cp02 [大臣の憂鬱]③
出来上がった隙間から入室する人物を見て、蒼がゆっくりと立ち上がる。
「あ、有理子さん。どうでしたか?」
「キャリアがあると違うわね。飲み込みが早くて助かるわ」
静かに戸を閉めながら返答する有理子は、片腕に抱えていた書類を持ち直して二人に差し出した。その間にもお互いが距離を埋めてはいるが、未だ接触には至っていない。数秒後、やっとのことで有理子の手から書類を受け取った蒼は、表面だけを眺めて沢也に流す。書類の山から手だけを出して受け取った沢也が、ペラペラと内容を確認しはじめた。
「これでやっと民衆課が落ち着くな。メイドの手も増えたから、海羽の負担も減るだろ」
「そうね。ああ、メイドさん達は橘さんに任せてきたわよ?」
「問題ないだろ」
有理子は大きく伸びをして長テーブルに添えてあった椅子を引き寄せると、座りながら残りの書類を手元に呼び出す。
因みに橘さんとは、城の清掃や給仕を取り纏めるメイド長さんの名前だ。典型的な委員長タイプではあるが、おっとり型の海羽や面倒見のよい有理子とも不思議と馬が合う中年女性で、メイド関係のことは彼女に任せっきりにしてるとかなんとか。
「で、他は?」
「八雲さんに任せておけば大丈夫でしょ。っていうかあの人、蒼くんと同い歳なのね?」
「時田の従兄弟だそうだ。職場のことはとりあえず民衆課の奴等に任せるにしても、部屋の事なんかで不備がないかちゃんと聞いてきただろうな?」
「うん、今のところは大丈夫そう」
書面にサインして、有理子は手帳の確認に移った。
沢也が目を通した書類の一部に履歴書が挟まっている事からも窺える通り、彼女は時田の部下だった人達に、新しい職場となる厨房や民衆課の案内をして戻ったところだ。報告の合間、普段と変わらぬ笑みを浮かべる蒼の視線に気付いた有理子が、誤魔化すように余計な一言を付け加える。
「今度城下町も案内してくれって、八雲さんが」
「へえ。お前が案内すんのか?」
「そうよ?」
「珍しいですね。あなたが承諾なさるなんて」
「へ?そう?あ、それより蒼くん。明日のスケジュールなんだけど…」
素知らぬ顔で話を逸らす有理子に引っ張られ、肩竦めと一緒に退出した蒼の代わり。先程有理子が入ってきた扉から飛び込んできた、聞き慣れすぎて耳の痛くなるような声を聞きつけて、タイピングをはじめた沢也の口から小さなため息が落ちる。
部屋に入ってきた彼女は脇目もふらずに早足で沢也のデスクに近寄ると、捨てられた子犬よろしく彼の名を呼んだ。
「沢也ちゃーん」
「…なんでお前だけなんだよ」
「急な仕事入ったって、煙に巻かれてしまいました」
情けない声と共に項垂れた沙梨菜を無言の圧力で押し潰さんとする沢也を、帰還した蒼が背後から宥める。その声に反応して沢也の腕から離れた沙梨菜は、沢也の頭の先にある書類の間から蒼に向けて、自らの顔の前で両手を合わせて見せた。
「ごめんね、蒼ちゃん…ご期待に添えなくて」
「だから放っておけっつーのに」
「そうですか?いよいよ自棄になっていそうな雰囲気も漂っていますけど」
視線だけで問題の人物を示す蒼にため息を浴びせ、頭に擦り寄る沙梨菜の顔を押し退けた沢也は、ボリュームを落としつつも悪態を付く。
「余計な気苦労かけやがって。こっちはそれどころじゃねえっつーのに」
「バレていないと思っているんでしょうから、そう怒らないであげてくださいよ」
「バレねえわけねえだろ」
「まあ、よくよく考えればそうなんですけどね」
傾いた微笑が向いた先には古びたランプ。鬼に金棒とはこの事だろうと、笑顔の裏側で密かに思い直す蒼を尻目に、沙梨菜がこそこそと話を切り出した。
「ねえねえ、沢也ちゃん」
「用は済んだだろ?さっさと引っ込め」
「もぅ、せっかく沙梨菜がものすごーい解決案を…」
