第217話

 百井さんを見送ってからも、ぼくは一人で悶々としていた。

 お夕飯のカレーの下ごしらえをしながら、つい居間のテーブルに置いてある全章・海外版を振り返ってしまう。百井さんに「献本なので」と頂いたもの。

 

「……よしっ」

 

 あとはじっくり煮込むところまで来て、やっと本に向き合う。

 きょろきょろと、辺りを見回したのは――ちょっとだけ、宏ちゃんに後ろめたかったからかもしれない。

 宏ちゃんは、あの後すぐに書斎に入って、仕事を始めてる。ぼくも、後でお手伝いに行くつもりやけれど。

 その前に、もう一度読んでみようと思ったん。

 

「……」

 

 ページを、もくもくと繰って……半ばまで一息に読んでしまうと、ぼくは深い息を吐いた。

 

「すっごい……面白い……」

 

 世界でも名を馳せている先生であるらしく、重厚でありながら、流れるように美しい筆致。

 日本から西洋に舞台は変えながら、宏ちゃんの描いた推理の道筋や、トリックを大きく損なうことなく――全く違う物語が、作り上げられていた。

 そう……こっちはこっちで、素晴らしい名作やと思う。

 ただ、桜庭宏樹先生の物語と、思わなければ。

 

――『あれを、俺の小説とは呼べなくてな……』

 

 宏ちゃんの、寂しそうな顔が過り、熱く目が潤む。

 たしかに、これは……桜庭先生の物語じゃなかった。

 小さなころから――幾度も、試行錯誤や修練を重ねて、作り上げた独特の筆致がない。

 そして、文献を浴びるように読み、丹念に取材をしたうえで……宏ちゃんの生々しい感性で、織り上げている物語じゃ、ない。

 

「面白い……すっごく面白いけど、そうじゃないの……ぼくは、桜庭先生の物語を、たくさんの人に知って欲しいんよっ!」



 読めば読むほど悲しくて、泣けてしまう。

 ティッシュを引き寄せて、ちーんと鼻を噛んだ。


――さっき、悲しそうやった宏ちゃんの気持ちが、わかった。だって、宏ちゃんは……

 

 執筆机に向かう宏ちゃんの真摯な背中を思う。宏ちゃんの右手の大きなペンダコを……いつも、くり返し推敲されて、真っ黒になっている原稿用紙を思った。

 ぎゅ、と拳を握りしめて、立ち上がった。

 

「桜庭先生の小説が、最高やもん! あの、不思議なリズムの、変幻自在の文章。そりゃ、朗読泣かせとは言われるけど、大人も子供も好きって言うてるしっ! それに……唯一無二のユーモアセンス。ぼくが子どものときから、今までずーっと面白いんやから……! そ、そもそも、全章はお坊さんなのであって、エクソシストじゃないっ。かっこいいからたくさんの人にモテるけど、奥さんに一途で、あちこちに恋人をもったりしないしっ……」

 

 名作家さんの本に向かって、おたく丸だしなことを叫びまくっていると、

 

「な、成己、どうした?」

「ひええっ!?」

 

 突然、恐々と声をかけられて、飛び上がる。


――ウソ、いつの間に?!


 慌てて振り返ると、目を丸くした綾人が立っていて。


「なんか、めっちゃ叫んでたけど」

「あうう」


 ヒートアップしていたぼくは、茹でられたように熱くなった。



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