第13話
城崎は追い詰められていた。
状況を打開するため、起死回生の策であった市長の娘の誘拐を、あろうことかクルマに追いついてきたバケモノみたいなママチャリに阻止された。未だにあれが現実だったとは信じがたいが、失敗は事実である。シッターの仕込みに、兄貴分の指定暴力団フロント企業のコネをいくつも借りて、周到に計画したはずだったのに、無駄になった。
シッターにはもともと計画の中身を明かしておらず、自分の名前も伝わっていないため、そこから足が付く可能性は低かったが、兄貴分の顔に泥を塗ったことには間違いない。クルマは処分したとはいえ、住宅街の暴走と事故は目撃されたと考えるべきで、いまその線から捜査の手が及んでこないのは、いっそ不思議だったものの、おそらく時間の問題だろう。
失敗はしたが、警察が事故現場に来る前には逃亡できたのだし、いまのところ、こうしてまだ自由に動ける状態にある。この運を生かして、司直の手が伸びる前に、早急に次の手を打たねばならない。そうでなければ、待っているのは身の破滅である。
とはいえ、もう兄貴分のサポートは期待できない。これ以上の迷惑はかけられないし、あちらもそんな余裕はないはずだった。となると、駒が足りない。いま使えるのは、自分のところにいる高橋と元森だけだ。
高橋は頭は悪いが従順であるし、自分に恩義を感じるように誘導してきてあるから、まず裏切ったりはしないだろう。しかし、元森はもう少し知恵は回るものの、そこまで自分に忠誠心があるわけではない。このまま、自分の身がヤバいと思うようなら、とっとと行方をくらませてもおかしくなかった。そうなる前に、行動を起こす必要がある。
(だが、誘拐の失敗で、市長宅には制服警官の警護が入っちまった)
それをどうかいくぐって目的を果たすか。頼みの綱は、シッターを騙して世羅家に仕込ませた、盗聴器であった。盗聴器であることは明かさず渡してあり、まだ警察には発覚していない。いまも、世羅家の中の様子は受信機に伝わっていて、有用な情報がないか、高橋と元森が聞き続けている。
(もう、誘拐してから脅迫、なんぞと悠長なことをやっている暇はない。やるなら直接脅して、言うことを聞かせるよう考えないと)
そのためのチャンスが欲しかった。
「城崎さーん」
隣りの部屋から、元森が呼んだ。
「なんだ? いい情報あったか?」
「これ、使えそうっすよ」
ヘッドフォンをつけたまま、元森が一枚の手書きメモをひらひらさせた。
「見せろ」
城崎はその紙を手に取ると、じっと眺める。なるほど、これはチャンスだと考えた。
学校から帰った太郎の携帯端末に、ことりから連絡が入った。
「ん? なんだろう」
ことりと体育館裏で話をしたとき、教室へ戻る直前に、ちょっと待ってと相手が足を止めた。危うく背中にぶつかりそうになり、びっくりしたが、その場でことりがさっと書いて手渡された紙片にもっとびっくりした。
「わたしの連絡先」
ことりはにこっと笑って言った。
「交換しといたほうがいいよね。あとで穂村君のも教えてくれる?」
ことりのこういうところ、ほんとうに男前だなぁ、と太郎は感心しながら受け取った。その日のうちに、もらった連絡先へ自分のものも伝えたのだが、以降何かの連絡が入るのは初めてだった。
「次の日曜……亜佳音ちゃんの、誕生会?」
一緒に行かない? とのことりからの誘いである。
「……えっ?」
「……ほんとに、ぼくが行っていいのかな?」
日曜日、ことりと連れだって歩きながら、もう何度目になるかわからない問いを、それでも太郎は口にしてしまう。向かうはことりの伯父の家、つまり亜佳音の自宅で行われる誕生会であった。
「大丈夫!」
そのたびに、ことりはにこやかに請け合った。勢いに押し切られて誘いに乗り、結局こうしてついてきてしまったが、ことりの自信に満ちた顔を見ると、なぜか太郎は却って心配でたまらなくなる。普段はお互いに学校の制服姿しか見たことがなく、並んで歩くことりの、初めて見る私服もなんだかまぶしくて気後れしてしまう。
「亜佳音ちゃんだって、助けてくれたお兄ちゃんとの再会を待ち望んでいるわよ」
「……いや助けたのは内緒で」
「おっと、そうでした。でも、亜佳音ちゃんもクルマから出るまでは、穂村君の顔を見てないんでしょ?」
「う……ん、そのはずだけどなぁ」
