第220話

「洗い物ありがとう、成」

「ううん、これくらいっ」

 

 優しく労られ、慌てて頭を振った。

 宏ちゃんはぼくの頭を撫でて、ほほ笑む。

 

「えと、宏ちゃん……電話どうやった?」

 

 ぼくは穏やかな目を見上げて、そっと尋ねた。

 夕飯の後、宏ちゃんに電話が掛かってきてね。着信音からして……相手はお兄さんかなって思ったんやけど。

 宏ちゃんは思案げに、長い睫毛を伏せる。今はお風呂に居る綾人を気にしてか、小声が囁いた。

 

「ああ、兄貴なら相変わらず……って言いたいとこなんだが。大分、痺れを切らしてるらしい」

「えっ!」

 

 息をのむと、宏ちゃんは慌てたように言葉を継いだ。

 大きな手のひらに、頬を包まれる。

 

「心配するな、俺が居るから。兄貴に勝手はさせない」

「宏ちゃん……」 

「また、兄貴の様子を見て来るよ。あいつに頭を冷やして貰わないと、結局どうもならんし」

 

 宏ちゃんは、安心させるように笑った。

 灰色がかった瞳が優しく細まるのを見ると、無条件に唇がほころんでしまう。

 

「……ありがとう。ごめんね、お兄さんのこと任せきりで……」

「いや俺だろ。綾人くんのこと、ありがとな」

「ううん。友達やもんっ」

 

 と、大きな手を握る。眼差しと同じように、温かい。

 

「何かあったら……無くても話してくれよ」

「宏ちゃんも、話してくれる?」

「ああ」

 

 頷く宏ちゃんの顔からは、ぼくへの労りや、綾人とお兄さんを心配する感情しか見えなかった。――宏ちゃん自身の、不安とかはちっともうかがえない。


「……」


 翻訳の話をしたときも、そう。

 ぼくがしんみりしたのを察して、すぐにしゃっきりしてしまって。

 

――『愚痴っぽくなってすまん。楽しんでくれるなら、それでいいんだよ』

 

 悲しそうな顔は幻みたいにかき消えて、いつもの大らかな笑みを浮かべていた。

 なんとか励ましたいって、思う隙もないくらいで。 

 

 ――……宏ちゃんは、すごいなあ。

 

 思えば、小さな頃から……宏ちゃんは、ネガティブな感情を人に見せるタイプじゃなかった。たまに怒ると凄く怖いけど、それもずーっと怒り続けるとかは無かったし。


 頼もしくて、優しい宏ちゃん。


 染みるような気持ちで、温かな光をたたえた灰色の瞳を、じっと見上げる。

 

「成?」

「ううん」

 

 あんまり見るせいか、宏ちゃんは不思議そうに首をかしげている。

 ぼくはたまらなくなって、大きな胸に飛び込んだ。

 

「おっと。どうしたんだ?」

「……っ」


 問いかける声が優しい。

 何も言わなくても、優しく抱き留められて、胸がきゅんって甘く痛む。

 

 ――ぼく、もっと頑張らなきゃ!

 

 ぼくは、胸に頬を強く押し付けてから、ぱっと顔を上げた。

 

「えへ。なんでもないよっ。ところで宏ちゃん、なんか背中固くない?」

「ん? たしかにちょっと凝ったかな」

「ずっと書き物してるもんね」

 

 急な話題の転換に、宏ちゃんは目を丸くしつつも、頷いた。ぼくは、「しめた!」と内心でガッツポーズする。

 

「今日もお疲れ様。ぼく、お風呂の後にマッサージしたげるっ」

「えっ」

「ぼくね、けっこう得意なんやで。中谷先生も、肩から羽が生えそうって言うてくれるんやから」

 

 少しぽかんとしてる宏ちゃんに、にっこりしてみせる。

 宏ちゃんは、いつも優しい。

 そのくせ、誰にも心配かけへんように、自分でつらい気持ちは隠しちゃうんやね。今まで、知らずに甘えてきたこと……夫婦になって、続けていきたくない。

 

 ――宏ちゃんを、支えられる人になりたい。弱音を思いっきり吐いて……甘えても良いって思えるような。

 

 宏ちゃんの支えになるのが、ぼくの新しい夢やもん。

 そう決意していると、ぎゅっと抱きしめられる。

 

「いいのか? マッサージだけじゃ終わらないぞ」

「ひえ」

 

 凄くセクシーな声で囁かれて、頬が熱くなった。でも――ぼくは負けじと、背伸びをして頬にキスをする。


「――!」 

「望むところですっ」

 

 と、反撃したものの……まん丸く見開かれた目に恥ずかしくなって、逃げ出しちゃう。一拍遅れで、宏ちゃんが追いかけてきた。

 

「こら、成。待てっ」

「わー! いややぁ」

 

 どたばたとテーブルの周りを追っかけっこする。振り返って見た宏ちゃんの顔は、大きな笑みでいっぱいで、胸がきゅんとくすぐったくなる。

 ……もっと、笑ってて欲しいな。

 

「俺にもキスさせろ!」

「だめ、あとでっ」

 

 ぼく達は、綾人がびっくりしてやってくるくらい、大笑いして走り回った。


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