第143話【SIDE:陽平】

 翌朝になっても、俺は鬱々とした気分を引きずっていた。むしろ、朝のほうが、日の明るさに憂鬱が浮き彫りになるかもしれない。

 ダイニングには、食器を使う音と、晶の話声が響いている。

 

「実際。フレンチは、完璧な朝食って感じだよな」

「……ああ」

「まあ、久々に作ったから、ちょっと卵が固いけどさ。懐かしいか?」

「……」

 

 美味いよ、と頷きながら……億劫なのが、顔に出ていないか気になった。

 晶は、エッグベネディクトにナイフを入れながら言う。

 

「お前、落ち込んだときは、これだもんな。陽平ママに習っといてよかった」

「……そうだったか?」

 

 問い返すと、晶は鼻を鳴らす。

 

「そーだよ。「叱った次の日は、完璧な朝食にしてあげるの」。「そうしたら、あの子元気になるから」って言ってたぞ」

「……っ」 

「優しいよなぁ、陽平ママは。うちじゃ、ご機嫌取りなんかしてくんなかったぞ」

  

 晶は頬杖をつき、からかうような目で俺を見る。手のかかる弟を見る目だった。

 思わず、フォークを持つ手に力が籠もる。

 

 ――違う。無理にでも、機嫌を直さないと。母さんは、泣くから……

 

 俺は本当は、気分が落ちているときは、極力黙っていたいんだ。特別なことも、億劫だからいらない。気遣ってくれるなら、そっと放っておいてほしかったのに。 

 母さんもそうだが……晶も、人が落ち込んでいるほど世話を焼くタイプだ。

 仕方ないのは解ってるけれど……

 

 ――……付き合いが長いのに。なんで、こんなに俺のことを知らないんだろう?

 

 苛々と、アスパラにフォークを突きさし、口に含むと……バターの香りが鼻に抜ける。――美味い、と思う。ただ……こんな気分の朝は、なにか別のものを欲しい気がした。

 

「……」

 

 黙々とサラダを口に詰め込んでいると、カタン、と食器を置く音がした。

 鋭い音に驚き、目を上げて……俺は、目を丸くする。

 

「……晶?」

「帰る」

「は?」

 

 椅子を乱暴に引き、晶が立ちあがる。朝食の残った皿をそのままに、身を翻して出て行こうとする。

 

「どうしたんだよ」

 

 一瞬あっけに取られたが、俺も慌てて後を追う。手首をとらえると、晶はぞんざいに振り払ってきた。

 

「放せよッ」

 

 鋭い怒鳴り声が、ダイニングに響く。

 急な不機嫌をぶつけられ、呆気にとられた。

 

「んだよ。何キレてんの」

「は……お前、マジで言ってる? こっちの台詞なんだけど」

 

 長い前髪の下、晶の目が剣呑に光る。「不機嫌だ」と一目でわかる表情に、俺は眉根を寄せた。

 

 ――なんで、俺がキレられてんだよ。わけわかんねえ。

 

 そもそも、俺が機嫌悪いの知ってて、ついて来たくせに。いくら気分屋だと言っても、限度があるだろうが。  

 理由を問うてやるのも癪で、黙っていると……晶が、唇をへの字に歪めた。

 

「……お前さぁ、ほんと何なの? 人の気持ちとか、わかんねえわけ?」

「何が言いてえんだよ」

「ホント甘ちゃんだよな」

「はあ? なにか気に食わねえなら、はっきり言えよ」


 冷たく言ってやれば、晶は顔を青褪めさせた。いつもは折れてやるから、ビビっているのかもしれない。

 ザマミロ。

 無言で睨みつけていれば、晶はは、と息を漏らした。

 

「……ああ、そうかよ。どうせ、俺が勝手にやったって言いたいんだろ?」

「……」

「俺が、勝手に……お前を心配してっ。ついて来たんだから……!」

 

 晶は俯き、声を詰まらせる。――体の脇で握った手が、わなわなと震えていた。

 俺は、ハッとわれに返る。

 

「晶……」

「お前は、ついてくるなって言ったし。だから……余計なお節介なんだよな? 乱暴なセックスの相手も。元気出して欲しくて、朝メシ、作っても……」

「……あ」

 

 晶の顔は、泣きそうに歪んでいた。怒っているのではなく、ひどく傷ついているのだと……そのとき、漸く気づいた。

 俺は、慌てて晶を抱きしめる。

 

「ごめん、晶」

「うるさいっ!」

 

 暴れる晶を宥め、強引に腕に納める。すると……晶は嗚咽を漏らし、俺の胸をドンと叩いてきた。

 

「……っ、馬鹿やろう!」

「……悪かった。つい、苛々して」

「最低だ、お前。俺は……ッ、都合のいいダッチワイフじゃねえ。お前にだから、許してやってんだぞ! セックスも、甘えるのも! そういうの、わかれよ……!?」

「……ああ」

 

 胸にしがみ付き、泣きじゃくる晶の頭を、撫でてやる。確かに、酷いことをした。……晶は、俺の不機嫌には関係がないのに。

 

 ――晶相手に、自分勝手にセックスして。八つ当たりして……何してんだ、俺は。

 

 晶は、壊れそうに背を震わせて泣いていた。俺の態度のせいで、酷く傷つけてしまったらしい。罪悪感で胸が疼き、痩身をかき抱いた。

 

「んっ……!」

「ダッチワイフなんて、思ってねえ。好き勝手に抱いて、冷たくして。ごめんな……」

「陽平……っ、うああ……!」

 

 子どものように、晶が泣き声を上げる。――人前で泣けないこいつが、俺にだけ見せる弱い顔だった。

 強がりで、傷つきやすい、本当の晶。

 

「晶……!」

 

 こいつには、俺だけだ。

 俺がしっかりしなければ、晶は壊れてしまう。そう思うと……欠けていた心のどこかが慰撫される気がした。

 

「陽平っ、陽平……」

 

 救いを求めるように、晶の唇が開く。吸い寄せられるように、唇を重ねた。中に入り込むと、縋るように舌が絡んでくる。

 

「……っ、ふ……」

 

 激しく抱き合いながら、互いの服を脱がせあう。しっとりとした肌を撫でていると、心が遠くへ飛んでいく。

 あでやかに上る晶の香りを嗅ぎながら――俺は、きつく目を閉じた。

 

――『陽平』

 

 瞼の裏に浮かんだ、野江と寄り添う成己に――「消えろ」と言い放つ。

 

 ――どこへなりと消えろ、裏切り者!

 

 晶は、お前とは違う。俺にしか、晶は守れない――そのために、俺はお前を捨てたんだ……! 

 心の中で、強く決別を叫ぶ。ますます冷え込んでいく胸に、成己への憎悪が募った。

 俺は、全てを振り切るように、白い肌に溺れた。

 

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