太郎は亜佳音を助け出したときのことを思い出す。意識を取り戻したのはセダンの外へ出てからだったが、亜佳音がどこから覚えているのかは確かめようがない。そもそも、自分のことを亜佳音はほんとうに覚えているのだろうか。別れ際、バイバイに応えてくれたのはいいが、顔などとうに忘れられてしまっていないか。三歳の、いや今日から四歳の幼児が、一度会っただけの相手をそうしっかりと記憶できるものだろうか。「おにーちゃん、誰?」と首をかしげられたら。いやそれより泣き出されでもしたらどうしよう。亜佳音の家が近くなるにつれ、太郎はだんだん不安が強くなるのを感じていた。
いつになく落ち着かない太郎の様子を横目に、ことりはことりでずっと鼓動の高まりを抑えられなかった。
太郎の秘密を聞いてから、以前よりはかなり話のできる頻度が増えていたとはいえ、二人だけでじっくり話すような機会はなかった。教室へ戻る前に、思い切って連絡先を渡したのは我ながらよくやったと自分を褒めたいが、さりとていきなり立ち入った話をできるような仲になったわけではない。いろいろと力の秘密を聞き出したい、もっと詳しく知りたいと、密かにチャンスをうかがっていたのである。
そんなある日、亜佳音の誕生会が中止になったという話を、父の幸夫から聞いた。先の亜佳音の誘拐未遂を受けて、市長である伯父の武雄の家には、しばらく制服警官の警護が付くことになった。当初は亜佳音の幼稚園の友達とその親を数組招待し、庭でバーベキューパーティの誕生会を予定していたそうであるが、セキュリティの面から警備側に難色を示され、中止にせざるを得なくなったのだという。亜佳音は中止を聞いて大泣きしたそうだ。
かわいい従姉妹のがっかりぶりを聞いて、ことりは奮い立った。伯母の多佳子に、「じゃあ、私が行くから内輪だけで誕生会やろうよ!」と提案し、はじめは弟の海里を連れていくつもりだった。ところが、海里は当日の日曜に、友達と県庁所在地へ遊びに行く計画を既に立てており、同行を拒否されたのだ。
「あんたは亜佳音ちゃんがかわいそうじゃないの? 従姉妹の誕生日を祝ってあげようと思わないの?」
と弟に詰め寄ったが、海里は海里で、ずっと前から楽しみにしていた計画だったようで、主たる目的のメジャーなゲームイベントに合わせて日を選んでおり、絶対に譲れないと、久しぶりに姉弟で大げんかをしたのであった。
結局、海里から亜佳音への誕生日プレゼントとカードを預かっていく、ということで折り合いは付けたのだが、一人で行くのはなんとも寂しい。そこでことりに天啓のひらめきが訪れたのだ。
(穂村君誘えばいいんじゃない!)
すぐさま伯母に、自分の友達一人なら、
そうしていま、二人は並んで亜佳音の誕生会へ歩いて行くところなのだった。
太郎の手には、プレゼントの包みがある。
幼稚園児の女の子が何を喜ぶのかなど、妹も年下の従姉妹もいない太郎にはまったく想像ができなかったため、つい先ほど、ことりのアドバイスを受けながら、一緒に選んできたかわいいぬいぐるみであった。プレゼント選びの合間に、はじめはおそるおそる、次第にかなり遠慮なく、ことりは太郎の得た力について、根掘り葉掘り聞き出そうとした。とはいえ、太郎自身もさっぱり正体のわからない力であったゆえ、明確に答えられない質問も多かった。逆に、太郎の方が「なるほど、それは確かめておいた方がよさそうだ」と気づくような目の付け所もあって、訊かれながらも太郎に不快感はなかった。ただ質問の内容から、ことりが相当なアメコミのファンであろうということはよく判ったので、太郎としてもことりに対する理解がやや深まった気がする。
「前よりたくさん食べるようになったって言ってたよね」
ことりが太郎に訊いた。
「うん、そうだね。前が少なかったこともあるけど、たぶん三、四倍は食べてる気がする」
それでも実はまだ量は抑えていて、食べようと思えばもっと食べられる。もしかしたら大食い選手権のフードファイターになれるのでは、と思ったほどだ。
「好みとかは変わってないの?」
「好み? 食べるものの?」
「そう。前はあんまり食べなかったものも食べたくなるとか、肉と野菜ならどっちとか」
太郎はしばし考える。
「……変わってきてると思う」
「え、どんなふうに?」
