05 フェンリル……?
「この森の王である、このフェンリルに無礼を働く輩は誰だ」
巨大な狼、改めフェンリルはどうやらご立腹の様子。
何をそんなにキレているのだろうか?
たかが食べた後の木の実が頭に落ちてきただけだろう、と一瞬考えたが自分もつい数時間前に似たようなことでキレていたので言える立場ではなかった。
フェンリルは自分の事を凝視している。
熱い視線なのか、冷たい視線なのか、どちらかなのは分からないが、どちらにせよ細菌よろしく滅菌されるが如く、殺されてしまいそうな状況だというのは理解できているとも。
だが、こうした時の対処法というのは心得ている。
昔熊に会ったら、目を合わせず、ゆっくりと立ち去ることで、熊は警戒して逃げたり、その場かあら離れてくれるってテレビで言ってた。
いや、待て。
これは普通の熊と遭遇していた時の話だ。
ご立腹な獣相手に使える手段とは思えない。
では急所にめがけて一撃与えて、怯んでいるところを全力疾走で逃げる、というのはどうだろうか。
生き物、特に犬とか猫科の動物は穴に神経が集中していると聞いたような気がする。
なら鼻目掛けてパンチを浴びせてやるぜ。
そう思って顔を上げたが、一つこれには問題があった。
鼻が家の二階くらい高いところにある、という事だった。
た、高けえ‼
というかデケエ‼
改めて見ると化け物だな。
こんなの、もし怯ませて逃げたとしても数歩で追いつかれて「パクッ」で終わる。
いや、ちょっと待て。
もう一度よく考えろ。
そもそもこの狼は普通に喋っている。
つまり、対話ができるということだ。
現にさっき、自分はこのフェンリルという生き物に「フェンリルと知ってての狼藉か?」みたいなことを言われたじゃないか。狼だけに。
ということはだ、
だがコミュニケーションが取れるということは、人と同じようなものじゃないか。
つまりボクは今、己の人間性を試されている。
今回の場合、非はこちらにある。
なら、やることは一つ。
だが、普通のじゃ駄目だ。
ここでするのは、ボクがこれまで使ったことのない奥義とも呼べるアレを繰り出さなくちゃいけない。
これを使ったら、何か大切なものを失うかもしれない。
この技が効かず、死ぬかもしれない。
けれど…それでも……大人には、いや男にはやらなくちゃいけない時がある!!
「この度は、大変申し訳ございませんでしたああああああああ!!」
土下座である。
謝罪の最上級。
初めてやるし、他の人がやっているのも見たことがない。
勢い良く頭を打ち付けたせいで、眩暈がする。
今思い返すと、この時自分は相当パニックになっていたのだと思う。
この世には二つの土下座がある。
一つはお偉いさんなどががよくやらかしたときに見せる土下座だ。文字通り、他者から求められてせざるを得ない、敗者の土下座だ。
しかし、それとは対の土下座というのも存在する。
それが攻めの土下座だ。
この土下座は、したもん勝ちの最強のカウンター技だ。「自分は土下座までしました。これ以上何をしたら良いんですか?」といった具合に相手に開き直る。
やられた側はそれ以上要求することは出来ないし、その場を治めなければいけない。
その上、治め方によってはそいつ自身の品格も試されるという奥の手、奥義……らしい。
当時六股していた部長から教えてもらったものだ。
この技の懸念点として情報のソースが部長なため、真偽は分からないという点にあるが、これが本当であれば効くはずだ。
勝手なイメージだがフェンリルというのは森の主で偉そう、という印象がある。
本人も森の王とか言っていたのだから、きっと寛大な心も持っているに違いない。
なかったら死ぬだけだ。
周りに姿を隠しながらも興味本位で集まってくる動物たち。
そんな中、果たしてフェンリルはどんな反応を見せているのか、ちらりと顔を上げて見る。
「人間初めて見た、怖っ。なんで急に大声上げてるの、怖っ」
そこには、動揺を隠せない森の主の姿があった。
動揺しすぎてもはやビビっているじゃないかというレベルだった。
どうやら、自分が想定とは違う反応をされて困惑しているようだ。
「げふん、げふん。あー、取り乱した。に、人間。どうやら分をわきまえているようだな」
「ははッ!!」
「何故我が怒っているかの理解、できているのだろうな」
「はい、人間如き分際で崇高なる存在であるフェンリル様に失礼を働いてしまいました」
「どうやら分かっているようだな。……しかしそんなに人間を無下にしなくても良いと思うぞ。オレ……じゃなくて我は結構人間好きだからな。あー、何の話だったか」
反応からしてかなり困っていると見える。
これは効果があるという事の証拠だ。
あともうひと踏ん張り、いってみるか。
「ありがたきお言葉。しかし、そんな人間を好いてくださるフェンリル様に私はなんて失礼なことを……自分が出来る事なら何でも致します。肉球の隅々まで舐めます。ですのでどうか命だけはご勘弁くださいいいいいいい‼」
「そんなに畏まらまくても良いんだぞ!」
「……足では満足しませんか」
「いや、いやいやいやいやいや、そんなことしなくて良いよ。貴様の気持ちは分かった。分かったから、もう面を上げてもよいぞ。貴様の心意気はしかと受け取ったからな。他の動物も見ているし、お前ももうその醜態を晒す必要はない」
「いえ、フェンリル様に対して働いた無礼を考えれば、この態勢を崩すなんて考えられません」
「いや、だから顔を上げて良いって言っているのだが」
「いえいえ、そんなことを言われましても遠慮なさらず」
