第82話

 今まで――宏兄はぼくのことを、本当の弟みたいに大切にしてきてくれたよね。

 やから、やっぱり……今回のことも。ぼくを助けるために、宏兄は……プロポーズしてくれたんよね。

 

――そんなんダメ。宏兄にはちゃんと恋して、幸せな結婚してほしい……!


 ぼくは、湯飲みをぎゅっと握りしめる。

 

「宏兄の気持ち、ほんまに嬉しいです。でも……ぼく、宏兄にそこまでしてもらうわけには」

「はあ、もう……成!」

 

 必死に言い募っていると――ぐい、と肩を引き寄せられる。


「あ……!?」


 今度こそ、取り落とした湯呑みが、床を転がった。

 頬が、熱い胸にあたって、目を瞬く。

 

「お前って子は、なんでこう……怖がると思って、遠慮してるのに」

「ひ……宏兄?」

 

 低い声でぶつぶつ言っている宏兄を、おろおろと見上げる。

 すると――長い指に顎をすくわれ、額にキスされる。

 

「昨夜も、こうしたろ」

「ぁっ……!」


 ぱっ、と頬が熱る。


「俺は同情なんかで、結婚したりしない。本気で、お前が欲しいんだよ」

「……!」

 

 真摯に見つめられて、ぼくはひゅっと息を飲んだ。――昨日と同じ、熱い眼差し。

 ぎゅっ、と抱きすくめられてしまう。

 

「お前が幸せになるなら、と……城山くんとのことも、見守ってきた。だが――俺はもう、我慢しない」

「ひ、宏兄……」

「俺が、成を幸せにする」

「……っ」

 

 宏兄の切ない声を聴いていたら、胸が苦しくなってくる。喘ぐように息をすれば、深い森の香りを、いっぱいに吸い込んでしまった。


――あ……すごい、強い……


 頭がくらくらする。おなかの奥が、じわじわと炙られるような……もどかしい感覚に襲われた。

 

「やぁ……っ」

 

 怖くなって、頭を振ると……宏兄が苦笑した。

 

「……怖いか? 兄貴だったやつに、迫られて」


 かぁ、と頬が熱くなる。


「や……ちが……」

「無理しなくていい」

 

 後頭部を引き寄せられ、額がこつんと当たる。

 睫毛も触れ合いそうな距離に、動揺していると……宏兄はほほ笑んだ。

 

「俺は……成の気持ちが追い付くまで、ずっと待つ。――いわゆる、「白い結婚」でも構わないと思ってる」

「……!」

「だから、ただ……「うん」とだけ言ってくれ。それだけでいい」

 

 低く、甘く囁かれ――ぼくは慄いた。

 宏兄のお願いは、あまりにも、ぼくの為に都合が良すぎて……かえって、怖くなる。

 

 ――断らなくちゃ。宏兄の人生が……!

 

 そう、強く思う。

 理性では――本当に、思ってるのに。

 

「……ふぇ……」

 

 噛み締めた唇から、泣き声が漏れる。

 胸が、激しく震えていた。


――痛いっ……こんなの、知らない……


 宏兄の愛情が、しみわたってきて……ずきずきって、からだ中が痛い。温かいお湯に浸かって、初めて体が傷だらけやったのに、気づいたときみたいに。

 

「……っ、ううー……」

「成……大丈夫だ」

 

 宏兄が、優しく背を擦ってくれる。ぼくは子供みたいに、ひっ、ひっ、と喉を鳴らして、しゃくりあげた。


「……っ、ひろにい」


 泣きながら……ついに、頷いてしまう。何度も、声が出ないのを言いわけにして、頷いた。

 

「……成!」

 

 ぱっと顔を明るくした宏兄に、ぎゅうと強い力で抱きしめられる。ぼくは、宏兄のシャツに縋りついた。

 

 ――ごめんなさい、宏兄……


 宏兄のために、断らなきゃなのに……断りたくなくて。いま、ぼくの側に居てほしくて、頷いちゃった。


 ――大切な、お兄ちゃんやのに。ぼく、最低や……


 腕のなかへ大切に囲われて、罪悪感に胸がきりきりする。


「宏兄……」

「本当に嬉しいよ。……一生、大切にするから」


 宏兄は、甘い声で囁く。とろりと、蜂蜜みたいに素敵で……ますます、罪深い味がした。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る