第37話

「近藤さん! 本当に、すみませんでした……!」

 

 ぼくは、足音高く玄関へ向かう近藤さんを追いかけ、深く頭を下げる。

 

 ――まさか、殴っちゃうなんて……!

 

 酷い焦燥に、耳の横でドクドクと心臓が不穏に脈打っていた。



 

「行くぞ、晶!」

「ぁ……陽平っ」

 

 剣呑なオーラを発したまま、陽平が蓑崎さんの腕を引き歩み出す。蓑崎さんは、半ば呆然として――腕を引かれるがまま、部屋を出て行った。

 二人が去った後のリビングを、重い沈黙が支配する。――アルファである陽平の怒りに、みんな雷でも打たれたような、ショックを感じてるみたいやった。

 ぼくも、おんなじ。あんなに怒った陽平は初めて見た。


――陽平、蓑崎さんのために……?


 ずき、と胸が痛んだとき……呻き声が聞こえた。

 

「う……」

「!」

「近藤さん!」

 

 テーブルに倒れ込んだ近藤さんを、われに返ったみんなで助け起こす。不幸中の幸いか、割れたグラスやお皿では、怪我をしてへんみたいや。それでも、殴られた頬は赤黒く変色し、唇の端からは血が流れていた。

 陽平、どれほどの力を込めたんやろう。ぼくは慄きつつ、近藤さんの側へ膝をついた。

 

「大丈夫ですか? いま、手当てを――」

「……っいらねえよ!」

 

 ぼくの手を払いのけ、近藤さんは立ち上がった。怒りに燃える目で、周囲を見渡し――「帰る!」と太い声で怒鳴る。


「気分悪ィ……お高くとまりやがって。――お前ら、さっさと動け! 帰んぞ!」

「は、はい!」


 近藤さんの気迫に圧され、他のお客さんも大慌てで帰り支度を始めた。あれよあれよ、と玄関に雪崩込む彼らを、ぼくは慌てて追いかけた。




「近藤さん。本当に申し訳ないです……!」


 そして、冒頭に到るんよ。

 ぼくは深く頭を下げて、謝罪をくりかえす。

 確かに、近藤さんの行動は良くなかったけれど――殴ってしまったことは、こちらに非がある。

 

――城山家にとって、近藤さんの家は取引先。このままじゃ、関係が悪くなっちゃう……!


 そしたら、今まで陽平が頑張ってきたことが、不意になるんや。ぼくは、じっと頭を下げ続けた。

 すると――頭上で「はあ」と荒く息を吐く気配がした。


「成己さん。あんたに謝って貰ってもな」

「近藤さん……」

「城山の野郎、調子こきやがって!」


 近藤さんは、床に血混じりの唾を吐き捨て、出ていってしまった。


――どうしよ、だめだった……


 呆然と肩を落としていると、他のお客さんもぞろぞろと続く。


「じゃあ、俺らも帰るんで……」

「お世話さまでしたー」


気遣わしそうに見たり、肩に酔いつぶれた仲間を担いだりして、足早に近藤さんを追っていく。


「皆さん……すみませんでした」


 頭を下げて、すべてのお客さんを見送り――ようやく、ドアを閉める。


「……ふぅ」


 ぼくは、深くため息をつき、リビングへ戻る。――そこは、酷い有り様やった。

 テーブルは倒れ、割れたお皿やグラスの破片が、あちこちに散乱してる。食べ残しとお酒で、カーペットもめちゃくちゃや。


「うわあ……お片付け、大変そう」


 ……岩瀬さんと渡辺さんが「残って片付けを手伝う」と申し出てくれたの。お言葉に甘えるべきやったかな。

 肩を落としかけ――そんなのダメ、と首を振る。


「お客さんに甘えすぎや……それに、まず陽平と話さなきゃ」


 きゅっと唇を結んで、二人の元へ向かった。






 陽平の部屋のドアは、薄く開いていて……ノックする前に、声が聞こえてきた。


「……大丈夫か……?」


 陽平の声や。囁くような優しい響き。思わず、ドアを開けるのを躊躇うほど……

 ぼくは、そっと中を覗き――目を見開いた。


「!」


 部屋の真ん中で……陽平が、蓑崎さんを抱きしめていた。しっかりと背を抱いて、優しい手つきで髪を撫でている。

 蓑崎さんの腕もまた、陽平の背に縋りつくように回されてた。


「やべぇ……震え、止まんね……」


 蓑崎さんが、弱々しい声で呟く。陽平は、痛ましそうに目を伏せた。


「大丈夫だ、晶。俺がいるから……」

「陽平……」


 二人は、まるで想い合う恋人みたいに、身を寄せ合っている。

 ぼくは、その光景を呆然と見つめた。


――なんで、そんなに……?


