第95話

 ――微かに、シャワーの音が聞こえてくる。


「うう……」


 ベッドの端っこに腰かけて、ぼくは胸を抑えた。ドキドキって、心臓が激しく鼓動してる。口から出ちゃいそう……

 ちら、と枕もとを見る。

 そこには、さっきまで無かった枕が、もうひとつ。宏兄が用意してくれたんやって、すぐにわかった。


「うぅ~。やっぱり、ここで寝るんやんねっ?」


 ベッドは別――そんなオチはないみたい。

 ばふ、と横倒しに倒れる。フカフカのお布団が、受け止めてくれるけど……緊張は余計に高まっちゃう。


――『俺も、すぐ行くからな』


 低い甘い声を思い返して、頬がぱっと熱くなった。ぼくは、もぞもぞと落ち着かない気持ちで、座りなおす。


「宏兄、は……どうするのかな」


 口に出してみて、胸がきゅう、と締めつけられる。

 宏兄は、大切なお兄ちゃん。

 でも、今は……ぼくの夫になる人でもあって。

 兄弟じゃないんだから……一緒に眠ることは、それ以上の意味を持ったりする、よね。


「昨夜は、疲れてすぐ眠っちゃったから。何も考えへんかったけど……」


――今日が、初夜……ってことになるのかな。じゃあ、なにかする、のかな……?


 夫婦といえば。

 抱き合って……キスしたりするんやろうか。

 ぼくと、宏兄が――


「……!!!」


 ひい、と小さく叫んで、ベッドを転げる。恥ずかしくて、居ても立っても居られない。


――あ、頭が煮えちゃう……!


 猛烈に照れてしまい、誰に弁明するでなく、ぼくは口走る。


「やぁ、ない。ないって! 発情期でもないし。宏兄は大人やし、ぼくなんか……」

 

 ぎゅ、と両腕でわが身を抱く。――やせっぽちの、子どもみたいな体。


「…………ないよね」


 なんか、急激に冷静になった。

 陽平と一年以上、同じベッドで眠って――なにもなかったんやで。

 ぼくに、魅力があるとは思えないし。宏兄は、大人のアルファとして……お付きあいした人は、今までにたくさん居るはず。


「よいしょ……」


 ぼくは、もそりと身を起こす。

 まじまじと、自分の体を見下ろした。パジャマの襟から、中を覗く――あばらの薄っすら浮かんだ胸に、ぺたんこのお腹。

 オメガの色香とは? と首を傾げたくなる有り様やった。


「はぁ~……」


 ため息をつく。しゅるしゅると、浮かれた気分が萎んでいくみたいやった。


「アホやなぁ……そもそも、宏兄の優しさなんやから……」


 同情じゃないって、言ってくれた。

 でも……愛情が、恋情とは違うくらい、ぼくだってわかってる。


――宏兄は、引く手数多のアルファなんやもん。ぼくなんか、子どもにしか見えないよ……


 慌てていたのが、馬鹿みたいに思えてきた。ぼくは、さっきまでと違う意味で、赤面してしまう。


「もうっ、自意識過剰っ」


 熱る頬を、両手で覆う。むぎむぎ、と戒めるように揉み込むと、痛みのせいか、涙が滲んだ。


――ぜっったい、普通にしてよう。


 強く、心に決める。

 ぼくが、意味深にオタオタしてたら、宏兄に気を遣わせるかもしれへん。そうしたら、宏兄は優しいから……ぼくに恥かかせたらあかんって、無理するかも……


「そんなんダメ……! そんな、宏兄に無理させて……嫌われちゃったらいややもんっ」


 考えただけで、ゾッとする。

 陽平に捨てられたみたいに……宏兄に嫌われたら、どうしていいかわからない。

 足元から地面が消えるような恐怖にさらされ、ぼくは身震いした。


「そうや……先に寝ちゃったらええんや!」


 ぼくが「寝ようとしてます」と意思表示しちゃえば、宏兄も気を使わへんはずや。

 位置の相談もせえへんのは心苦しいけど、背に腹は代えられない。


「えいっ」


 ぼくは勢いよく布団をはぐって、中に滑り込んだ。

 ふかふかのお布団を、鼻の上まで被ったとき――間一髪。

 寝室のドアが、開く音がした。


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