第62話
「宏兄、送ってくれてありがとう。ほんまにお世話かけて……」
マンションに着いた頃には、日はすっかり沈んでいた。車を降りてふかぶかと頭を下げると、宏兄が笑う。
「何言ってんだ、水くさい。――話し合い、頑張れよ」
「うんっ! 宏兄、帰り気をつけてね……!」
宏兄の車のテールライトが、遠ざかるのを見送って……ぼくは、「よしっ」と気合を入れた。
「あっ」
部屋を見上げると、ベランダに出しっぱなしにしてきた洗濯物が、仕舞われてる。カーテンも閉じられてるみたい。
「帰ってきてる……!」
心に、ぱあと灯が点る。
はやる気持ちで歩き出すと、両腕にさげた買い物袋がずんずん揺れた。
「わっ……ちょっと買いすぎたかなあ」
せっかく陽平が帰って来たんやし、一緒にごはん食べたくて。スーパーへ寄らせてもらったんよ。
どうせなら、陽平の好きなごはんがいいから……お野菜たっぷり汁物と。玉子と鶏――トマトに三つ葉も買ったから、オムライスでも親子丼でも、どっちもできる。
「~♪」
ぼくは、振り子みたいに揺れながらも、足取りは弾むように軽かった。
マンションのロックを外し、エレベーターに乗って。あっという間に、部屋へとたどり着く。
「……ふう」
解錠して、一度深呼吸してから……ドアを開いた。
「ただいまー」
笑顔で、玄関に入ったぼくは――ギクリと固まった。
「――!?」
陽平の靴の隣に……見覚えのある、蓑崎さんの靴があったから。急に、胸がずんって重くなる。
――いるの……?
流石に、今日は二人きりだと思ってたのに。ちょっと……ううん、かなりガッカリして、靴を脱ぐ。
そこで――さらなる違和感を覚えた。
静かすぎる。
いつも、あの二人が一緒にいるときは、家のどこに居ても賑やかに話し声が響くのに。怪訝に思いながら、リビングに入ると――誰もいない。
「……どこ?」
呟いた自分の声は、不安にざらついてる。
心臓が、不穏にドキドキして……息が苦しくなってくる。
そのとき、家の奥から物音がした。
――……!
何か軋むような、悲鳴のような音。
ぼくは、とてつもなく嫌な予感を覚えたんやけど……足は、勝手に廊下に出て、二人の姿を探し始めた。
――……ギシッ……
家の奥に近づくにつれ、軋む音が鮮明になる。――この前の、演習室の光景がいやでも頭に浮かんだ。この家に、ソファがあるのはリビングと、陽平の部屋だけ。
「まさか、また……違うよね? だって、電話して来てくれたもん……」
そう思いたいのに――家の奥に近づくほど、あの匂いがする。濃厚な、薔薇の匂いが……
――『……』
「!」
ギシッギシッ、と軋む音に混じって、泣くような声がする。蓑崎さんの声やって、考えんでもわかって、瞼が熱くにじむ。
――ひどいよ……!
ぼくはカッとなって、走り出す。そこで――どういうわけか、目指してたはずの陽平の部屋を素通りした。
それは、ぼくのオメガとしての勘やったのかもしれへん。
ぼくは本能に導かれるように、濃厚な匂いと、物音の発生源――寝室の扉を開いた。
「――!」
その瞬間、息が止まった。
まず見えたのは、背中――裸の背中が、暗い部屋の中でずっと動いてる。
そして、その背中に、絡みつくしなやかな手足――溺れる人のように、陽平の体に蓑崎さんが、しがみついていた。
「晶……!」
「……陽平っ……!」
二人は素肌を合わせ、名を呼び合いながら、体を弾ませている。
その不規則なリズムに合わせて、激しくベッドが軋む音が響いた。後を追いかけるように、粘っこい水音と、泣くような蓑崎さんの声が高まっていく。
……ぼくと、陽平のベッド。
そう、ポツンと思ったとき、
「うぅ……!」
噎せ返るような、暴虐的なまでの薔薇の匂いが、脳を刺す。
猛烈な吐き気に襲われ、体をくの字に折った。苦しさに涙が滲む。
――うそ……! こんなん、嘘……!
そこで行われてるんは、紛れもない「裏切り」やった。
この前みたいに、言い逃れは出来ない。
ぼくの「婚約者」は、彼の「親友」を抱きしめて、「恋人としかしないこと」をしてる……
「やめて……」
崩れ落ちそうなぼくに、二人は気づかない。
「……陽平、俺のアルファ……もっと来て……!」
「……ああ、晶っ……!」
必死に求めあう音、匂い――必死に耳を塞いでも、ぼくに現実を突きつけてくる。
――どうして……どうしてこんなことするの……!?
泣きわめきたいのに、声が出ない。
足も、床に張り付いたみたいで……逃げようもないまま、ぼくは一部始終を見せられてしまう。
やがて――感極まったように体を震わせ、陽平が蓑崎さんにキスをした。
「陽平……好き……」
「晶、ずっと好きだった……」
その甘い声を聞いた瞬間――ぶつり。
ぼくのなかで、何かが音を立てて切れた。
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