第57話

 バシッ!

 

 乾いた音が、部屋に響いた。

 でも、打ったんはぼくやない。

 

「……!?」

 

 ぼくは、じんじんする頬を押さえて、呆然とした。――憤怒の形相で、手を振り下ろしている陽平を、信じられへん思いで見る。陽平は、蓑崎さんを背に庇って……彼を守る騎士のように、ぼくに立ちはだかっていた。

 

 ――なんで、陽平……?

 

 陽平が、ぼくを叩いた。その事実をはっきりと理解する前に、怒鳴りつけられる。

 

「――何しようとした、成己ッ!」

 

 鋭い怒声に、びくりと体が強張る。

 

「晶に、何するつもりだったんだって、言ってんだよ! ええ?」

「やっ……!」

 

 胸倉を掴まれて、めちゃくちゃに揺さぶられる。小さなテーブルに、がつんがつん脚や腰が当たって、痛みに呻く。なのに――陽平は、どうでもいいヌイグルミみたいに、ぼくを振り回した。

 

「やめてっ……!」

 

 あんまり激しい怒りに、ぼくは飲まれてしまう。必死に叫ぶと――急に、振り捨てるようにシャツを放された。

 ぼくは、へなへなと脚の力が抜けて、床にぺたんと座り込んでしまう。

 

「……ううっ」

 

 カタカタと震える身を抱いて、こみあげる涙をこらえる。どうして、酷いことをしたのはそっちやのに……ぼくが、責められてるんやろう?

 

「やめろよ、陽平……かわいそうだろ?」

「……晶」

 

 蓑崎さんが、そっと陽平を窘める。すると、陽平は気遣うように、彼の肩を抱いた。

 その瞬間――肌が粟立つような不快に襲われて、気力が猛烈に蘇える。

 ぼくは、パッと顔を上げて、寄り添う二人を睨んだ。

 

「……陽平のアホ! なんで、怒るん。蓑崎さんと、あんなことしといてっ……!」

「はあ?」

「見たんやから……! 誤魔化したってきかんからっ」

 

 不快そうな陽平に負けじと、声を張り上げる。

 だって――部屋の中には、濃厚な薔薇の匂いが残ってる。まだ、生々しいほどに、陽平たちの行為の証拠があるんやから。

 抱き合う二人に、苦しくなる胸を押さえて、睨み続けていると――陽平が息を吐いた。

 

「何、勘違いしてんだか。あれは治療行為だ」

「……は?」

 

 しゃあしゃあと言われてしまい、目を見開く。

 治療……あれが? あんまりにもふざけた言い訳に、カッとなる。

 

「馬鹿にせんといてっ。あんな……」

「アホか。よく見ろよ――服も着てるだろうが。いかがわしい行為なんか、できるわけねえだろ」

「……それはっ」

 

 ぼくは、唇を噛み締める。

 陽平の言う通り――二人とも、目立った着衣の乱れはなかった。その、いわゆる性交に及べる格好ではないと、ぼくもわかる。

 

「けどっ……二人とも、抱き合ってた! 様子も、絶対おかしかったもん……!」

「……それは、俺のせいだから」

 

 食い下がるぼくに、声を上げたのは……蓑崎さんや。彼は、わが身を庇うように俯き――ぽつぽつと話し始める。

 

「俺、抑制剤が効きづらい体質でさ。そのせいか、ヒートが不定期なもんで……すぐ体調崩しちまうっつーか」

「晶……! そんなこと言わなくていい」

 

 聞かされるセンシティブな事情に驚いていると……陽平が、蓑崎さんを止める。

 

「いいんだ。でないと、お前が誤解されたままだろ」

「晶……馬鹿野郎」

 

 陽平が、くしゃりと顔を歪めて、蓑崎さんを抱きしめる。蓑崎さんは陽平に凭れかかって、甘えるように頬をすり寄せた。

 見せつけられるやりとりに、頭がくらりとする。

 

「うぅ……っ」

 

 下腹部が、じくんと刺されるように痛む。思わず、顔を歪めるぼくに、蓑崎さんは悲し気に笑いかけた。

 

「陽平とは、成己くんが思ってるような関係じゃないよ。さっきは、俺の具合が悪くなったもんで……フェロモンで助けてもらっただけ」

「……フェロモン?」

 

 痛みに、冷たい汗が滲むのを感じながらも……問い返す。

 

「そう。アルファのフェロモンで、オメガは落ち着くだろ? だから、陽平が言う通り、あれはただの治療行為ってやつ。俺も陽平も、いっさいその気はないから」

 

 ……たしかに。中谷先生も、アルファに側にいて貰うと整うって、ぼくに教えてくれた。それは、嘘やないと思う。でも……

 

「……ぼく、納得できません……!」

 

 きっぱり言うと、蓑崎さんの顔が凍り付く。

 大変なご事情には、同じオメガとして同情する。でも……ズキズキと痛むおなかを押さえた。陽平の恋人としては、全身が「NO」を叫んでるんやもん。

 だって……ぼくが、陽平のオメガなんやから。

 

「陽平とあんな……いやです。それに、蓑崎さんにもっ……婚約者が」

「いい加減にしろ!」

 

 ぼくを遮って、陽平が叫んだ。びりびり……と、肌が痺れるほどの怒気に、息が詰まる。

 

「お前は、オメガだろ!? なんで、晶の事情を分かってやれねーんだよ」

「……っ」

「晶の婚約者は、忙しくていつも傍にいられねぇ。晶が安全に大学に通うために、ちょっと協力するくらい何が悪い。だいたい、お前も協力するつったろうが」

「そうやけど。でも、陽平……」

 

 激しく捲し立てられて、混乱する。しどろもどろになるぼくに、陽平はさらに詰め寄ってくる。

 

「くだらない勘繰りしてる場合じゃない。お前の我儘のせいで、晶になんかあったらどうしてくれる? 責任取れんのかよ?」

「それは……でも」

「はっきり言え!」


 なんで、ここまで責められなあかんの。

 嫌なもの見て、怒っただけで……なんで怒られてるんやろう。

 涙をこらえていると――陽平は、鼻白んだみたい。


「だんまりか」

「……」

「お前は、もっと思いやりがあると思ってた。こんな埒もない……ああ、そうか」


 陽平は、うす暗い笑みを浮かべた。


「お前は、欠陥品のオメガだもんな。晶の苦労なんか、わかるわけねえか」



 ――!






「……おくさん、おくさん、大丈夫ですか」

「……あっ」


 肩を揺すぶられ、われに返る。

 傍らに膝をついた岩瀬さんが、心配そうにぼくを覗き込んでいた。


「あ……ぼく。陽平は……」

「城山くん達なら、出て行きました」


 言われた通り、のろのろと顔を上げれば……部屋には二人の姿は無かった。――いつの間に。

 ずき……と、頭が痛む。


「すんません、俺……」

「え……」

「止められなくて。城山くんにびびるだけで……あんな、ひでえこと」

「……!」



 ぼくは、はっとする。


――欠陥品。


 陽平にぶつけられた言葉が、甦った。


「う……」


 おなかが差し込むように痛む。激しい吐き気とともに、脳がぐらぐら揺れる。

 陽平の言葉が突き刺さり、体の芯が壊れたみたいやった。


――陽平、どうして……?


 うちに帰りたい。……帰らなきゃ。

 そう思って、なんとか立ち上がろうとしたとき、ぐらりと視界が歪む。


「……奥さん!?」


 岩瀬さんの悲鳴を最後に、ぼくの意識は途絶えた。


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