第85話【SIDE:中谷先生】

 やわらかな相槌が聞こえなくなって、私は会話の相手が眠ってしまったことを知った。

 

「成己くん?」

「……すぅ」

 

 成己くんは、診察台に身を横たえ、すやすやと穏やかな寝息を立てている。

 せっかくだから、具合を診よう――と、私の診察室にやってきたのが、十数分前のことだった。

 立花くんが目を丸くし、声を潜める。

 

「あら。成己くん、寝ちゃったんですねぇ……」

「うん。起きて動いて、疲れたんだろう」

 

 成己くんと顔を合わせた時から、病み上がりの体をおしてセンターに来たと、すぐにわかった。診察と称し、休ませてあげたい気持ちもあったのだ。

 

「……」

 

 気を利かせた立花くんが、奥の部屋へブランケットを取りに行っている間――私は、診察台の脇に座って、成己くんを見守った。

 淡い色彩の、少年のあどけなさを残した、美しい顔だち。……派手さはないけれど、清楚で瑞々しい花のような男の子だ。

 オメガはその性質上、人を強く惹きつける容姿をしているものだが、成己くんも例外ではなかった。

 とはいえ、

 

「……よくお休み」

 

 小さく丸まって眠る成己くんに、目尻が下がる。

 私や立花くん……このセンターに勤めているものには、「彼がオメガであること」は表面的なことだった。

 成己くんは、小説と美味しいものに目がなくて。人懐っこくて、素直な……優しい子だ。

 ただ、幸せになって欲しい。

 子どもの頃と変わらず、あどけない表情で眠る成己くんの顔は、青白い。頬のラインも、痩せて尖っていた。――ここ何週間で、この子の身に起こった不幸を思い、目頭が熱くなる。

 

 ――いや……まだ、終わってはいないのか……?

 

 私は、昨日……野江さんの家を出て、センターへ戻ってからの出来事を思い起こした。

 

 

 

 

 

「何ですって!」

 

 電話口に向かって、私は驚愕の声を上げた。

 

『――ですから、見合いの話は無かった事にしていただきたいと』

「それが、何故ですか。そちら様が、春日を大変気に入ってくださっていたはずで……」

『では、今はもうお気に召さないというわけでしょう』

 

 冷酷に感じるほど、淡々とした声音で言い切り、「代理人」と名乗るものは通話を切った。ツー……と無機質な音が響く。

 

「どうして……!」

 

 私は受話器を投げ捨てるように置き、頭をかきむしった。

 仕事相手などの伝手を頼り、必死にかき集めた、成己くんの見合いの相手が……突然、続々と断りの連絡を寄こしてきている。

 しかも、先ほどの相手で、まだマシな方なのだ。こちらを罵倒するものもいる。

 事務長の山村くんが応対した相手など、「素行の悪いオメガを斡旋するなど、センターの信用問題だ」とまで、言ったらしい。

 

「今更、どういうつもりなんだ。成己くんの事情は、納得済みだったはず……それがどうして、今になって、手のひらを返すんだ?」

 

 もろもろの事情を汲んだ上で、「是非に」と申し出てくれたんじゃなかったのか。大体、素行が悪いなどと失礼千万だろう。

 焦りと困惑で、頭が熱くなる。


「せっかく……成己くんが頷いてくれたのに」


 野江さんの家で、顔を合わせた成己くんは……霞のようだった。

 あの子は、いつも通りに振る舞おうとしていたけれど……酷い打撃を受けているのは明白だった。

 この上、夢破れてはどうなるのかと……怖くて堪らなくて。必死に焚き付けて、「見合いをする」と約束してもらったのだ。

 それが――


「!」


 また、電話の着信音が鳴る。

 私は恐る恐る受話器に手を伸ばした。


「もしもし。中谷です――」


 それは予想通り、また断りの電話だった。

 しかし、今までと様子が、違った。――断りの理由が、わかったのだ。


『お力になれず、申し訳ない』


 通話の相手は、上原さんと言う実業家で……以前、私が受け持っていたオメガの患者の縁者だった。彼は私に信頼を置いてくれ――今回のことも、積極的に力になると申し出てくれていた。


「何故か……聞いても構いませんか?」

『……すみません。それは……』

「どうか、お願いします。大切なことなんです。理由もなく、見合いが断られていて……」


 さんざん食い下がると、彼は躊躇ったあと……「自分が言ったと他言しないで欲しい」と前置きし、話してくれた。


『城山家の元婚約者は……不品行甚だしい毒婦であり、さらに、肉体的欠陥を隠していたことが発覚し、離縁されたのだと……社交界でもちきりです』

「……なっ!? 馬鹿な、事実無根だ!」


 私はかっとなって叫んだ。

 成己くんは、包み隠さず身体的な事情を伝え、城山さんと婚約した。

 それに、不品行などと。他のオメガと関係を持ち、成己くんを追い出したのは、どこの誰だと言うのか――

 そこまで考えて、私は気づいた。


「上原さん。この噂の出処は……」

『……はい。城山の奥方様が……話好きのご友人方に、説明しておられました。噂は広まり……春日さんのことを、庇う方はいないようです』

「……なんてことを」


 絶句だった。

 あれほどの不貞を働きながら……さらに、成己くんを貶めようと言うのか?


――一度は、家族になろうと思った相手じゃないのか!?


 憤りに、息が詰まる。


『申し訳ない、先生。春日さんには、お会いしたことがありますし、噂は事実無根だと、わかっています。ですが、うちは……城山家とは、取引を続けていかないといけないんです。本当に、情けない限りですが……』


 沈痛な声の上原さんに、私は絶望的な気持ちになる。

 いつ通話を切ったか、わからないまま……呆然と頭を抱えた。


「どうしよう……」


 城山家は、どうしてこんなことを……。

 わからない。はっきりしているのは……成己くんに知られてはいけないことだ。

 あれほどの目に合わされたのに、こんな不名誉な噂を立てられているなんて……今度こそ、壊れてしまう。


「だが、どうしたら? 見合いができなければ、同じだ……」


 私は難題を受け――全身から、しとどに冷や汗を噴いた。

 不眠不休で、心当たりを当たった。それでも、増えていくのは、断りの電話だけだった……





「……今朝、君がセンターへ来たと聞いたとき、本当に辛かった」


 武士なら、切腹していたと思う。

 今朝のことを思い出していると……診察室のカーテンが開く。立花くんの後ろから、聳えるような長身の若者が現れ、私は目を見開いた。


「中谷先生、お疲れ様です。成はどうですか?」

「あ……野江さん! お疲れ様」


 威圧的なまでの美貌だが、大らかな笑みのためか、ただ好ましい印象を与える。野江さんは、幼いときからそういう子だった。


「成己くんは、そこで眠っているよ。疲れたみたいなんだ」

「ああ、本当ですね。お待たせ、成。――」


 いそいそと、診察台に近づいた野江さんが跪く。成己くんの頬を、驚くべき優しさで、撫でているのを見て……安堵に胸がはち切れそうになる。


――ああ、よかった……!


 絶望の感慨だったけれど。

 成己くんと、野江さんが結婚するのを聞いて、本当に嬉しかった。これで、成己くんに辛い思いをさせずに済むんだと――


「……いや」


 穏やかな気持ちで、寄り添う二人を見ていた私は、はっとする。


――野江さんにも、話しておいたほうがいいだろう。


 城山家が、成己くんに嫌がらせしていること……どうか知って、あの子の耳を塞いでほしい。

 成己くんの手を握る野江さんに、私は意を決して切り出した。


「野江さん、大事なお話があるんです。成己くんには絶対に言わないでほしいのですが、実は――」


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