「どうせくだらねえ案だろうから聞きたくもねえ」
「まぁまぁ、そう言わずにぃ、ほら、沙梨菜が沢也ちゃんの部屋に住めば、沙梨菜の部屋を義希に…」
「却下」
「ええええええええ!」
止めの手が入らぬよう早口に捲し立てたにも関わらず、早々ぶったぎられて涙目の沙梨菜に、蒼の人差し指が回される。
「それについては残念ながら、すでに別の解決案があるんですよ」
「へ?そうなの?」
「っつーか、無理にでもあの馬鹿連れてくりゃ解決すんだろ?んなことよりさっさとルーティンワーク終わらせろ」
「ぶぅ。分かったよう…でもその代わりにぃ…」
「やって当然の仕事に代わりはねえ」
「うー」
コロコロと表情を変える沙梨菜と、眉根にシワを寄せたまま睨みを利かせ続ける沢也。向かい合う二人の様子に見かねたように、絶妙なタイミングで蒼の助け船が入った。
「そういえば、持ち込んだ私物をなんとかして欲しいって言ってましたよね?沢也くん」
「おま…」
「分かったよ沢也ちゃん!後で取りに行くから♪」
「来んな阿呆!」
颯爽と自室に繋がる扉に吸い込まれていく沙梨菜を、怒号の後にため息が追いかける。追い打ちとして舌まで打った沢也は、視界の端に映り込む蒼の微笑をも睨み付けた。
「余計なことでした?」
「分かっててやってんだから質悪い」
「ため息ばかり付いていると、幸せが逃げてしまうそうですよ?」
「元から持ってねえよ、そんなもん」
「まぁ、そういうことにしておきましょう」
「俺を弄ってる暇があんなら、一つでも多く判を押せ」
「いいじゃないですか。たまの気晴らしなんですから」
「本人を前にして言う言葉か」
「そもそも、沢也くんがそんな憂鬱そうな顔をしているのがいけないんですよ?」
何を言っても微塵も変化しない微笑に負けてか、俯いた沢也は表情を変えて蒼に向き直る。
「これで文句ねえだろ」
「逆に恐いです」
「ふざけんな」
沢也の製作した満面の笑みがひきつるのを見届けて、堪えていた笑いを誤魔化す為に書類に向き直った蒼は、判を押す手を早めるのとは裏腹に、ゆっくりと口にした。
「仕方がないですね。あなたが少しでも早く時田さんの喫茶店に足を運べるようにするためにも、きびきび働くことにしますか」
「んな満足気な顔で言われてもな」
「明日からまた鬱憤を貯めることになりますから、来週も宜しくお願いしますね?」
「来週までに解決することを祈るしかねえな」
止まらないため息に任せて吐き出した呟きは、彼等の右方向に流れていき、渦中の人物にたどり着く手前で消え失せる。隣の部屋で沢也と同じようにため息に溺れているであろう彼女を想像した蒼は、隣でまたもため息を吐いた沢也に向けて首を傾げた。
「解決させる気はないんですか?」
「生憎他人の世話してる暇なんてないんでな。特に、恋愛関連は」
「ろくなことにならないから、ですか?」
「分かってんなら、テメエもホドホドにしとけよ?」
呆れの混じった忠告に頷いて、蒼は自らの見解を口にする。尤も、彼も二人の詳しい事情までを理解している訳ではないのだが。
「大丈夫ですよ。あの二人が拗れたとしても、内輪だけの話で片が付きますから」
「お前がそう言うならそうなんだろうが…どのみちめんどくせえ事に変わりはねえな」
「面倒くさいで済ませられるということは、思いの外順風満帆ってことだと思いますよ?僕は」
「例えそうだとしても、だ」
もう何度目になるか。蒼は沢也が吐き出した深い深いため息に掻き消された言葉を拾い上げ、自分の口で声にする。
「憂鬱…ですか?」
優しい笑顔に曖昧な笑みを返した沢也は、答えを言わぬまま、ただただ小さく溜め息を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます