第86話

 ふにふに、と……頬を柔らかく触れられていた。

 鼻や、額にも。朝日にくすぐられ、自然と目が覚めるような――優しい感触が落ちてくる。

 

「うー……」

 

 心地いい。

 ぼくは、側にある温かいものにぎゅと抱きつく。すると、低い笑い声が聞こえ、体に震えが伝わってきた。

 

「可愛い……」

「……ん……?」

 

 いま、宏兄の声がしたような……

 ぼくは、重い瞼を持ち上げる。――優しい眼差しに、見守られていた。

 

「宏兄……?」

「成。起きちゃったか」

 

 宏兄はほほ笑んで、指の背でぼくの頬を撫でる。くすぐったい。身を捩って、自分が寝転んでることに気づく。

 

――ええと……ぼく、どうしたんやっけ……? 先生たちと話してたはず、なんやけど。

 

 きょろきょろと、辺りを見回すと――そこは、どうやら車の中やった。

 ぼくは、宏兄の膝を枕にして、眠っていたらしい。自分が抱きついているのが、宏兄の腰だと気づき……顔がぱっと燃え上る。

 

「ご……ごめんなさい!」

 

 ぱっと身を離すと、宏兄は目を僅かに見開いた。

 

「何だよ。可愛かったのに」

「か……可愛くないっ。子供と違うんやしっ」

 

 逆側のドアに張り付いて、抗議する。宏兄は苦笑した。

 

「お前はいつでも可愛いよ」

「あっ」

 

 ひょいと伸びてきた腕に、抱き寄せられる。あっと思ったときには、スーツの胸に頬がくっついて、目を瞬く。――ふわ、とフェロモンが香った。

 

「成」

「あわわ」

 

 親指で、ふにふにと頬を撫でられる。じゃれるような指先に、ぼくは戸惑った。

 

 ――宏兄……なんか、ご機嫌……?

 

 くすぐったさに肩を竦めると、宏兄は喉の奥で笑った。

  

「具合は?」

 

 大きな手に、額を覆われる。……温もりと一緒に心配が伝わってくる。親しみの籠った仕草に、ぼくは肩の力を抜いた。

 

「大丈夫。眠かっただけで、しんどくないよ」

「良かった」

 

 宏兄は、ほっとしたようにほほ笑んだ。ぼくも、笑って……宏兄の後ろに、ドアにもたせ掛けるように置かれた封筒に気づく。

 

「宏兄、それって……」

「ん? ああ、これな」

 

 宏兄は明るい声で頷くと、封筒を取って見せてくれた。

 

「俺と成の、婚姻契約書だよ。センターの審査はちゃんと通ったから、安心してくれ」

「え……!」

 

 ぼくは、目を見開いた。

 

「もう!? 陽平のときは、審査だけでも一か月は……」

「あはは。俺はそんなに気が長くない。……本当は、今日にでも結婚したかったくらいだぞ」

「ひえっ」

 

 甘い声で囁かれて、ひゃっと肩が跳ねる。

 審査が猛スピードで通ったから、あとは国の認定書が届くのを待つのみだそう。

 

「認定書が来るのは、八日だ」

「八日って、ぼくの誕生日……!」

 

 ぼくは、はっとする。

 

 ――宏兄、ひょっとして。ぼくの誕生日に間に合うように……?

 

 呆然としていると、宏兄は優しい目をする。

 

「誕生日に結婚するって、楽しみにしてたろ」

「……!」

 

 オメガは……二十歳の誕生日が来ても、引受人から婚姻の申請があれば、猶予期間を貰えるねん。だから、誕生日には間に合わなくても、申請だけでも、と先生たちも仰ってた。

 ――それ以上は、望むつもりはなかったのに。

 

「宏兄……」

 

 熱いものが胸にこみ上げてきて、ぼくは俯く。――どんな感謝の言葉も足りない気がして、言葉にならない。

 

「……っふ……」

 

 涙が頬を伝う。

 宏兄は、そっと包むように抱きしめてくれた。

 

「成。ずっと一緒にいような」

「……ぅ……」

 

 こくりと頷くと、宏兄の腕にちからが籠る。腕の中へ大切に囲われて、ぼくは嗚咽を零した。

 優しい香りに包まれて、暖かな夜やった。

 

 

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