第216話
身じろぐ音で、目を覚ます。……逞しい腕に、しっかりと抱きしめられていた。
「ぁ……」
ぽうっと上を見上げると、宏ちゃんの横顔があった。長いまつげが伏せられて、眠っているみたい。
「宏ちゃん……?」
シーツも布団もさっぱりしてる。ぼくも宏ちゃんも、清潔なパジャマをまとっていた。――宏ちゃんが、してくれたに違いない。
任せっきりで、申し訳なくなる。
――ぼく、そんなに気を失ってたのかなぁ……
思い出して、頬が熱を持つ。
気持ち良すぎて、失神しちゃうことはあるけど……今夜は特に深かった気がする。
声も音も、きっと赤裸々で――綾人が寝てくれてたことを、祈る他ありません……
「……」
深い寝息を立てる宏ちゃんを、見上げた。優しい眠りの最中にいるような、無防備な寝顔にほっとする。
宏ちゃん……今夜は、ちょっと違った。
ちょっと意地悪で、強引で――思い出すだけで、全身が火になっちゃいそう。
――『お前は俺のだ』
切ない囁きが甦り、胸が締め付けられる。
「……どうして?」
ぼくは、とっくに宏ちゃんのオメガやのに。
腕を伸ばして、広い背中にまわす。と……無意識に、宏ちゃんはぼくを抱き返してくれた。
泣きたくなる。
――……ずっとここに居たいって……思ってるのは、ぼくの方。
ぼくの願いは、宏ちゃんが叶えてくれてるから。
だから……ぼくは、このままがいい。側に置いてくれるなら、他に何もいらなかった。
「では、頂いて行きますね!」
翌日のお昼ごろ、うさぎやにいらっしゃった百井さんは、輝く笑顔で原稿を仕舞った。
「わざわざ取りに来てもらって、すみません」
「いえいえ! 急遽お願いしたものですから、これくらいは当然です。桜庭先生は原稿展に向けて、力を溜めておいて欲しいですし!」
百井さんは、ぐっと拳を握る。今週末から始まる生原稿展に向けて、気合がメラメラと漲ってはる。
宏兄は笑って、手首をくるりと回した。
「はは。最近ここの調子いいんで、何冊でも大丈夫ですよ」
「頼もしい! 先生の本は沢山ハケるので、ありがたいです」
宏ちゃんの所属している「軌跡社」は、年に数回くらい、所属クリエイターの生原稿展を開催しててね。なんでも――”AIを一切使用しない純粋芸術”という会社の方針を、守ってること。その証明として、作品の制作過程を見せてくれるんやで。
ファン必見の生原稿に、それにまつわる制作秘話。その上、サイン本に複製原画もたくさん売りだされるから、本当に宝島みたいな催しなんよね!
ぼくもワクワクしながら、百井さんにコーヒーをサーブする。
「原稿展、すごく楽しみですっ。今回も、百井さんの「編集Mの雑記帳」が展示されるんですよね?」
「はい、お恥ずかしながら。いやぁ、桜庭先生の編集をしてると、笑い話も、苦労話も絶えませんからね……!」
「わあ~! 嬉しい!」
編集Mの雑記帳は、担当編集Mこと百井さんから見た桜庭先生のエピソード集。面白おかしく綴られる、人気作家と編集さんの奮闘には、謎に包まれた桜庭先生の素顔が垣間見えて……ファン垂涎の、エッセイなんよ。
「展示だけの非売品やから……日参して、覚えるくらい読まなくちゃ……!」
意気込んでいると、後ろから抱き寄せられる。
「わっ……宏ちゃん?」
「成……お前には、本物の俺がいるだろう。なんで、百井さんから聞くんだ?」
ジト目で言われて、きょとんとする。
「えっ、だって……桜庭先生と宏ちゃんは、違うジャンルやし……?」
「同じ俺なんだが?!」
つい、ぽろりと本音を漏らすと、宏ちゃんは稲妻に打たれたような顔をした。がっくりと肩に押し付けられた頭におろおろしていると、百井さんが手を叩いて笑う。
「いやー、ごちそう様です。新婚さんのお邪魔をするのはあれですし、早い目に退散しますよ。これ、今後のスケジュールです」
「あ、ありがとうございます」
宏ちゃんは、真面目な顔になってファイルを受け取った。……ぼくを小脇に抱えたままなのは、いいんでしょうか。幸い、百井さんは気にしてないみたいで、ニコニコと言葉を続けはる。
「あとは、嬉しいお知らせです! 今度、発売される全章シリーズの最新の海外版がですね。なんと、発売前に百万部突破です!」
「ええっ!? すごーい……!!」
ぱちぱち、と爆竹の勢いで、拍手を打ち鳴らす。
百万部って! 予約の段階で、桜庭先生の作品を待ち望んでる人が、そんなにいるってことだよね。嬉しくなって、宏ちゃんを振りむいて――あれ? と思う。
「宏ちゃん? どうして浮かない顔……?」
「うーーん。おめでたい事だが……あれは、俺の話じゃないし……」
「ええ?! ぜ、全章は桜庭先生のお話やん!」
ぎょっとして、宏ちゃんを揺さぶっていると、百井さんが苦笑した。
「ごめんなさい、成己くん。盛り上げては見たんですが……先生、こんな感じなんですよ」
「えっ、えっ。百井さん、いったいどういう……?」
「成己くん、先生の海外版――平たく言うと、翻訳版読んだことは?」
「あ……ないです」
首を振ると、「良かったらどうぞ」とトートから取り出した、献本を手渡される。――軌跡社お抱えのデザイナーさんが手がけた美しいハードカバーに、いつものタイトルが英語で印字されてる。
「わあ……」
初めての海外版に、テンションが上がる。
実は一度読んでみたいと思ってたんやけど、なかなか機会が無くて。わくわくしながら、ページをめくった。
しかし――
「……う、うそ。ぜんぜん、文章が違う! っていうか、全章のキャラも……どころか、ヒロインも違う?!」
「そうなんです……わかっていただけましたか! 海外版は、翻訳というよりむしろ翻案! 驚くことなかれ、エンディングも違う事がありますよ」
「そ、そうなんですね……」
ぼくは、パタンと本を閉じる。宏ちゃんを見上げると、ふっと黄昏た微笑を浮かべてる。
「まあ、な。解ってるんだよ。どこもAIが隆盛を誇ってるからさ。翻訳家も言いがかりをつけられないように、自分のスキルをいかんなく発揮しようとしてるだけだ。だが……流石にあれを、俺の小説とは呼べないっつーか……」
「宏ちゃん……」
寂しそうな呟きに、胸が痛んだ。
百井さんが言うには、宏ちゃん自身が顔出しもしていないので、AI作家を疑われているらしく。翻訳家の先生も、我の強い方をお願いしてるんやって。
宏ちゃんのために、仕方ないことなんやって。
――でも……宏ちゃんの小説が真っすぐ伝わってないのは、寂しいな……
桜庭先生ファンとして、妻として……切なかった。
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