第97話【SIDE:陽平】

 ――『陽平……』

 

 縋るような声が、耳の奥にこだまする。

 それは、風の音のように、水の雫のようによみがえり――俺の心にさざ波を立てた。

 ……煩わしくて、たまらない。なのに、どれほど目を背けても、消えてくれない。

「目を瞑るように、耳を塞ぐことはできない」と誰かが言った。だからなのか……その声は、俺の心に取りついている。

 

 ――……陽平……

 

 うるさい。

 

 ――陽平……!

 

 うるせえよ……!

 

 

 

「――陽平、聞いてんの?」

「……っ!」

 

 強く名を呼ばれ、俺はハッと我に返った。

 対面に座る晶が、怪訝そうに眉を顰めている。――手に持ったスプーンの冷たい感触と、目の前の皿から立ち上るハーブの香りが鮮明になる。

 

「……悪い。ちょっと、ぼうっとしてた」

「また? お前、最近それ多くねえ?」

「まあ、な……試験も近ぇし」

 

 呆れ顔になる晶に、曖昧に笑って誤魔化す。言っても心配をかけるか、不安にさせるだけだ。

 

 ――なら、言わないのが正解だろ。

 

 それっきり、食事に集中していれば――晶は、「ふうん」と片眉を上げた。納得はしていない様子だったが、あえて追及する気はないらしく、安堵する。

 

「ま、それならいいけどさ……はぁ」

「どーしたよ?」

 

 物憂げなため息に問い返すと、晶は唇を尖らせた。

 

「……なんか、美味くねえなーと思って。ドライハーブしかなかったのが痛いわ」

 

 ……何かと思えば、料理の出来栄えが気に入らないらしい。

 俺への追求がなかったのは、別のことに気を取られていたからか――少し、肩透かしを食った気分になる。

 

 ――……ま、いいけど。凝り性の晶らしいじゃん。

 

 俺は、皿に目を落とす。

 冷凍庫にストックされていた、大量の食材――その処理を買って出た晶が、作ってくれた骨付きチキンのハーブ煮込み。

 ありていに言うと、野菜と鶏のスープなわけだが、どこか洗練された味わいだった。

 ……母さんの作るメシとそっくり、とも言う。

 晶は、母さんにメシを習っていたせいか、同じ味がするんだよな。

 

 ――あいつとは、違う。

 

 ふと浮かんだ考えを振り切るよう、口を開いた。

 

「別に、美味いと思うけど」

「はあ?」 

 

 何気なく口にした言葉に、晶が片眉をはね上げる。

 

「お為ごかしとか、嬉しくねぇ」

「別に、嘘じゃ……」

「ハーブが足りないから、美味くないよ。ただでさえ、鶏は臭みがあるんだし……やっぱり、店もう一軒まわるんだったなー」

 

 晶は不満げに、スプーンを骨付きチキンに突きさしている。ほろほろに煮込まれた鶏肉が骨から外れて、澄んだスープにもつれながら広がった。

 急な不機嫌に、俺は少し面食らう。

 

「……いや、美味いって。気にしすぎだろ」

「……はぁ」

 

 励ますつもりで言えば、晶はじろりと上目に睨んでくる。

 

「はいはい。何食わしても同じなんだよな、お前は」

「……!」

「作り甲斐がないやつ」

 

 そう、放るような口調で言い、それっきり黙り込んだ。「話しかけるな」という圧を放ち、片付けるようにスープを口に運んでいる。

 あんまりな態度に、俺もさすがにムッとする。

 

 ――普通に、フォローしてんだろーが。

 

 正直、晶のこういうとこは、よくわかんねぇ。

 大学の帰りに、三軒も店をはしごして――それでも、全ての材料が手に入らなかったことは、誰が悪い事でも無いはずだ。それなのに……

 

「――ごちそうさま」

 

 黙々と食事を終え、手を合わせる。

 俺はさっと立ちあがると、二人分の食器を持って、キッチンに向かう。晶がメシを作ってくれた時は、俺が片づけをする決まりだった。

 ……あいつが出て行ってから、新たにできた習慣。ふとダイニングを振り返ると、テーブルに突っ伏している晶の姿がある。

 悶々として、スポンジに洗剤をふきつけた。

 

「……はぁ」

 

 泡立てたスポンジで、淡々と鍋や食器を洗っていく。……いつも通りの、何でもない作業なのに、諍いの後だとやけに気分がくさくさしちまう。――ただ、機嫌よくメシを食うだけのことが、なんで難しいのか?

 

 ――こんなん、いつも通りだろ。ガキの頃から、晶は気分屋なんだから。

 

 濡れた手を拭き、内心でため息をついた、その時……とん、と背中に何かぶつかる。

 振り返る前に、ふわりと芳しい匂いが鼻腔をくすぐった。

 

「……っ!」

 

 薔薇の華やかさと、熟した果実が溶け合った……優雅で、官能的な匂い。希少なワインの芳香のように、頭の芯を熱く揺らがせる。

 ――晶の、フェロモン。

 俺は、腰に回ったしなやかな腕を、そっと撫でた。

 

「晶」

「……陽、平」

 

 俺の肩に額をつけて、晶が苦し気に喘いだ。震える吐息に強い官能の兆しを認め、どきりとする。

 

「……いつもの、発作か?」

「……っ」

 

 出来る限り、穏やかに尋ねると……晶の体が、びくりと怯えるように跳ねた。

「はい」も「いいえ」も、返らない。ただ躊躇うように、俺の前に回った手がもじもじと動いていた。

 

 ――あんなツンケンしてた癖に……恥ずかしくて、言えねぇんだろなー……

 

 そう思うと、喧嘩による心の棘が消えてゆき――優しい、甘い気持ちが湧いてくる。俺は……こういうときに見せられる、晶の弱さにめっぽう弱い自覚がある。

 腕の中で体の向きを変えると、晶と向き直った。にっと笑って、赤い顔を見下ろす。

 

「あ……っ」

「してぇの?」

「……っ」

 

 晶はとろりと潤んだ瞳で、頷く。らしくない大人しい様に、欲が強く煽られた。

 しなやかな腰を抱き寄せて、俺は寝室に導いた。

 

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