒に入れたら良かったなあ……」

 

 とけるように滑らかな石張りの浴槽は、秘境の温泉宿みたい。お義父さんがお風呂好きで、石から選んでこだわったんやって。

 

「ふふ。宏ちゃんのお風呂好きは、お義父さん譲りやったりして」

 

 ちゃぷ、とお湯を手のひらで掬って、肩にかける。やっぱり、色々あって緊張していたのか……あちこちが凝っていた。

 

 ――お家、どうなるんやろ……犯人は……?

 

 ひとりで、こんな広いところに居るからかな。宏ちゃんの実家に来られた、って言う興奮が落ち着いて来て……現実に帰ってきてしまう。

 巨大な浴槽のなか、抱えた膝に片頬を乗せた。

 

「ご近所さんと、杉田さんも心配してお電話してくれはったし……せめて、様子を見に行けたらええんやけど」

 

 滅茶苦茶にされたお庭とお店を思うと、胸が痛んだ。宏ちゃんが、高校の下宿を出て……お仕事を頑張って、買った家なのに。

 あんな、酷いことになって悔しい。

 

「……」

 

 湯に濡れたふたつの手のひらで、顔の下半分を覆う。

 薬草の匂いでも――鼻腔の奥に残った、濃い薔薇の香りが消えない。

 

 ――もし。もし、陽平が、この件に関わっていたら……?

 

 ぼくは、ぎゅうとわが身を抱く。酷い不安に胸が締め付けられて、湯あたりしたように苦しくなる。

 

「なーんて。……さすがに、ありえへんよね。いくら何でも、あんなことするわけないっ」

 

 陽平はプライドが高い。元婚約者の家に来て、あんな乱暴をするなんて、ありえないよね。

 それに、そういう凶行に走るのは、小説でも現実でもフラれた方。ぼくを捨てたのは陽平なんだから……理由がない。

 そう思い切って、お風呂を上がった。

 

「えい。ひと様の家で、長風呂なんてしちゃダメっ」

 

 手早く体を拭いて、お借りした浴衣を身にまとう。さらりとした生地が、湯で火照った肌を包むと、洋服より涼しく感じた。

 身支度を整えて、外に出る。ひんやりとした廊下を歩んでいくと――話し声が聞こえてきた。

 

 

 

 

「……もっと、仲良くしたらいいのに」

「……わかってるよ。それより……」

 


 廊下の、お庭に面した大きな窓の前に、小さなテーブルセットがあって。籐椅子に向かい合うように座って、宏ちゃんとお義母さんがお話をしていた。

 硝子のテーブルの上には、タブレットとお酒のグラス。

 

――どう見ても、ご歓談中。お声をかけて、大丈夫のタイミングかな?


 判じかねながらも近づいて行くと、背を向けて座っていた宏ちゃんが、振り返った。


「成、温まったか?」

「はいっ。お義母さん、お風呂頂きました」


 宏ちゃんに笑み返し、お義母さんに会釈する。と、お義母さんはにっこりと頷きはった。


「いいお風呂だったでしょう。よく寛げた?」

「はい、とても。浴衣も貸して頂いて、旅館に来たみたいです」

「おっ、うまいこと言うな~! あはは……ほんじゃあ、成くんも出てことだし。秀くんにお湯を仕舞ってもらってくるからね。君たちは、先に寝なさいよ」


 よっこらしょ、とお義母さんは椅子から立ち上がる、お酒の瓶とグラスを掴むと、廊下をぷらぷらと歩いて行かはった。


「ひ、宏ちゃん。ぼく、ひょっとしてお待たせしてた?」


 さっぱりした去り際に、焦って訊くと……宏ちゃんが苦笑する。


「気兼ねしなくていい。あの人はマイペースなだけだから」

「そう?」

「ああ。――俺達も、戻るか」


 タブレットを拾い上げ、宏ちゃんがもう片方の手を差し出す。その時――白地に藍の縞模様の浴衣が、とても似合っていて、素敵なことに気づいて、少しはにかんでしまった。


「うん、宏ちゃん」



 


 離れまでの道は、ほとんど真っ暗やった。

 タブレットの光と、母屋の灯りを頼りに、ふたりで並んで歩く。綺麗に舗装された道だけれど、暗いと不安になっちゃうな。


「成、足下気を付けてな」

「ありがとう、宏ちゃん」


 ぼくは、宏ちゃんの腕を借りて、歩んだ。さわさわと、風が庭園の草花を揺らす音がする。昼間見た時は華やかだった庭木が、真黒い影に見える。


――すっごく暗い。それに、めっちゃ静かだ……


 ふと、隣の宏ちゃんを見上げる。

 平然としてる。暗い道を突っ切る迷いない足取りも……幼い頃から、この道を通って来た習慣を感じた。


――小さい時から……


 不意に、宏ちゃんが言う。


「怖いか?」

「あ」


 知らず、腕に力がこもっていたみたい。慌てて、笑みを作った。


「ううん、大丈夫。……えと、宏ちゃん。さっき、お義母さんと何話してたの?」

「ああ。さっきはな」


 宏ちゃんは、タブレットをひらひらさせる。光が縄のように揺れて、無差別に暗い道を照らした。


「成が風呂に行ってる間に、管理会社から連絡があったよ。――監視カメラに、バッチリ映ってたって」


 ぼくは、ハッと息を飲む。


「明日、さっそく話しを聞きに行ってくるってことを報告してたんだ」

「そうなんや……」

 

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