第70話

「……ぁ……」

 

 びくりとして、涙に濡れた顔を上げる。

 陽平は、顔中に怒りを漲らせて、ぼくを睨みつけていた。

 

「……好きでもねえ男に、抱かれるのはごめんってか?」

「――!」

 

 ぼくは、たいへんな間違いを犯したと悟り――全身の血の気が引く。

 

「あ……ちが……!」

 

 震える唇を叱咤し、否定しようとすると、

 

「うるせえッ!」

 

 凄まじい怒声に体を貫かれた。

 一瞬、呼吸も忘れるほどの、激しい怒り――陽平の目には、軽蔑、失望……凄まじい感情がうねって、圧倒される。

 

「……っ、う……」

 

 カタカタと、全身が細かく震えだす。

 恐怖で声も出せずにいると、陽平がはっと嘲笑した。

 

「親友のよしみで、情けをかけてやろうとすりゃ……とんだ独り相撲だったってことか」

「……陽、……」

「われながら、滑稽だわ」

 

 独り言のように言い、陽平はシャツを拾い上げた。無造作に、バサリとぼくに投げつける。

 

「あっ……」

「帰れ」

 

 冷たい声に断ぜられ、目を大きく見開いた。

 陽平は、「用は済んだ」とばかりに身を翻してしまう。はっきりと、ぼくらの間に、線が引かれたのがわかり――ぼくは青褪めて、叫んだ。

 

「待って……ごめんなさい! ぼく、ちゃんとするからっ……!」

「いらねえよ。いやいやされても、萎えるし」

「違っ……ぼく、嫌じゃない……」

 

 初めてで、怖かっただけ。

 突き飛ばして、ごめんなさい。次は頑張るから、見捨てないで……

 陽平を引き留めたくて、必死に言い募る。でも……陽平の背中は、鉄壁みたいにびくともしなくて。ぼくのやわな言葉は、全部素通りしてってるみたいやった。

 

 ――ぼく……最後のチャンスを、ふいにしたん……?

 

 絶望に、目の前が暗くなる。

 

「陽平っ、まって……!」

 

 でも――諦めきれない! ぼくは這いずって、陽平の脚にしがみ付いた。ぎゅ、と太ももを腕に抱え込み、必死に見上げる。

 陽平は、面倒そうに舌打ちをした。

 

「いい加減にしろよ、成己――もう終わりだ」

「いや……いやっ……お願いやから……!」

 

 激しく頭を振ると、硬いデニム地に頬が擦れる。零れる涙が、あちこちに散った。

 

「行かんといて、陽平……ぼくの、そばにいて……!」

 

 どうして、突き飛ばしたりしたんやろう。こんなに離れたくないのに、なんで我慢できひんかったんやろう……

 後悔で、胸が苦しい。すすり泣いていると――髪を強く掴まれた。

 

「あうっ……!」

「うるせえな! ぎゃあぎゃあ泣いて、清純ぶってんじゃねえよ!」

「……っ……?!」

 

 陽平の怒りに、痛みを忘れる。呆然としていると、陽平が腕を振り払った。ぶちぶち、と幾本、髪が抜ける感触がし――ぼくは、虫のように、べたりと床に倒れた。

 陽平は、荒い息を吐き、肩を怒らせる。

 

「なにが、「そばにいて」だ。本ッ当に、誰でもいいんだな、成己は」

「っ、陽平……?」

「ああ、そうか。あの野郎は、次男坊だったっけな? ――経済的に、どうあっても番えねえから、俺を隠れ蓑にしようって魂胆かよ」

「な、なに? なにを言うて……」

 

 烈しい語調で、陽平は捲し立てている。ぼくは、何を言われてるのかわからなくて、狼狽した。

 

 ――陽平を、隠れ蓑? どうして、そんな風に思うの……?!

 

 話を聞いてほしくて伸ばした手を、思い切り振り払われる。

 

「ふざけんじゃねえ! ――誰が、お前なんかと結婚するか!」

 

 憎悪の籠った声で、陽平が叫んだ。

 

「……ひっ……」

 

 言葉の衝撃に胸が切り裂かれ、息ができなくなる。耳の奥が詰まって、キインと金属音が鳴り響いた。

 陽平は、ぼくの頬を強く掴み……やわらかな、お砂糖のように優しい声で囁く。

 

「いいか? そもそも、お前みたいな欠陥品を……妻に欲しがるアルファなんか、いねえんだよ。いたとしても、カラダだけだ。まあ……そっちも、ガキくさすぎて、大した需要ねえけどな」

 

 つー……と、指先で、胸から下腹まで、撫でおろされる。やわらかな感触なのに、ずたずたに切り裂かれるような気持ちだった。

 思わず、ぼろっと涙をこぼすと、陽平は笑った。

 

「まだ泣くのかよ。甘えた奴」

「……っ、うう……」

 

 親指で、涙を拭われる。もう、わけがわからなくて、ぼくは頭を振った。

 これが――あの陽平が言ってることなんて、信じられない。なにか、変なものに取りつかれて、言わされてるんやって……そう思いたくて、仕方なかった。

 

「っ、陽平……じゃあ、」

 

 陽平が、片眉を跳ね上げる。

 ぼくは、勇気を奮って、言葉を継ぐ。

 

「どうして…………ぼくに、プロポーズしてくれたの……?」

 

 紅茶色の目を、真っすぐに見つめる。

 

 ――成己だからって、言ってくれたよね……ぼくと陽平は、きちんと恋人やったよね……?

 

 あの教室の夕焼けが、思い返される。

 初めて、抱きしめられた日のこと。大好きな親友の陽平を、恋人やって、思い始めた日のこと……

 陽平は、ぼくを……受け止めてくれた。オメガとして、人間として――陽平の腕に、迎えてくれたよね。

 

 お願いやから、無かったことにしないで。

 

 縋るように、見つめ続けていると――陽平は、ふっと笑った。

 

「ボランティアだよ。俺は――お前を好きだったことなんて、一度もない」

 

 

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