第182話 雨の日の良き思い出

「今日の天気は午後からところにより雨が降るでしょう」


 朝食後、いつも通りに仲良くコーヒーを飲みながら談笑している二人の耳に、リビングのテレビからニュースが届く。

 その内容に怜と桜彩は話を止めて画面の方へと視線を向ける。

 そこには本日の天気予報と天気図が表示されており、キャスターと気象予報士が本日の天気について話していた。

 どうやら午後からはあいにくの雨模様とのことだ。

 ふと外へと視線を向けるとベランダ越しには青空が見える。

 見た感じでは雨など降りそうにないのだが。


「そっか。今日は雨なんだ」


 テレビから顔を戻して桜彩がそう呟く。


「そうみたいだな。今のところは大丈夫そうだけど、念の為に傘を持っておいた方が良いかもしれないな」


「うん」


 怜の言葉に頷く桜彩。

 そしてふとその口元がふっ、と緩む。

 何か楽しい事でもあったのだろうか。


「どうかしたのか?」


 気になって聴いてみると、桜彩は怜に対して軽く微笑む。


「ううん。ただね、今日は雨なんだって聞いてちょっとね。クスッ」


「ちょっと?」


 雨と桜彩の気分が良くなるのとどのような関係があるのだろうか。

 そもそも雨が好きだと言う人は少ないだろう。

 例によって怜も雨はあまり好きではない。

 服は濡れるしじめじめとして蒸してくるし、なにより靴の中が濡れると最悪だ。

 ビショビショの状態の靴下のまま過ごすのは気持ちが悪い。

 そんな怜の思いを察したのか桜彩が苦笑して言葉を続ける。


「確かに私も雨は嫌なことが多いよ。髪が跳ねたりさ。だから前まで私も雨はそんなに好きじゃなかったんだけど、でも少し前に良いことがあったから」


「良いこと?」


「うんっ」


 怜の言葉に桜彩がニコニコとして怜の顔を見る。

 その表情に怜は疑問符を浮かべる。

 どうやら桜彩の良いことというのは自分にも関係があるようだが。


「ふふっ。怜、当ててみて?」


「クイズってことか。うーん……」


 首を捻りながら桜彩の言葉を考えてみる。

 前まで好きではなかったが少し前に良いことがあった。

 つまり雨その物に価値を見出したのではなく、雨に関して何か出来事があったと考えるべきだろう。

 そしてそれは怜も知っていることということだ。


(雨、か……。うーん…………)


 これまでの自分と桜彩の思い出を頭の中で思い返してみる。

 そんな風に悩む怜を桜彩は急かすでもなく期待に満ちた目で眺めている。


(そもそも桜彩と出会ってからの生活で雨天になったのは少ないよな。ってことは……)


 そこで怜は一つの出来事に思い当たる。

 桜彩との雨の思い出、いや、雨の日の思い出。

 まだ友達と呼べるか呼べないかという関係の中、二人の距離が縮まった大きな出来事。

 それは


「桜彩が初めて俺の部屋でご飯を食べた時か」


「うんっ! 大正解! 花丸!」


 怜の答えに桜彩が満面の笑みを浮かべて嬉しそうに喜んで手を叩く。

 大雨で買い物が出来ずに食べるものを買うことの出来なかった桜彩。

 途方に暮れて食事を摂ることさえ諦めていた桜彩を怜が食事に誘った。

 まあ当時の怜と桜彩の関係を考えると素直に食事に誘っても桜彩は頷かなかっただろう。

 そこは傍若無人に怜に夕食と寝床をたかりに来た瑠華に感謝すべきかもしれない。

 いや絶対に本人に対しては直接言うことはしないが。


「確かにな。あれは俺と桜彩にとって大きな出来事だったからな」


「うん。それ以前に一回、怜の作ったおかずを食べたことはあったけど、ちゃんと怜のご飯を食べたのはあの時が初めてだからね」


 昼食の席で蕾華に渡しただし巻き卵を蕾華が桜彩へとおすそ分けしたことがあったが、桜彩の言う通り一食分を食べたのはあの日が初めてだ。


「あの雨の日に、初めて怜の部屋に入った。初めて怜のご飯を食べた。そしてもっと仲良くなった。だから私にとって雨の日は大切な思い出がたくさんあるんだ」


 当時のことを思い出してはにかみながらそう桜彩が告げる。

 そのとても素敵な表情に怜は見とれそうになってしまう。

 それに気が付いて慌てて照れ隠しのように口を開く。


「で、でも確かにな。あの日はスーパーやコンビニに大きな影響が出るレベルの大豪雨だったからな。もしあの日に雨が降らなかったら俺達は今みたいな関係でいられなかったかも」


「うん。もしかしたら少しだけ仲の良いお隣さんから変わらなかったのかもね」


「それな……この生活を知ってしまった今としては、なんというか、嫌だな」


「うん。私も嫌だな」


 二人でしみじみとそう呟く。

 もしかしたらあったかもしれない未来。

 それを想像すると心が沈んでしまう。


「でも、だからこそ私は雨に感謝してるんだ。あの時、私を困らせてくれた雨に」


「そうだな。あの雨があったからこそ俺と桜彩が仲良くなれた。そういう考え方で言えば、確かにあれは恵みの雨だな」


「ふふっ、そうだね。雨が降って、私が傘を持っていなくて怜に傘を借りて、私がご飯を買えなくて、竜崎先生が困って怜のところへ押しかけて……そんな偶然の積み重ねがあったんだよね」


