第71話

 ――ぽつん。


 頬の上で、冷たい水滴が弾けた。

 

「……あ」

 

 肌を打つ冷たさに、はっとわれに返る。

 いつのまにか、ぼくは陽平の部屋を出て……マンションから少し離れた、住宅街を歩いていた。

 よっぽどぼんやりしてたのか、どうやって来たのか、覚えがない。

 

「えと……ぼく、どうして……」

 

 きょろきょろと辺りを見回して、見当がついた。――もう少し行けば、いつもセンターに行く時に使う、バス停がある。

 

「センター……帰らな、あかんもんね」

 

 ぼくを拒む陽平の背中を思い出し、ずきりと胸が痛んだ。

 ……もう、おしまいなんや。ぼくと陽平は、婚約者じゃないし。婚約破棄したオメガは、国のあずかりやもん。

 歩きかけて、それから……目を瞬く。

 

 ――あ……ぼく、何も持ってないし……

 

 手の中が、空っぽやった。財布も、スマホも持ってない。

 よく見れば、服だって。

 パンツはくしゃくしゃやし、シャツにいたっては、陽平のものを着てしまってる。

 

「……どうしよ……これ、お気に入りのやつ……」

 

 ぶかぶかで、ワンピースみたい。ずりおちてくる肩を押さえると……ふわりとばらの匂いが、たち上った。

 

――『成己……』

 

 陽平のフェロモンだった。強く抱かれたぬくもりが、肌に戻ってきて――息が詰まる。

 

「あ……」

 

 ぶわ、と熱く目が潤んだ。

 陽平の香りに包まれて、泣きたいくらい切なくて……ぼくは、その場にへたり込んでしまう。

 

 ――……帰りたい……!

 

 胸が焼けつくほどに、思う。今すぐ、陽平のところへ、飛んで帰りたかった。

 センターに行けば、優しい先生たちがいる。

 それでも……陽平に会いたい。

 

「……ううー……!」

  

 ぼくは、自分の体を抱きしめる。胸が痛くて、どうにかなりそうで。あんなに泣いたのに、まだぼろぼろと涙があふれ出た。

 涙に滲む頭の中で――「どうして?」って、何百回、何万回も繰り返す。

 

――『成己……俺と婚約者にならねぇ?』

 

 あんなに、嬉しかったのに……照れていないで、もっと伝えれば良かった。たくさん、「陽平が大好き」やって。もっと、たくさん。

 そうしたら……今も一緒にいられた?

 

 ――『俺は、晶を支えたい』

 

 本当は、蓑崎さんを優先されて嫌だった。意地を張らなきゃ、良かった。もっと、「ぼくだけを見て」って伝えたら良かった。

 そうしたら、こんなことには……

 

 ――『お前を、好きだったことは、一度もない』

 

 ……っ!


 

「どうして……!?」

 

 道端に蹲って、嗚咽する。――寂しい。体にぽっかりと開いた穴を、冷たい手でかき回されてるみたい。

 自分の体を、強く抱いていなければ、粉々になりそうやった。

 

 ざぁぁ……

 

 銀の針のような雨が、激しく地面を打ち付ける。

 どんどん強くなる雨足に、真黒く道が濡らされていた。ずぶ濡れの体が、服が……冷えきっていく。

 

「……っ、ふえ……」

 

 激しい雨の中、慌ててかけて行く人たちが、何度も行き過ぎていった。訝し気に、ぼくを見ていく人も……仲良く傘を並べていく人も……みんな、どこかへ向かっていく。

 

 ――ぼくも、行かなきゃ……

 

 こんなこと、してちゃだめ。でも、立ち上がれない。――立ち上がりたく、なかった。

 だって、センターに行ったら……本当にすべてが終わっちゃうから。

 

 




 

 

 

 どれだけの時間がすぎたのか――


 すっかり手足の感覚がなくなり、半ば夢の中にいた。

 雨に揉まれて、体ごと消えているような気さえする。


「……」


 ふいに、足音が聞こえた。――バシャバシャと忙しく、近づいてくる。


「――……!」

 

 そして、力いっぱい、誰かに抱きあげられる。

 ぼくは、薄れていく意識の中――深い、森の匂いをかいだ。

 

 

 

 

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