太郎はここしばらくの食事内容を思い出していた。もともと好き嫌いはあまりない。というか、好きなものもとくにない。単に食べる量が少なかっただけであった。いまも、出てきたものはたいてい何でも食べられる。ただ、よりカロリーの高いものを欲するようになってきた気がする。効率的なエネルギー摂取を身体が要求している? しかし、糖質や脂質のみに限定して食べたくなるわけではなかったし、単純なカロリー重視でもなさそうだ。バランスを考えたうえで、ある程度高効率なエネルギー摂取といえば。
「アスリートっぽい嗜好になってるのかも?」
「……それ、穂村君にはちょっと意外な感じ」
「うーん、まあスポーツマンに見えないのは自覚してるよ」
女子バスケットボール部の主将でバリバリの運動部のことりに対して、自分がアスリートを名乗るのはおこがましかろう、と太郎は苦笑いした。
「いまからでも、どこか部活入ってみたら? すごい活躍できるんじゃないの?」
「うん? 例えば?」
「そうねぇ。チームプレーのところは難しくても、陸上部とかなら、けっこう行けるんじゃない?」
太郎は陸上部に入った自分を考える。
クルマを追い越すスピードで走れるのだ、中学記録の更新くらい何でもないだろう。それどころか世界記録だって容易に上回ってしまうに違いない。
「……手加減難しそう」
真面目に顔をしかめる太郎の肩を、ことりはくすくす笑って叩いた。
「冗談よぉ。走り高跳びで、棒高跳びより跳んじゃう中学生が出たら大事件ですって」
セダン跳び越え事件を言っているらしい。確かにあれは人前で跳んでよい高さではなかった。しかも自転車を背負ったままである。
そうこうしているうちに、二人は亜佳音の家に着いた。なるほど、たしかに先日の誘拐現場のすぐ近くである。
「……大きいんだね」
太郎が思わず感想をつぶやく。世羅市長の自宅は、ちょっとしたお屋敷といった構えであった。作りも重厚で古めかしく、最近の住宅の雰囲気ではない。
「ああ、亜佳音ちゃんのところは、世羅家の本宅だからねー。昔からの大きなお家だよ」
見慣れたことりは今更驚かないが、門前に制服警官が二人立っているのを見て眉をひそめた。
「入れてくれる、よね?」
「大丈夫と思うけど」
ここで門前払いされても困る。ことりは警官の一人に話しかけた。
「あの、亜佳音ちゃんの誕生会で来た従姉妹なんですけど」
「ああ、聞いてますよ。ちょっとお待ちください」
相手がまだ子どもであるためか、声をかけられた警官はさして緊張感も見せずに家の中へ連絡を取った。まもなく、玄関から多佳子が現れる。
「ことりちゃん、いらっしゃい!」
「こんにちは、伯母さん」
多佳子は嬉しそうにことりたちを招き入れたあと、太郎に視線を移してちょっと驚いた顔になった。
「あら男の子?」
「え?」
ことりもびっくりした声を出す。
「ううん、ことりちゃんがお友達っていうから、てっきり女の子を連れてくるのかと……」
そして多佳子はことりに向き直り、にまにまとした笑顔になる。
「そうかー、ことりちゃんも、もうそういうお年頃か-」
「え、ちょっと伯母さん?」
「そうよねー、中学生だもんねー。ボーイフレンドくらいできちゃう時期よねー」
途端に、ことりの顔が真っ赤に染まる。
「ボッ? あのいやあの、伯母さん?」
「これは幸夫さんも心穏やかじゃないわねー、うふふ」
いきなり、ことりの父の心境まで慮り始めた。
「伯母さん、ちがうの、これはね、あの……」
「いいのよー。伯母さん、むしろ嬉しいわ、ことりちゃんの成長が……」
だから言ったのに、と太郎は思った。ぼくが行っていいのか、と何度も尋ねたのは、二人きりで行けばそういう目で見られるんじゃないの? との意味も込めてのことだったが、ことりはそこまで考えていなかったようだ。さすがに「彼氏と間違えられちゃうのでは?」とは口にしにくくて言いそびれたが、はっきり訊いておけばよかったか。
「ちょっと前まで子どもだと思ってたのにねぇ。そうよねー、いつの間にか、こんなすらっとしてスタイルのいい美人さんですものね、そりゃ男の子が放っておかないわよねぇ」
「ま、まって、伯母さん、待ってってば!」
「ああ、亜佳音も年頃になったらこんな魅力的になってくれるかしらー」
わたわたすることりと、面白がって妄想を暴走させ続ける多佳子であったが、太郎のほうに目を戻した多佳子がふと真顔になった。
「あら、あなた……?」
(あ、気づかれた)
太郎は多佳子の表情の変化を感じ取る。
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