第27話

 宏兄は、ぼくのマンションではなく、うさぎやに車を走らせていた。そのことに、ぼくは安堵の息を吐く。このまま……きちんと謝れないまま、バイバイするのは辛すぎたから。

 しばらくして――うさぎやに着いた。さっさと車を降りた宏兄は、助手席のドアを開けた。

 

「成」

「あっ」

 

 ひょいと抱えられるように、車を下ろされる。おろおろしている間に、さっきまでと同じように手を引かれ……勝手口から、店の中へ入った。

 すると。

 

「ああっ、やっと帰ってきた! ――桜庭先生、どこ行ってたんですか?!」

 

 明るい声に出迎えられて、ぼくは驚いた。

 カウンター席に座っていた綺麗な女の人が、飛び跳ねるようにこっちに向かってきた。宏兄は、「あ」と声を上げる。

 

「ごめん、百井さん。忘れてた」

 

 宏兄が軽い感じに謝ると、女の人――百井さんは、きりりと眉を吊り上げる。

 

「ごめんじゃないですよ! 打合せの最中に、いきなり飛び出してって。鍵もないから帰れないし、コーヒーもないから、喉も乾くし……って、あら? 成己くんじゃないですか?!」

 

 立て板に水の勢いで宏兄に詰め寄っていた百井さんが、ぼくに気づいて目を丸くした。

 

「こ、こんにちは、百井さん。おひさしぶりですっ」

 

 ぼくは、慌ててぺこりと頭を下げる。

 

「成己くん!」

 

 百井さんはセミロングの黒髪を揺らし、ぼくの真ん前まで来ると、にっこりした。

 

「久しぶりだねっ。そうだ、こないだも原稿の清書、ありがとう。すっごく助かってるよー!」

「ほ、本当ですか? 嬉しいです……!」

 

 褒められた嬉しさに、ぱっと頬が熱くなる。

 百井さんは、宏兄の――桜庭先生の担当さんやねん。もう五年の付き合いでね、宏兄の進捗がまずいと突撃して来てくれる、エネルギッシュな敏腕編集さん。

 百井さんがいてくれて、少しホッとした。さっきまでの、息が詰まるような緊張感が、すこし和らいでたから……

 

「百井さん、今日は打ち合わせだったんですか?」

「ううん、違うよ。近くに来ついでに、進捗を聞きに来ただけ。そしたら、先生から読み切りの提案があってねー」

 

 百井さんが顎で指したテーブルの上に、お土産と思しきフルーツゼリーがある。それと、原稿と資料。それを見て――ぼくのせいで、お仕事が中断しちゃったんやって気づいた。

 真っ青になったぼくに、宏兄が静かな声で言う。

 

「成。もう終わるから、少し待っててくれるか?」

「あ……はいっ」

 

 肩がビクッとするのを堪え、「気をつけ」の姿勢で頷く。

 

「ありがとう。――じゃあ、お茶でもいれるよ。百井さんはコーヒーでいいですか?」

「はい、ありがとうございます」

 

 元気よく百井さんが答える隣で、こくこくと頷く。宏兄は、茶葉を持ってくると言って、キッチンの奥へ姿を消した。

 ぼくは、ほっと息を吐き――百井さんに向き直る。

 

「百井さん、本当にごめんなさい……ぼく、大事なお仕事を遮ってしまって」

 

 頭を下げると、百井さんが驚いたように「えっ」と小さく叫ぶ。

 

「謝らないで! アポなし突撃したのは、私のほうですしっ」

「でも……」

「いいから、いいから。あんまり成己くんが気にすると、先生が哀れですし」

「えっ?」 


 どういうこと――目を丸くしていると、百井さんはくすっと笑みをこぼす。

 

「先生ね。電話に出たと思ったら、血相変えて飛び出してっちゃったんですよ。もう、脇目もふらず! て感じに。成己くんのためだったんだなーってわかって、納得です」

「……!」


 ぼくは、ひゅっと息を飲む。

 宏兄に、どれほど心配をかけたのか、気づかされて。

 

――……そうや。昨日のことを心配して……電話かけてくれたのに。


 宏兄は、ぼくがウソまでついて、一人で行ったって聞いて……どんな気持ちがしたんやろう。


――『心配なら、ずっとしてる』


 かああ、と顔が熱くなる。――恥ずかしくて。宏兄を傷つけておいて、へらへら出迎えた自分が、情けなかった。


「……百井さん、ありがとうございますっ」


 ぼくは百井さんに頭を下げると、宏兄を追った。






「宏兄……!」


 カウンターの奥の、小さな倉庫に飛び込む。宏兄は、大きな背を屈めて棚を物色してるみたいだった。


「ん?」


 小さな茶葉の缶を持って、振り返りかけた宏兄に飛びつく。腰で結ばれたエプロンのリボンを、ぎゅっと握りしめた。


「宏兄、ごめんなさい……!」

「成」

「ウソついて、はぐらかしてごめんなさい。ぼく……ちゃんとせなって思ったん。頼り過ぎて、呆れられるのが怖くて……」


 陽平に、「しっかりしろ」って言われて、傷ついた。

 蓑崎さんに「寄りかかり過ぎないで」って言われて、恥ずかしかった。

 やから……一人でちゃんとせな、あかんことなんやって。


「……」

「ほんとは怖かった……でも、どうしたらええかわからんくて……ごめんなさい、宏兄……」


 謝りに来たはずやのに、口からはしどろもどろに言い訳が飛び出して。焦れば焦るほど、嫌われたくないって思いが募って、ちゃんとできなくなる。

 ――瞼の裏に、夕焼けが見える。知らない街に、ぼくの影だけが伸びていた、あの日の……


「宏兄、きらわないで……」


 振り絞るように呟くと――指が痛むほど、リボンを握りしめた。

 すると……深い吐息が聞こえた。


「……は~」

「っ!……ごめ」


 弾かれたように、顔をあげたとき――優しく抱き寄せられた。

 いつもの穏やかなフェロモンに、全身を包まれる。ぼくは、「あ」と声を漏らした。


「馬鹿だな。俺がお前を嫌うわけない」

「ひろにい……」

「嫌えるわけないだろ」


 ぎゅっ、と背を抱かれる。

 その温かさに瞼が熱くなる。


――ありがとう、宏兄……


 ぼくは宏兄の優しい香りに包まれて、やっと安心できた気がした。


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