第91話

「うん……これくらいでいいかなっ」

 

 額の汗を拭い、リビングを見回した。

 空気の入れ替えのために、開け放した窓から涼しい風が入ってくる。つやつやに拭き上げた床が、きらりと光った。使い終わった布巾をバケツをじゃぶじゃぶ洗う。

 

「それにしても……さすが宏兄、きれいにしてるなぁ」

 

 張り切って掃除に臨んでみたけれど、拍子抜けするくらい綺麗やった。

 本や置物、あちこちの壁にかかった絵を始め――このお家は物が凄く多い。なのに、全然ホコリも溜まってなくて、片付いてる。キッチンや水回りもぴかぴかで、清潔そのものやったし。

 さすがに書斎だけは、宏兄のお留守に入れなくて、遠慮したけど……この分やと、散らかってなさそう。

 

 ――そういえば、宏兄は高校から家出てるし。一人で何でもできるんや……

 

 ほう、と感嘆の息を吐く。

 陽平とは、全然違う。……陽平は、まあまあ亭主関白というか、うちでは何もしなかったから。実家でも、お手伝いさんいるって言うてたし。

 もちろん、器用やからやれば出来るんやろうけど……甘えんぼで、手がかかった。

 

 ――『成己ー、腹へった』

 ――『成己ー、タオルねえぞ』

 ――『成己ー、寒い。やっぱ暑い』

 

 ぼくも慣れてなくて、至らへんせいか、よく「成己ー」って呼びつけられたっけ。奥さんって、こういう感じかなーって、思ったものやったけど……

 

「宏兄は……陽平と全然ちがうんや」

 

 違う人やから、当たり前やけど。

 仕事も家事も、きっちりしてて。本当に自立した大人の人なんやって、改めて感じる。

 

「……うぅ」

 

 知らず、しょんぼりと肩が落ちた。

 

「し、正直……ちょっと寂しいような。――いや、なにを贅沢言うてるねんっ!」

 

 弱気になる自分に、喝を入れる。

 何でもできて、頼りになって。宏兄は本当に素敵な人なんやから。くよくよしないで、頑張らなくちゃ。

 ぎゅぎゅ、と布巾を固く絞り、布巾かけに広げてかけた。

 

「とにかく……ぼくに出来ることをする。お掃除は終わったし、つぎはご飯っ!」

 

 

 

 

 宏兄は、お店の冷蔵庫を日常用にも使ってるみたい。一階のお店まで降りて、ごそごそと中身を漁る。

 

「わあ、お肉も、野菜もいっぱいある。お豆腐に、麺類も……」

 

 さすが、お仕事用の冷蔵庫だけに、大きい。たくさん食材が入ってて、何でもそろってる。その分、選択肢が無数に広がっていて――ぼくは首を捻った。

 

「えと……なに作ろうかなあ? 引っ越してきたから、おそば。夏やし、スタミナつけるために天ぷら。いっそ麻婆豆腐とかでも……」

 

 うんうん唸る。

 宏兄に、初めて作るごはんやから。やっぱり、「美味しい」って思ってほしいし、喜んでもらえるものにしたい。――今朝の、嬉しそうな宏兄の顔を思い出し、気合が入る。

 

「あっ、そういえば!」

 

 ふいに、思い出す。

 

「いつやったか……ぼくが、センターで肉じゃがを習ったって話したら……宏兄、「食べたい」って言うてた!」

 

 活路が見えて、ぱあっと目の前が明るくなった。

 センターの肉じゃが、美味しいんよ。甘くて、お芋がほこほこしてて。

 ぼくも小さいときから食べてて、大好きなメニューや。宏兄もきっと、小さいときに食べた味が、懐かしいのに違いない。

 

「そうしよっ。肉じゃがやったら、置いておくほど美味しいし。それと、なんか副菜二つくらい付けて……!」

 

 冷蔵庫を見て、副菜はトマトサラダと、煮ひじきに決める。鼻歌を歌いながら、じゃがいもを取り出したところで……ぼくは「あっ」と声を上げる。

 

「糸こんがないっ」

 

 

 ニ十分後、ぼくは糸こんを求めて、近くのスーパーへ来ていた。

 

「――買えたぁ、糸こんにゃく!」

 

 エコバッグに品物を入れて、ほっと息を吐く。無くても作れるけど、せっかくやから、完全体で食べて欲しいもんね。

 

「ふふ。肉じゃがは、糸こんあってこそやもんね~」

 

 お肉とじゃがいもに怒られそうなことを言いながら、出口へ向かう。今日は安売りの日のせいか、店内はお客さんで賑わってる。

 青果コーナーのメロンに見惚れつつ、店内を横切ったときやった。

 

「――なあ、陽平。ここハーブとか揃えてる?」

 

 ――!?

 

 突如、聞こえてきた声に、ギクリとする。

 咄嗟に、高く積まれた買い物かごの影に、身を隠す。すると――声がもう一つ、聞こえてきた。

 

「知らねぇけど。売ってんじゃねえの」

 

 ぶっきら棒な、甘い声……聞き間違えようがなかった。ぼくはこっそりと、様子を窺った。

 

 ――やっぱり! 陽平と。蓑崎さん……!

 

 二人は寄り添って歩きながら、買い物をしてるみたいやった。ぼくは、心臓が不穏に鼓動するのを感じた。

 

 ――そういえば……ここのスーパー、マンションからも近い……

 

 何も考えず、安さにつられた自分の迂闊さを呪う。

 二人は、ぼくには気づいてないみたいで、楽しそうに談笑している。

 

「はあ? お前なー、どこの店が何置いてるかくらい、把握しとけって」

「んだよ。別に、困らねえだろ」

「俺が困んだよ。食材が足りねえと、やる気半減すんの」

 

 蓑崎さんは、陽平の持つ買い物かごに、どんどん食材を入れている。文句を言いつつ、陽平の横顔は笑ってて。

 

 ――陽平……買い物に一緒に来たことなんて、ないのに……!

 

 ずき、と胸が痛んだ。

 笑い合う二人は、恋人のように睦まじい。ひょっとして……今から、二人は一緒にごはんを食べるんやろうか。

 あのマンションで……あのキッチンで、蓑崎さんが作るごはんを。

 

「……っ!」

 

 ぼくは、その場に居られなくて――走り去った。

 


 

 宏兄の家に帰りついて、ぼくは荒い息を吐く。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 二人の姿が、目の裏にこびりついてる。振り払いたくて、激しく頭をふった。

 

「もう、関係ないっ……!」

 

 ぼくだって、宏兄と一緒にいるんやから。――終わったことなんやから! 

 そう、言い聞かせるのに。

 

 ――陽平……ぼくなんか、おらんくても元気そうやった……

 

 自分が、惨めで仕方なかった。

 やっぱり、ぼくは――陽平に「いらない」と思われたんやって、思い知らされて。


 ぼくなんか居なくても、蓑崎さんがいるから。


 彼は綺麗やし、ご飯も上手で。頭が良くて、社交も出来て……なにひとつ、ぼくが秀でる部分がなかったんやもん。


「……っ」


 どうしよう。もう終わったはずなのに――すごく痛い。

 胸を押さえて、ぼくは立ち尽くした。

  

 

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