第21話

「……よしっ」 

 

 夕飯の後片づけを終わらせて、ぼくは密かに気合を入れる。

 今日も今日とて、蓑崎さんが遊びに来ているんやけど。いま、彼はお風呂に入ってるから、リビングにはぼくと陽平の二人だけ。

 

 ――ほんまは、蓑崎さんのおらん日に話したかったけど……ほしたら、いつになるかわからへんもんね。

 

 ぼくは、項に手を触れる。大切なことやから、早くに相談したい。

 せめて、寝室で話せたら良かったけど……陽平、ずっと蓑崎さんと話し込んでて。ベッドに入ったら、すぐに眠っちゃう。

 やから――相談するなら、いましかないっ。

 

「陽平、ちょっといい?」

「んー?」

 

 ぼくは、ソファに寛ぐ陽平にトコトコと近づいた。陽平は、本から目を上げずに返事をする。どうやら、桜庭先生の新刊に夢中らしい。

 ぼくは心を鬼にして、となりに腰かけると、投げ出された脹脛をポンと叩いた。

 

「だいじな話やから、ちょっと本置いて。こっち見て?」

「……なんだよ」

 

 陽平は、ムッと眉根を寄せたものの、横たえていた体を起こして、本をテーブルに置いてくれた。向かい合った顔に、ホッとする。紅茶色の目を見つめて、ぼくは話を切り出した。

 

「あのね、陽平……こないだから、ぼく、抑制剤やめたやんか。そのことで、気になることがあるん」


 そう――宏兄に話した「心当たり」は、抑制剤をやめたこと。 

 この前の診察のとき、中谷先生が「抑制剤を止めてもいい」って言ってくれたやん。陽平のご両親の希望もあって、あれからすぐに止めることになったんよ。

 陽平は、「ああ」と目を眇めた。


「そうだったな。で、何が気になんの」

「気持ち悪いとかは、無いんやけど。あの……フェロモンが強くなってるんちゃうかって、不安で……」

「はあ?」


 言いながら、頬が火照る。だって、フェロモンっていうのは……性的魅力と同義やから。のっぴきならへん事情とはいえ、自分で言うのは恥ずかしい。

 熱を持つ顔を俯けると、突然ぐいと肩を引き寄せられた。


「あっ!」


 頬に、柔らかい髪が当たる。ぼくの首筋に鼻先を埋めた陽平が、軽く息を吸い込んだ。――嗅がれているとわかって、頭からボン! と煙が出そうになる。


「ちょ、よっ陽平?!」

「……ふーん? べつに、大して変わんねえけどな」


 ぼくの動揺をよそに、陽平はのんきな口調で言う。ぼくは、熱った頬を手であおぎながら、きっと睨みつけた。


「そ、そりゃ……陽平は、毎日いっしょにおるから。でも、ほんまにおかしいの! やから……」

「気にしすぎだろ。第一お前、色気なんてガラじゃねーじゃん。ないない」

「……っ!」


 軽く笑って、本に手を伸ばす陽平。

 そんな魅力はないって言われた気がして、胸にグサリと痛みが走る。


――なにそれ……すっごい、怖かったのに!


 ぼくは、ついカッとなって、陽平の腕を掴む。


「気のせいちゃうもん。ほんまに、今日だって、変な人に絡まれて……怖かったんやから!」


 怒鳴ってから、我にかえる。


「……は?」


 静まりかえったリビングに、陽平の不機嫌そうな声が響いた。


「なんだそれ? どういうことだよ!」

「あ……」


 険のある声で訊ねられ、ぼくは狼狽えた。迫力に負けて、うまく答えられないでいると、肩を強く揺さぶられる。


「痛っ」

「言えよ、成己!」


 凄むように言われて、ぼくは辿々しく今日の経緯を説明した。本屋さんで、変な人に絡まれたこと。居合わせた宏兄に助けてもらったこと――


「それで……フェロモンが出てるんとちゃうかって、思って……また、こんなことがあったらって、怖くて」

「……」


 話してるうちに、不安がぶり返してくる。

 抑制剤を止めるのは、ずっと願ってたこと。でも、体の変化に戸惑うのも事実で……

 そう言うと、陽平がガシガシと髪をかき回す気配がした。


「……陽平?」


 だんっ!


