第64話

 いつしか泣き疲れ、眠りこんでいたみたい。――鳥の声が聞こえて、目を覚ますと、朝が来ていた。

 

「……うぅ」

 

 ずっと丸まっていたせいか、体のあちこちが痛い。のろのろと顔を上げて……日に照らされた部屋の惨状に、さらに気分が落ちこんでいく。

 ぐしゃぐしゃに乱れたベッドには、ぼくの投げつけた卵や野菜の残骸が、散乱してる。暗闇で暴れたせいで、壁までめちゃくちゃやし、床も似たような有様なうえ、げぼまみれで……

 

 ――ああ、敷金が……ぜったい無理や……

 

 呆然とする頭で呟いて、自嘲する。こんなときに、考えることちゃうよね。

 

「……気もちわるい……」

 

 泣きすぎて、顔がガビガビする。それに、汚れてから時間が経ったせいか、部屋中が生臭かった。

 よろよろと立ち上がり、換気のために窓を開けようとして……自分の手が、乾いた卵やら何やらで、めっちゃ汚い事に気づく。

 

「……洗面所、いこ」

 

 

 

 家の中はシンと静まり返って、二人の姿はなかった。

 ……いつの間に出てったんやっけ? そういえば、夢現にドアの閉まる音を聞いた気もする。

 気を失う前のことが、あやふやでわかんない。

 

「……わあ」

 

 洗面所の鏡に映った自分を見て、呻く。泣きはらした顔が、涙やげぼで汚れて、目も当てられない。

 こんな顔、見られなくて良かった……。

 せっせと顔を洗い、うがいをすると幾分さっぱりする。ついでに、汚れた服も脱いで、たらいでじゃぶじゃぶ洗った。

 

「……」

 

 泡だった水面に、ぼくのぼんやりした顔が映っては消え、消えては映る。――くしゅん、とくしゃみが出て、シャツを揉み洗いする手が、ピタリと止まる。


――あの、二人は。いつから……あんなこと、してたんやろう?


 ふと、思う。

 友だちやって、言いながら――ぼくの目を盗んで、ああして、抱き合ってたなら。

 ギリギリ……とシャツを絞る手に力が籠る。


「ぁ……いけない」


 カラカラの棒になってしまったシャツを、慌てて広げる。丁寧に皺を伸ばして……ふうと息を吐いた。

 それから、何気なく洗濯機を開けて。


「……っ!」

 

 ひゅっ、と息を飲む。

 そこには、大判のバスタオルが二枚、つくねられていた。湿気が籠もってたのか、薔薇の濃厚な香りが漂ってくる。


「……あ」


 ぼくは……昨夜、気を失う前の記憶を、かすかに取り戻す。

 そうや。

 シャワーの音に混じって、聞こえてきたんや。


 ――ふたりは、ぼくがいるのも憚らず、あの後も……


 蓑崎さんの歓喜の声は、家中に響き渡って。

 陽平は、いつまでたっても終わらなかった。ふたりの「有様」を、ぼくに教えようとするように……

 それでぼくは、息が出来なくなって。ひとり、気を失って――


「……うっ」


 ぼろ、と涙がこぼれ落ちる。心の大事な部分まで、剥がれた様な感じがした。


――もう、無理……!


 ぼくは、洗濯機から顔を背け、自室へ駆け込んだ。





 大きな鞄を開いて、ぼくの荷物を詰め込んでいく。


「通帳と、印鑑と……大切なもの」


 貴重品と、生活必需品。あとは、宝物の小説と……サボちゃん。それだけ持って、センターへ帰ろう。

 だって……もう、ここへ居られない。


「……陽平なんかっ……」


 唇をきりきりと噛みしめる。

 陽平なんか、もう知らない。蓑崎さんと、ずっといちゃいちゃしてたらいいんや……!


「うー……!」


 本棚には、目一杯本が詰まってて抜けにくい。怒りに任せて、引き抜いたとき――ばさばさ、と本が雪崩落ちた。

 泣きたい気持ちで、跪いて。


「あ……っ!」


 床に散らばった本の一つに、目を奪われる。

 一冊のハードカバーの本で、栞が二枚差されてる。オレンジと、水色の……


――『わかったって。降参、降参……!』


 楽しそうな声が、ふと耳の奥に甦った。


「ぁ……」


 ぼくは、本を拾い上げた。

 この本は――桜庭先生が、友達のアメリカの作家さんと共著した作品で。日本には、あまり出回らなかった。

 ファンとしては、絶対に読みたくて。陽平とふたり、あちこちの書店を探し回って……やっと一冊だけ、手に入ったん。


「えっ。ぼくが持ってていいの?」

「見つけたのお前だろ。まあ、どうせ一緒に住んでるし」


 陽平の言葉の意味を知ったのは、すぐ。


「あーっ、ぼくの番やのに」

「ん? 本が暇そうだったから。可哀想だろ」

「もう、トイレ行ってきただけやろっ」


 毎日のジャンケンで、順番決めるのにね。陽平ってば、怪盗みたいに本を掠めとってくの。


「陽平~……返さんと、こうやっ」

「うわっ! あはは、やめろバカ!」


 くすぐりで逆襲したら、陽平は大笑いして……ぼくをぎゅっ、て抱きしめてくる。


「……降参する?」

「はいはい、降参……っふふ」

「えへへ」


 間近にある紅茶色の目が、楽しげに細まって。こっそり、ドキドキしてたんよ。ばらの香りに包まれて、幸せで――


「……っ」


 ぼくは背表紙を撫でて……涙ぐむ。


――『成己、あと一行だけ』


 甘えた声が、聞こえてくるみたい。

 優しい思い出を振り切るように、本を置こうとして……ハッとする。


――偶数巻しか持ってない、長編映画。二人でむきになった、クロスワードの雑誌。誕生日にくれた、お菓子の空き缶。コルクボードの写真は、陽平のバイクで旅行に行ったときの……


 部屋のほぼすべてに、陽平との思い出があった。

 どれも、愛おしくて……泣きたいほど苦しい。


「……ううっ」


 涙が溢れてくる。

 だめや。

 陽平のこと……やっぱり、何かの間違いやって思いたくて、仕方ない。

 だって、蓑崎さんが来るまでは、幸せやったもん。 


「……ひどいよ……」


 ぼくは、鞄を開いて中身を取り出した。元あった場所に、戻していく。


――許したい。陽平のことを……


 やっぱり……好きやから。

 何があっても、一緒に居たいんやもん。――家族になるって、決めたんやから。


「……うん。頑張ろう……」


 顔を拭って、ぼくは立ち上がった。

 そうして――強く決意した、その翌日。

 戻ってきた陽平に、「婚約破棄証書」を突き付けられた。



 

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