「そう考えると凄い偶然の積み重ねだよな」


「うんっ」


 そう言って二人で笑い合う。


(確かにな。そうやって考えれば雨も悪くはないか)


 今の桜彩との関係を運んでくれたのだから、それに比べれば服が濡れるとかじめじめと蒸すとか、靴の中がびしょびしょになるとか、その程度のことは些細なことだ。

 そんなことを思いながら、再びベランダの外へと視線を向ける。

 そこには雨など感じさせない青空が広がっていた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「そう言えばさ、あれから桜彩は傘を買ったのか?」


 あの時、傘を持っておらずエントランスに立ち往生していた桜彩のことを思いすと、ふと気になったことを聞いてみる。


「うん。一本だけね。だから今日はそれを持っていくよ」


「そっか。なら雨が降っても安心だな」


「うん。怜も傘を忘れないでね」


「それこそ安心してくれ。俺はちゃんとカバンに折りたたみ傘を入れているからな」


 そう言って側にあったカバンを開けて傘を取り出す。

 サイズとしては小さいが、予報によると今日は降ったとしてもそこまで大雨ということもなさそうなのでこれで充分だろう。


「折り畳みかあ。私も買おうかな」


「良いんじゃないか? 天気予報が外れた時なんかは役に立つからな」


 実際に昨年は午後からいきなり雲行きが変わったこともあったのだが、その際はこの折りたたみ傘が役に立ってくれた。

 天気予報が外れたことを呪い、雨に打たれながら帰ることを余儀なくされたクラスメイトを横目に少しばかり優越感を感じたものだ。

 その時のことを考えていると、ふと一つ思い当たることがある。


「そうだ。念の為にあの二人にも雨合羽を用意した方が良いって忠告しておくかな」


「蕾華さんと陸翔さんの事?」


「ああ。去年雨が降った時、二人共制服のまま自転車に乗る羽目になったからな」


 当時のことを思い出して桜彩に説明する。

 昨年突発的な雨が降った時は雨の中を走る羽目になってしまった。

 その為比較的学校から近い怜のアパートへと一時的に避難して、傘を借りて自分の家まで自転車を押して帰ったのだ。

 なお陸翔も蕾華も傘さし運転のような危険なことは絶対にやらない。


「というわけでメッセージを送っておくか」


 手に持った折りたたみ傘をテーブルの上に置いて、スマホを取り出して四人のグループにメッセージを打つ。


『今日は雨っぽいから雨合羽を忘れるなよ』


 するとすぐに桜彩を含めた三人分の既読が付く。


『分かった サンキュー』


『そーなんだ ありがと』


 陸翔と蕾華からの返信が届く。

 ついでに蕾華からは頭を下げながらありがとうと言っている猫のメッセージスタンプのおまけつきだ。


『ついでに瑠華さんにも教えといて』


 そう追記するとすぐに蕾華から了解のメッセージスタンプが届く。

 それだけ確認して怜はスマホをポケットへと片付けた。

 テレビの方は、天気予報はとうに終わって別のニュースを流している。

 リモコンでそれを消してから時計を確認する。


「さてと。それじゃあ片付けるか」


「うん、そうだね」


 まだ余裕はあるがそろそろ登校の準備をしても良いかもしれない。

 怜の言葉に桜彩も頷いて二人一気にコーヒーを飲み干す。

 そしてお揃いのカップをキッチンで洗った後に桜彩が一度自室へと戻る。


「それじゃあな。また十分後に」


「うん。十分後にね」


 それだけ言って桜彩が玄関から出て行く。

 怜も制服へと着替えて登校の準備を終わらせしばらくするとインターフォンが鳴った。


『怜。準備出来たよー』


「分かった。すぐ行くよ」


 それだけ言ってバッグを担いで玄関へと向かう。


「お待たせ」


「ううん。待ってないよ」


 そういう桜彩の片手には、先ほど言っていたように新品の傘が握られていた。

 それを見て怜も自室の鍵を取り出して玄関の施錠をする。

 鍵を仕舞う前に、いつも通りお揃いのキーホルダーを見て二人で微笑み合う。


「それじゃあ行くか」


「うんっ」


 どちらからともなく手を繋ぐ二人。

 エントランスまでの短い距離をゆっくりと並んで歩いて行く。

 二人の関係は一部を除いて秘密にしている為、ここで別れた後は下校時まで最低限の付き合いしかない。

 その為二人はこれでもかというくらい、この時間を大切にしている。


「それじゃあね、怜」


「ああ。また学校でな」


 エントランスにて多大な名残惜しさを感じながらも手を離して別れる二人。

 桜彩の前を、桜彩よりも少しばかり速い速度で怜は学園に向けて歩いて行く。

 何か足りない鞄を肩に掛けながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る