 知らず、よろよろと中に入ってしまった。キイッ、と蝶番が音を立て、二人はハッとこちらを見る。


「……ぁ」


 蓑崎さんが、恥じらうように陽平の胸に顔を埋める。その仕草に――ぼくは、項の毛が逆立つような気持ちがした。

 すると、陽平が蓑崎さんの頭を庇うように抱え込み、ぼくを睨んだ。


「んだよ、成己……」


 責めるような声音に、怯みそうになる。ぼくは、負けじとお腹に力を込めた。


「あのね……みなさん、帰らはったから。近藤さん、めちゃ怒ってて……ぼくも謝ったけど、また陽平も」

「はぁ?!」


 謝って――そう言う前に、陽平が被せるように怒鳴ってきた。鋭い声音に、息を飲む。


「なんで謝んだよ?! あいつが悪いんだろ!」

「ぇ……でも……殴るのは……!」

「成己ッ! あいつが晶に何したか、見てなかったのか!」


 物凄い怒鳴り声に、空気がビリビリ震えた。陽平の目は、燃えるような憎しみで、ぎらぎら光ってる。


「あ……」


 あまりの剣幕にからだが萎縮して、かたかたと膝が震えた。

 怖かった。親友で、恋人の陽平を……そんな風に思ったのは初めてや。

 陽平は、蓑崎さんを抱きしめ――ぼくを睨みつける。


「あいつは、晶に乱暴したんだぞ。お前だって、オメガだろ?! なんで、晶の気持ちがわかんねーんだよ!」

「……っ」


 陽平の言葉が、ざくりと胸を貫いた。

 冷たい――そう言われた気がして。


「陽平……言い過ぎだよ。成己くんの言う通り、俺が悪かったんだ」

「馬鹿……お前は悪くない!」


 悲しげな蓑崎さんを、陽平が慰める。

 ぼくは、呆然と立ち尽くしていた。

……たしかに。

 たしかに、ぼくだって、変な人に襲われかけて怖かった。謝ったのは――蓑崎さんの気持ちを、考えて無かったかもしれない。

 ……でも。


――なんで? なんで、蓑崎さんのことは、そんなに……


「ひどいよ、陽平……」


 ぽろ、となじる言葉が口をついて出た。


「あ?」


 陽平は眉を跳ね上げる。けど、構わず続けた。


「なんで? ぼく、陽平のために頑張ったのに……」


 思わず、声が滲んでまう。

 だって。

 ぼくのことは、「しっかりしろ」って怒ったのに。

 今まで、近藤さんにぼくがからかわれても……いちども、庇ってくれへんかったのに。


 ――蓑崎さんのためやったら、殴るの?


 悲しくて、やり切れなくて……ぐっと唇を噛みしめる。

 数瞬の沈黙があった。それから――苛立たしげなため息が聞こえた。


「言いたいことはそれだけか?」

「ぇ……?」


 弾かれたように顔を上げる。

 陽平は、心底うんざりした顔をしていた。


「もういい。まともに反省も出来ねぇなら、どっか行け」

「……!?」


 あまりに冷たい言葉に、目を見開く。


「待って、陽平……なんで、」

「ああくそ……! 今、お前のわがまま聞いてる場合じゃねーんだよ!」


 近づいてきた陽平が、ぼくを部屋からどん、と押し出した。――蓑崎さんは、腕に抱えたままで。


「待ってよ、陽平……!」


 話を聞いて……!

 なんとか振り返った眼前で、バタンとドアが閉まる。

 それが、明確な拒絶に思えて……ぼくは、へなへなとその場にへたり込んだ。


「なんで……?」


 なんで、ぼくの話は聞いてくれへんの……?

 陽平に言われたことが、いちいち深く刺さってて、胸がずきずきする。


「うぅー……」


 ぼくは床に丸くなって、なんとか痛みをやり過ごした。 



 

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