第5話 一応主人公です
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後方の入隅で息を潜めるようにじっと体育座りをしていた乃愛は、目の前の光景を成り行き任せに淡々と静観していた。
卒倒から意識を取り戻すと、程なくして頭痛が始まった。
少しでも痛みを和らげたくて人の邪魔にならない場所に移動した乃愛は、その場に座り込むとそっと瞼を下ろした。
こめかみを押さえて痛みに集中すれば、他にも体調に異変が起きていることに気づいた。
頭痛はしているが、これまでに感じたことがないほど頭が冴え渡っていて、身体も軽い。
相変わらず向けられる視線は気になるとはいえ、これだけ人が密集した場にいるのに自分が冷静でいられていることにまず驚いた。緊張感はまだ残っているのに、常にあった息苦しさや動悸を感じない。
そういえば、先ほどは咄嗟に会話もすることが出来ていた。
それは普段の乃愛からすると、信じられないほどの出来事のはずだった。
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乃愛は幼児期から抱えている吃音症に、ずっと悩まされていた。つい先ほどの会話をみるに、おそらくそれは今も変わっていないだろう。
人との会話で喋ろうとすると、喉に蓋がされているように声が詰まってしまい、自分の話したいタイミングで言葉が出て来なかったりするのだ。うまく言葉にできなかったり、早く喋ろうとしたときは吃音が出やすい。
長年に渡る家族の支えがあるおかげで、今では落ち着いてゆっくり喋れば、会話が不自然にはならない程度まで改善している。
どうしても、まだ喋り始めは言葉がつっかえてしまうことが多いが、家庭内ではもうほとんど症状は出ていない。
幼少期にこの吃りが原因で受けた心ない言葉や出来事をきっかけに、乃愛は人との会話を自然と避ける癖がついてしまっていた。
当時の記憶によるものなのか、同年代の人やクラスメイトは特に苦手だ。
まだ分別がついていないような、子供の頃だ。それが攻撃になっている自覚は、相手にはなかっただろう。ただ乃愛はそれで傷ついた。それだけだ。
嫌な思い出はいつまでも記憶に残ることがあるが、些細なことの積み重ねだったせいか、今ではもう細かい内容までは覚えていない。
人は防衛機制が働いて、辛い記憶は優先して忘れていくようになっているらしいが、その時の心境だけは、今も乃愛の中に取り残されたままだ。そのなかでも、特に裏切られたような気持ちだけは強く残っているせいで、いつ頃からか、他人を信じることが怖くなっていた。
トラウマというほどのものでもない。どれもよくあるような、何気ない日常の一コマばかりだ。
幼い頃に友達などから受けた傷心なんてものは誰でも持っているだろうし、いちいち気にしてその度に立ち止まっていたら何もできなくなる。大抵の人は時間と共に自然と心が癒えて、繰り返したその経験は、人として成熟するための糧となっていくのだろう。
乃愛は元々が内向的な性格だったことや、家族の理解があったことが合わさり、無理に人とコミュニケーションを取る必要を感じなかった。
徐々に他人には無関心になって口数も少なくなり、会話すること自体が強いストレスに感じるようになっていたころには、もうほとんど学校に通っていなかった。
ある時に乃愛の様子を見かねた両親が、学校へは毎日絶対に行かなくても良いと言ってくれた事があった。それで次第に気持ちが軽くなってからは少しずつ登校できるようになっていたが、勉強は自宅でもできたし、人との触れ合いは親類だけで充分満たされていたがために、特にまた何かあったわけでもなく、自然と学校からは遠のいてしまった。
つまるところ今の乃愛が出来上がった要因としては、それで問題のなかった恵まれた環境と惰性な性格に由るものなのだ。まだ親の庇護がある未成年のうちだから通用する甘えとも言えるだろう。
だがここで、さすがに両親も焦り始めた。
思春期が訪れるころには、ティーンエイジャーらしい青春に自然と憧れを抱くようになるだろうと、乃愛の成長に合わせた成り行きに任せていたのだ。
家族は今も変わらず乃愛のことを温かく見守っているのだが、本人はそれでとても満足してしまっていて、一向に外の社会と関わりたがらない。
このままでは成年後は大変辛い人生になりそうだとして、乃愛が中学三年生になったころに家族会議が何度も開かれた。この時に乃愛は初めて、自分が引きこもりであることを自覚した。
乃愛はギリギリまで進路を通信学校で推していたが、自分の将来がかかっている事だと思い直し、結局は近所にある適当な高校に勇を鼓して通うことにした。
だからといって、いきなり毎日は通えるはずもない。
高校からは留年という可能性があるため出席率には気をつけていたが、クラスメイトからは気まぐれのような通い方に見えたことだろう。
中学までは教室にいることが滅多になかったためか、幸いなことに所謂いじめというものに乃愛はこれまで遭ったことがない。耐えられるかどうかはともかく覚悟はしていたが、クラスに恵まれたのかまだそのような雰囲気は感じない。皆大人の対応をしてくれているようにもみえる。
ただ挨拶をしただけで毎度ビクビクと怯える乃愛の方が失礼で、むしろ嫌なやつにみえているのではないかと思うくらいだ。
教室にいると、遠巻きに見守られているように感じることがあるので病弱なのだとでも思われていそうだが、クラスメイトに乃愛のことがどのように見えているか実際のところは分からない。
何をされるわけではなくとも、気遣われているような視線は針の筵だ。
これまでまともに学校に行かなかった弊害が、早くも顕れていた。
思えば初日から高校デビューには失敗していた。入学当日から欠席してしまったのだ。
入学式の後にはオリエンテーションという、乃愛にとっていきなり難易度の高い試練があった。間近に迫った数日間はそれについて考えすぎていて、まんじりともしない夜が続いていた。そのせいなのか前夜には高熱が出ていて、そのまま体調を崩してしまった。
自業自得だけれども、決して出不精の仮病とかではなかった。
その翌々日から登校したときは、あまりの居心地の悪さに難行苦行たる心持ちだった。
皆早くも打ち解けあったとでもいうのか、教室内は和気藹々とした空気が既に出来上がっていた。そこにお初の顔の乃愛がスッと入っていく。
クラスメイトからしたら、いつの間にか知らない人物が教室に紛れ込んでいたのだ。吹けば飛ぶような貧相な姿は存在感も無かったのだろう。乃愛はただ自席を探して教室を少し彷徨いていただけだったのだが、通りがかりに目が合った相手に小さく悲鳴を上げられた。あの幽霊でも見たかのような顔つきは、いまだ忘れられない。そういえばあれは新田だった。
その日から乃愛は身の置き所をなくしてしまい、息を潜めてやり過ごす日を繰り返すことで無念無想の境地に至らんと通学している。
これでは何のためにわざわざこの学校に入学したのか分からない。
未だまともにクラスメイトと会話をした記憶がないので、話すとしたらまずは自己紹介から始めないといけないだろう。
まさか今の状況でそんなことに思い悩んでいる人間がいるとは誰も思うまい。
目の前に広がる光景は混沌としていて、カーニバル状態になっている。
なんだか皆んなすごく仲が良さそう。
乃愛は輪に入れずポツンと隅で座り込み続けながら、再び別の思考の渦に埋もれていった。
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