 陽平は、自分の膝を拳で強く叩いた。荒っぽい仕草に、ひゅっと息を飲む。

 怖い顔でぼくを睨んで、陽平が怒鳴る。


「何やってんだよ、お前……! もっとしっかりしろよ!」

「えっ……」

「顔見知りの奴って。どうせ、お前のことだから、ヘラヘラしてたんだろ!?」

「……!?」


 あんまりな言い草に、ぼくは息を飲む。


「なんで、そんな怒るん? ほんまに怖かったのに……!」


 そんな言い方、ひどい。はっきり言い返したいのに、唇が痺れたようになって、うまく話せない。すると、陽平はいっそう声を尖らせる。


「ああそうかよ。で、俺にどうしろって?」

「……どうって……これからのこと、一緒に考えてほしくて……!」


 あんまり冷たい反応に、自分がすごいワガママを言っている気がして、しどろもどろになってまう。陽平が眉根を寄せて、口を開いたとき――


「成己、お前なぁ――」

「お風呂、お先にありがとー!」

「うわあっ!?」


 ひょこ、とソファの背もたれから、蓑崎さんが現れる。

 ぼくも陽平も、びっくりして飛び上がった。当の本人は、不思議そうに首を傾げている。


「あれ? どうしたの、この空気」

「晶! いきなり来てんじゃねーよっ」


 陽平が、わめく。蓑崎さんは悪びれず、けらけら笑い声を上げた。


「えー、いいじゃんか。ところで、なんの話してたわけ?」

「ああ……それは――」


 なんと、陽平は――止める間もなく、ぼくのことを話してしまった。


 ぼくの……恋人の、からだの悩みなのに!


 あまりのことに呆然としていると、蓑崎さんが「うーん」と唇に指を当て、唸った。


「なるほどねぇ、襲われかけたんだ。オメガあるあるだね」

「あるあるって、お前なぁ……」

「アルファのお前には解んないだろうけど、オメガには日常茶飯事だから」

「うっ」


 陽平の肩を叩いた蓑崎さんが、くるりと振り返る。


「ねえ、成己くん。つかぬことを聞くけど、香り止め、どんなの使ってる?」

「えっ、あの……センターから支給されるものを」


 質問の意図が読めないまま、答えると――蓑崎さんが苦笑した。


「あー、絶対にそれのせいだよ。成己くん、キツイこと言うけど……それじゃ、防犯意識足りないと思うな」

「……意識が、たりない?」


 ぼくは戸惑って、蓑崎さんを見た。彼は、仕方ない子を見るような目で、言葉を続ける。


「センターの香り止めって、効果弱いじゃん。本気で自衛するなら、未認可のクリーム使わなきゃ……まあ、効果強すぎて、肌荒れはするけど」


 そう言って、蓑崎さんは項を見せた。――真っ赤にかぶれて、痛々しい。ぼくは、思わず息を飲む。


「痛そう……大丈夫なんですか?」

「あはは、平気。慣れてるし、変な目で見られるより全然いいじゃん?」


 蓑崎さんは、さらりと笑う。陽平は、痛ましげに目を伏せた。


「お前また、自分ばっか無理して……」

「は? これくらいの自衛は、オメガとして当然だから」


 蓑崎さんの言葉に、ぼくは居た堪れなくなる。


――ぼくが悪いの? ぼくがちゃんと、出来てなかったってこと……?


 なにも言えんくて俯くと、陽平の呆れ声が降ってきた。


「お前な、晶を見習えよ。母親になるんだから、もうちょっとしっかりしてくれ」


 陽平の言葉が、ぐさりと胸を刺す。


「……ごめんなさい」


 項垂れていると――蓑崎さんが、にこやかに肩を叩いてくる。


「成己くん、オメガとして他人事でいちゃ駄目だよ。大丈夫。俺が色々、教えてあげるから」


 ……話さへんかったらよかった。

 そんな気持ちを堪えて、なんとか頷いた。


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