第77話

 お昼過ぎ――宏兄と一緒に、寝室へと入ってきた中谷先生は、沈痛な顔をしていた。両手に、診療鞄と紙袋を提げている。

 

「中谷先生っ?」

 

 驚くぼくに近づいて、先生は声を滲ませた。

 

「成己くん、辛い思いをしたねえ。よく、頑張ってくれた」

「あ……!」

 

 乾いた手に固く手を握られて、ぼくは息を飲んだ。

 先生の髪は――たった数日で、白いものが多くなっている。ぼくが赤ちゃんのころから、診てくれている先生。今回のことで……どれだけ、傷つけてしまったんやろうか。

 

「中谷先生……心配かけて、本当にごめんなさい」

 

 涙をこらえ、先生の手を握りかえした。「いいんだ」と励ますように言われる。

 

「謝らないで。成己くんが無事なら、いいんだよ。この後のことは、これから一緒に考えていこう」

「この後の……?」

「先生――今は」

 

 黙っていた宏兄が、そっと声を上げた。中谷先生がはっとしたように、口をつぐむ。

 

「そうだった。成己くんは起きたばかりなのに、ごめんね。ひとまず、診せてくれる?」

「あ……はいっ。よろしくお願いします」

 

 診察の準備を始めた先生に、ぼくも慌てて頷いた。

 服を脱ぐことに気遣って、宏兄が席を外し――粛々と、診察が始まる。

 

 

 

「――うん。呼吸の音も悪くないね。このまま、ゆっくり養生すれば大丈夫かな」

「あ……ありがとうございますっ」

 

 胸に当てていた聴診器を外し、中谷先生がほほ笑む。ぼくはほっとして、はだけた服を直した。

 

「でも……痩せているのは、ちょっと心配だなあ。起きてから、何か食べたかい?」

「えっと、桃を食べました。宏兄――野江さんが、ちっちゃく切ってくれて……」

 

 話していると、桃の甘みが戻ってくるみたいで、頬が緩む。

 先生は、「そう」と目尻を下げた。

 

「良かった。やっぱり、点滴だけじゃ限界があるからね。たくさん食べて、休んで……」

「はい。……あの、本当に、ありがとうございました」

「ん?」

「野江さんに聞いたんです。ぼくが寝込んでいる間……ずっと、往診に来てくださったって」

 

 なんとか頭を上げて、お礼をする。

 ぼくが、こうして元気になれたのは、宏兄と中谷先生のお力のおかげなんやもん。本当に、どうやってお礼をしたらいいか、わからへんくらい――

 先生は、眉を下げて笑う。

 

「それくらい、当たり前だよ。ずっと小さいときから、君のことを診てきたんだから」

「先生……」

 

 胸がじーんと熱くなった。しばらく和やかな空気が流れ、ぼく達はほほ笑み合った。

 

「……ねえ、成己くん」

 

 ふと、中谷先生が声を低める。

 

「はい?」

「私を含め――センターの皆は、君のことが大好きだ」

「……! ぼくも、先生たちのこと大好きです」

 

 嬉しくなって、何度も頷く。

 すると――先生は、悲しい笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。だから……君には、絶対に幸せになって欲しい」

「え……?」

 

 先生は、脇に置いていた紙袋から、大きい封筒をたくさん、取り出し始めた。

 ベッドに重なってく、特殊なデザインの封筒に――ぼくは、目を丸くする。

 

「あの、これって……」

「お見合いの釣書だよ。出来る限り、条件の良い人を集めてきたんだ」

「!」

 

 ――お見合いっ……!?

 

 絶句していると、先生はがばりと頭を下げた。

 

「ごめんね。城山さんとあんなことになって、間もないのに……その上、体調も優れない君に、こんなことを頼むなんて。本当にどうかしていると思う」

「あ……先生、やめて! 頭を上げてください……!」

 

 ぼくは、じたばたと身じろいで、先生の肩に手を置いた。

 けれど――先生は、決然と声を張り上げる。

 

「でも、あえて言うよ。……明日から、七月になる。君の誕生日まで、あと八日しかない。それまでに、なんとか……いい人を見つけて、結婚してくれないか」

「……!」

 

 凄い気迫に打たれ、言葉を失う。先生は、ぼくの手を握った。――とても冷えて、強張っている。

 

「私も立花くんも、みんな――成己くんに、夢をかなえて欲しいんだ」

「先生、ぼく……」

「わかってる……君は、城山さんを大切に想ってたもの。気持ちが追い付かないってことも……でも、どうか前向きに、考えてほしい」

「あ……」

 

 ぼくは、困り果ててしまう。

 今日が三十日やって、聞いたときからわかってた。このままやと、センターに入所することになるって。

 

 ――わかってるのに……どうして、心が決まらへんのやろう?

 

 なにも答えられずにいると、先生は苦しそうに呻く。

 

「私たちは、君がセンターに来てくれると嬉しいけど……悲しいんだ。入所して、産んだ子供は……国に取り上げられるから」

「……ぁ!」

「また、家族と引き離されるなんて……君をそんな目に遭わせたくないよ」

 

 中谷先生の目に、涙が浮かんでいる。さっきのは、ぼくだけでなく先生をも、切り裂く言葉やった。それでも、ぼくのために。


「……っ」


 胸が、ずきずき痛い。大切な人が、ぼくのために傷つくのは辛かった。

 

 ――……しっかりしなきゃ……!

 

 ぼくのために……胸を痛めてくれる人たちが、いるんやから。 

 深く息を吐いて、涙をこらえる。――先生の手を、ぎゅっと握りかえした。

 

「中谷先生……ありがとう、ございます」

「成己くん」

「ぼく、頑張ります。ぜったい夢を、叶えますから……!」

 

 

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