第96話

「おまたせ、成」

「……!」

 

 穏やかな呼びかけが聞こえ、ぼくは布団の中で固く身を強張らせた。

 

 ――か、間一髪……!

 

 いつの間に、シャワーが止んでいたのか。考え事に夢中で、注意を払えてへんかった……!

 

「成ー?」

 

 近づいてくる気配に、慌てて布団の中で目を閉じる。――ギシ、と背後でベッドマットが沈み込む感覚。宏兄が、マットに手をついたのかもしれへん。ふわ、とシャンプーのしっとりしたいい匂いが近づいた。

 

「……っ」

「……成?」

 

 宏兄が、密やかに呟く。

 寝顔――と言っても、実際は狸寝入りのぼくの顔を、そっと見られている気がした。頬がくすぐったくなるほどの、視線を感じて……眉一つ、動かすのを躊躇ってしまう。

 

 ――起きているのが、ばれませんようにっ……!

 

 ぼくは必死に、寝息を立てるふりをする。

 

「すー……ふー……」

「……」

 

 バレているのか、いないのか――宏兄は、何も言わない。静かなお部屋には、ぼくの嘘の寝息ばかりが響いてる。

 完全に、膠着状態に陥ってしまって……ぼくは頬が熱ってくるのを感じた。

 

 ――お願い、もう……堪忍して……!

 

 心の中で叫んで――お布団の中で、ぎゅっとパジャマの胸元を握りしめた、その時。

 そっ、と頬になにか触れる。

 

「!」

「……なぁんだ。寝ちまったのか」

 

 すり、と優しく頬を撫でられている。肩がびくつかないよう、必死にこらえていると――宏兄が、ふと密かな笑い声を零した。

 

「ふふ……可愛い寝顔に免じて、許してやろう」

 

 耳がくすぐったくなるほど、優しい声に頬が熱った。宏兄の指に、この熱が伝わっちゃうんじゃないか……気が気でない思いで、ぼくは眠ったふりを続ける。

 布団が、ばさりとまくり上げられた。深くマットが沈み込み――温かい体が、隣に滑り込んできた。

 

「……っ」

「よいしょ」

 

 宏兄が、ベッドの中で大きな体を伸ばしている。――とても静かな動きは、ぼくを起こさないようにするためかも。どきどきしながら、横向きに丸まっていると……ふわりといい匂いの熱源が、背中に近づいた。

 

 ……ぎゅっ。

 

 あっ、と思ったときには――伸びてきた腕に、抱き寄せられてしまう。

 

 ――ひゃああ……!?

 

 叫びそうになるのを、堪える。

 ぼくは、すっぽりと閉じ込められていた。薄目を開けて、見てみると――胸の前に長い腕がまわって、固結びみたいになっている。

 全身で、宏兄の温もりを感じる体勢に……くらくらと目眩がしてきちゃう。

 

 ――えっえっ、こういう寝方なん? 夫婦って、こういうもの!? 

 

「成……」

「……ぁっ?」

 

 頭の後ろに、宏兄がちゅっとキスをする。

 かああ……と顔から火を噴きそうで、ぼくはかちんこちんに固まっていた。心臓ばっかりが激しく鼓動して、口をしっかり結んでいないと、ころんと出てきちゃいそう。

 

 ――は、恥ずかしいよ~!

 

 大きな胸と密着する背中が、じんわりと熱を持つ。エアコンが効いているのに、緊張で汗ばんできちゃう……

 火の玉みたいな顔を目いっぱい俯けて、身を固くしていると……大きい手が、胸を触った。

 

「ひゃ……!」

 

 小さく、息を飲む。

 温かな手のひらが……ぼくの薄っぺらな胸を、優しく撫でていた。――壊れそうなほど高鳴る鼓動に、触れられてしまってる。

 

 ――ひええ、ウソー……!

 

 する……と、布地ごしに手のひらが動くと、ぼくの吐息は震えた。

 

「……んんっ……」

 

 くすぐったくて……恥ずかしくて、死んじゃいそう。

 ぎゅう、と目を瞑った。反射的に両足を閉じて、背を丸めると――手がひょいと離れてく。

 目をぱちりと瞬くと、そっと抱きしめられた。

 

「……おやすみ」

「……んっ」

 

 米神をすべる長い髪から、いい匂いがした。シャンプーと、宏兄のフェロモンの混ざった……暖かい香り。

 包まれていると、ドキドキして仕方なかったのに……不思議と、意識が遠くなっていく。瞼が甘く痺れて、溶けそう。

 

「ふぁ……」

 

 むにゃ、と唇がほころんだ。

 くたん、と力の抜けたからだが、ベッドに沈み込む。

 

 ――だめ、意識が……

 

「んん……」

「……ふう」

 

 意識が落ちる寸前、深いため息が聞こえた気がした。

 

「まったく……可愛すぎるのも考えもんだな……」

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る