第31話

 ぼくは、宏兄に昨夜の陽平との顛末を話した。

 

「――でね。陽平は、ぼくにしっかりしてほしいって言うてて。やから、今後のことが相談しにくくて」

「そうだったのか……」

 

 そう話を結ぶと、宏兄は真剣な面持ちで、頷いていた。

 当事者のいない所で、一方的にケンカのことを話すのは……ちょっと罪悪感があったけど。いったん話してしまうと、それだけで胸のつかえがおりていくような、清々しい気持ちがした。

 

 ――宏兄が、ずっと真剣に聞いてくれたからかも。

 

 自然に頬が緩む。ほっと息を吐いていると、「成」と優しい声に呼ばれた。

 

「うん?」

「辛かったな」

 

 頬をそっと拭うように撫でられて、ぼくは目をまたたいた。まるで、見えない涙を拭うような手つきに、胸がくすぐったくなる。

 ぼくは、にっこりと笑った。

 

「ううん! ありがとう、宏兄。聞いてもらえて、めっちゃすっきりした」

 

 やっぱり、心配なこととか、腹立つこととか……ネガティブな感情って、胸に抱えてるだけで苦しくなるんやね。宏兄に打ち明けた今、いろいろ何とかなりそうな気がしてきた。

 そう言うと、宏兄は苦笑した。

 

「成らしい。でも、だめだぞ」

「えっ。何で?」

「成の前向きな所は美点だし、好きだけどな。体調ばかりは、根性ではどうにもならない。ここは、きちんと今後のことを詰めておこう」

「あ……そっか」

 

 穏やかに諭されて、「えへ」と頬をかく。つい浮かれちゃうぼくと違って、さすが宏兄は冷静やなあ。

 年上の幼馴染を、頼もしく見つめていると、宏兄は笑った。

 

「成。これから出かけるときは、必ず俺に連絡してくれ」

「え」

 

 ぼくは、目を丸くした。宏兄は言葉を継ぐ。

 

「大丈夫。俺は仕事が自由だし、何がどうでも都合はつけられる」

「ち、ちょっと待って。そんなん、悪いよ……! 宏兄、忙しいやんかっ」

「それがどうした。俺はこのとおり、ぴんぴんしてるだろ? 何も気にせず、頼りにしたらいい」 

「で、でも……」

 

 ぼくは、おろおろと首を振る。――だって、ぼくの事情やもん。いくら幼馴染とは言え、宏兄にそこまでお願いするなんて、申し訳なさすぎる。

 すると……宏兄がふうと大きく息を吐く。どかっと頬杖をついて、呆れ顔でぼくを見た。

 

「成。悩んでるところ悪いが、俺はもう決めた」

「え?」

 

 決然と宣言されてしまい、ぼくはぎょっとする。

 

「だから、お前がどこに行っても、勝手に迎えに行く。お前が俺を必要ないなら、その都度追い返すしかないって思っとけ」

「そ、そんな! ウソ……」

「悪いが、大マジだ。ちなみに俺は有言実行の男だからな、覚悟しろよ」

「な……な……」

 

 飄々ととんでもないことを言ってのけ、宏兄はずずっと湯のみのお茶を啜った。唖然とするぼくの湯飲みをとって、首を傾げる。

 

「冷めてるな。差し替えてくる」

「お、お茶どころじゃないよっ……!」

 

 思わず突っ込むと、宏兄は「ははは」と笑ってカウンターの中へ入っていく。ぼくは慌てて、その背を追っかける。

 

「待ってよ、宏兄」

「なんだよ」

「なんだって……」

 

 あんまり普通にされるから、逆に言いよどんでしまう。

 宏兄の急須にお湯を注ぐ、こぽこぽという音が大きく聞こえた。湯気の向こうから、静かな目がじっと見据えてきた。

 

「成、俺はな。お前が大変な時に、なにも出来ないのはごめんだぞ」

「宏兄……」

「もう二度と、あんな思いはしたくない」

「!」

 

 その真摯な眼差しに、声に――脳裏に夕焼けの記憶が閃いた。

 

 ――『成……!』

 

 降りしきる雨に……ずぶ濡れになった学生服の宏兄の、必死の声が甦る。

 胸が苦しくなって、思わず俯いてしまう。

 

「まあ、そういうわけだから頼む」

 

 過去と現在の画面を切り替えるように、宏兄が明るい声で言う。おずおずと目を上げると、湯気の立つ湯飲みが、差し出されていた。

 目の前の宏兄は、穏やかに笑っている。

 

「あ……」

「俺を助けると思って」

 

 そう言って、宏兄はおどけるように片目を瞑った。

 ぼくは……その温かさにひかれるように、その湯飲みを受け取ってしまった。

 

 

 




 

 

「送ってくれて、ありがとう」

 

 マンションまで送ってくれた宏兄に、ぼくはお礼を言った。宏兄はにっと笑う。

 

「いや。遅くなって悪かったな」

「何言うてんの、こちらこそやんっ!」

 

 それに、まだ五時過ぎやもん。陽平が帰ってくるには、まだまだあるはずやから。

 そういうと、宏兄は安堵のためか唇をほころばせる。


「じゃあな、成。いつでも連絡してくれ。なんなら……今晩でもいいぞ?」

「ふふっ。もう、そんなにこき使いませんっ」

 

 宏兄ときたら、冗談ばっかり。ぼくを気にさせんとこうとして、大人やなあ。


「ありがとう、宏兄。またね」


 マンションの入り口で振り返って、もう一度手を振ると――宏兄は車を発進させていった。

 遠ざかるワゴンを笑顔で見守って、ぼくは鞄から鍵を出そうとする。そのとき、


 どんっ。


「わっ!」


 急に、脇から肩を押されてよろけた。ぎょっとして、顔を向けて――目を見開く。


「や、成己くん」

「蓑崎さん!?」


 姿を現したのは蓑崎さんやった。さっきは、柱の陰に隠れて見えへんかったみたい。

 蓑崎さんは、両手に大きなスーパーの袋を下げていた。


「あー、よかったあ。成己くんが帰ってきてー。オートロックの存在、忘れてたんだよね」


 早く、というように顎で促され、戸惑いつつロックを開ける。


――なんで、蓑崎さんが?……陽平から、なんも連絡なかったけど……


 戸惑うぼくを置いて、先に建物に足を踏み入れた蓑崎さんが、ふいに振り返る。


「っていうよりさ、成己くん。さっきの人は、陽平には言わない方がいいかんじ?」


 艶やかな黒髪の下、目尻の赤い花がやけに毒々しくて。ぼくは、あっと息を飲んだ。


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