第89話

 しばらくして――宏兄に呼ばれて向かった居間は、朝ごはんのいい匂いでいっぱいやった。

 

「味噌汁と飯、おかわり有るからな」

「わーい、いただきますっ」

 

 居間のテーブルに向き合って、手を合わせる。

 焼き鮭に箸をつけると、ふわりと湯気が上がった。炊きたてのごはんと一緒に、ひとくち頬張る。

 

「……美味しい~」

 

 ふっくら焼けたお鮭と、ご飯の組合せってなんでこんなに美味しいんやろ。じーんとしていると、宏兄が笑う。

 

「ほんと、美味そうに食うよなあ」

「だって美味しいんやもん。む……たまごもふわふわ」

 

 体調くずして何が辛いかって、ごはんが食べられへんことやと思う。夢中で箸を動かしてたら、みるみるうちにごはんが無くなっちゃう。

 お向かいの宏兄が、お茶碗をごはんで山盛りにしながら言う。

 

「成、おかわりは?」

「いただきますっ」

 

 大らかな笑顔に甘え、ぼくもお茶碗を差し出した。

 



 

 

「ごちそうさまでしたっ」

 

 熱いお茶の入った湯飲みを、宏兄に渡す。


「ありがとう、成」


 おなか一杯に頂いて、ふたり揃って満足の息を吐いた。

 ふと、宏兄が切り出す。

 

「なあ、成」

「うん?」

「今日な。これから、ちょっと仕事で出なきゃならない」

「!」

 

 はっと目を見開くと、「ごめん」と申し訳なさそうに、宏兄は手を合わせた。

 

「お前を、一人にしたくないんだが……」

「あ――大丈夫! お仕事がんばって。ぼく、もう元気やから」

 

 ぼくは慌てて湯飲みを置いて、言い募った。

 よく考えなくても、わかる話やった。宏兄はお仕事をたくさん持っていて、いつも忙しい。なのに……ここ数日、ぼくにつきっきりでいてくれて。 

 

 ――ぼくときたら、自分のことばっかりで……!

 

 自分が恥ずかしい。けど――俯きたいのを堪え、宏兄の手をぎゅっと握った。

 これ以上、足を引っ張るわけには行かへん。宏兄になんの憂いもなく、お仕事に行ってもらわなくちゃ……!

 ぼくは、にっこり笑う。

 

「気にせんと行ってきて。帰り、いつぐらいになりそう?」

「ああ……十八時までには、帰れると思う」

 

 戸惑い気味に返ってきた答えに、ぱっと考えが閃いた。

 

「わかった! あの……それやったら、台所を使ってもいい? 晩ごはんつくって、宏兄のこと待ってたい」

 

 ただ待ってるのも、退屈やから。宏兄のために、なにか出来ることをしていたかった。

 

「……」

「宏兄?」

 

 じっと見上げると、宏兄は無言のまま。ただ、握っている手がじわじわと熱くなってきて……ぼくは狼狽する。

 

「あの……だめ?」

「だめも何も……! 嬉しいに決まってるだろっ」

「わあっ」

 

 テーブル越しに、乗り出してきた宏兄に背中を抱かれる。胸に頬がぶつかったと思うと――ふわ、と濃厚な森の匂いを感じた。吸い込んだ胸の奥が、熱くなるほどの……情熱的な香り。

 

「……あっ!」

 

 強いアルコールのように、頭がくらりとする。目の前の大きな肩にしがみつくと、宏兄が言った。

 

「嬉しいよ、成。どこでも、なんでも好きに使っちまってくれ」

「宏兄……ほんと?」

「ああ――というより、俺の許可なんかいらないぞ? お前の家なんだから」

「……!」

 

 目を見開くと、優しく頬を撫でられる。

 

 ――ぼくの家……!

 

 あたたかな響きに、頬がゆるゆるに緩んだ。

 嬉しくて……にやけちゃう口元を押さえていると、宏兄が目を細めた。

 

「可愛い、成」

 

 額に、ちゅっとキスされる。

 前触れもない、奇襲というべき甘い行動に――ぼくは、目を落ちんばかりに見開いた。

 

「ひぇ……!?」 

 

 ぼん、と頬が燃える。

 額を押さえて、ぱくぱくと口を開いていると……宏兄がぱっと席を立った。

 

「よし。じゃあ、さくっと行って、終わらせて来るとするかー」

 

 宏兄は意気揚々と、鼻歌を歌いながら、キッチンに回り込む。――すぐに水音がして、洗い物をしてるのがわかった。

 

「あぅ……」

 

 こ……腰が抜けちゃった。

 「ぼくがやるよ」とも言い出せないまま……ぼくは、椅子にへたり込む。

 

 ――ひ、宏兄、どうしたんやろ……? 晩ごはんがそんなに嬉しいのかな……

 

 見るからに上機嫌の宏兄に、ぼくは戸惑う。

 ひょっとして、一人暮らしが長いから。他人の作るごはんが楽しみとか……そういうことやろうか?

 

 ――ぼく、宏兄みたいにお料理上手じゃないけど、大丈夫かな?

 

 にわかに不安になりながら、ぼくは熱る頬を手で覆った。

 

 

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