「遠慮ってなんだよ。土下座に遠慮もクソもないだろ」
「お気遣いなさらず、醜態を晒すのは罰みたいなものですので」
「すまん、言い方が悪かった。お願いだから、顔を上げてくれ。大の大人が土下座しているのを見るとこっちが恥ずかしくなる」
「……」
「なんで黙ってるんだよ! 分かった、謝るから。オレが悪かった。しょうもないことでキレたオレが悪かったから。だから顔を上げてくれよ、頼むからさあ!」
攻めすぎてしまっただろうか。
気づけばフェンリルの頭はボクが手を伸ばしたら届くほどまで下がってきていた。
「そこまで言うなら、頭を上げるますけど」
「土下座される絵面って、もはや暴力的なんだって初めて知ったよ。許すのを強要されてるみたいで」
凄いナヨナヨした声。こっちもなんだか申し訳なくなってくるな。
多くの人間は自分の尊厳を出来るだけ守りながら妥協案を提示してくるんだが、逆に謝ってしまうこのフェンリルは、よほど良い奴なのだろう。
「にしても、急に口調が砕けるな。ここまで来るとキャラ崩壊も良いところだ」
「アンタも急に口調が砕けるじゃないか、さっきの絶対わざとやってただろう?」
「本気だったさ、途中まではね。しかしこうも砕けるという事は、さては猫ならぬ犬改めフェンリルを被っていたのか、フェンリル様は」
「元々そんなキャラじゃないんだ。『我はフェンリル、山を守護するものなり』なんて母様か兄上しか言わないから。異世界ものじゃ、フェンリルってこういう感じのキャラだろう? 人前ではしっかり演じてみようかなって。でも、慣れないことはやるもんじゃないな」
「確かにそうだけど、もう少し頑張っても良かったんじゃないか? こんなに早くに本性ばらしちゃうフェンリルなんて、早々いないぜ。これまで色んなフェンリルがいたと思うが、キャラが崩れる速さはトップ狙えるんじゃないか?」
「それでトップを狙ってるやつはいないと思う」
その称号は名誉か不名誉でいえば後者だろうからな。
……ん?
自然に会話をしてきたけれど、少しおかしな場面がなかったか?
場面、もっと正確に言えば、言葉。
『異世界ものじゃ、フェンリルってこういう感じのキャラだろう?』
「『異世界ものじゃ』どうのこうのって、さっき言ってたけど不自然じゃないか?」
「不自然って急に何だ?」
「だってあの言い草はこの世界を異世界だと認識している奴の言葉だ。そんな事が言えるのはボクと同じように別の世界から来た人間じゃないと、あり得ない」
だが、あり得るのか。
ボク以外に不法投棄された人間がいるなんて。
けれどここで、犬上の言葉を思い出した。
『それについては当てがある。だからこうして向かっている。前例があるんだ。異世界からの来訪者を受け入れた前例が』
「まさか、おっさん。あんた、もしかして……」
「おい、まさかフェンリル。お前……」
「異世不法投棄されたのか!?」
「異世界転生したのか!?」
「え? 異世界転生?」
「え? 異世界不法投棄?」
◆ ◆ ◆
オレは人間だ。いや、だった。過去の話だ。
ただの普通の高校生だった。
これと言って特徴はなく、かと言って語ることがないというほど、何もないというわけでもない。
ただの普通の高校生だ。
年相応に遊んで、年相応に勉学に励み、年相応に馬鹿をした。友達も……まあ、それなりに、いたと思う。
そんなある日、習慣である体づくりのランニングに勤しんでいるときのことだった。
「ヤバい。遅刻だ、遅刻」
遅刻という鍛錬に没頭していたオレは、トラックが走っているのに気づかず、飛び出してしまったんだ。その後の記憶はあんまり覚えていない。
次に目を覚ました時、痛みはなかった。
けれど視界は真っ白で、何も見えなかった。
そんな時、声がしたんだ。
『あなたはこの世界においてのカウンター。自らの責務を全うするように』
その声がした後は、また意識が落ちていって……。
◆ ◆ ◆
「それで次に目を覚ますとフェンリルだったってことか」
「そういう事。体ばっかり成長するけど、中身ただの高校生だからね。他の猛獣とか普通に怖いから。フェンリルだから早々襲われることはないにしても、道端で熊とかに会ったら普通に心臓止まるから」
熊からすれば、そっちの方が恐ろしいと思うのだけれど。
にしても、転生か。
ボクと違って異世界の方から招かれてこの世界に来た、と考えれば良いのだろうか。
それを証拠にこの世界特有の生物に転生している。
「しっかし、異世界に不法投棄って災難だったな、おっさんも。しかも落ちてきたのがこんな森の中じゃ、下手したら死んでたな。獣に食われて」
「ははは、ホントだな」
乾いた笑いは口の中がカピカピだからか、まだ緊張が解けてないかのどっちかだろうな。
正直な話をすると、ボクとしてはまだ目の前にいるフェンリルが襲ってくる可能性があるんだけどな。変に指摘して、「じゃあ食べちゃおっかな」みたいな流れになったら最悪だ。
しかしフェンリルの人懐っこい顔を見たら、なんだかそんなことを考えるのがばからしくなってしまう。
それくらいに感情が体に出ていた。
具体的には尻尾に。
すげー尻尾振ってる。中身高校生じゃなかったらモフってたところだぜ。
「けど、転生して初めて会った人が、まさか同郷の人間だったなんて驚きだ」
「初めてって、会ったことないのか? 他の人間と。一度も?」
「生まれてからここ一〇〇年ちょっと、ずっと山奥で生活してきたからね。最近になってやっと山から下りてきたんだ」
「ひゃ、一〇〇年?! おいおい嘘だろ、ボクよりも年上なのかよ。てっきり年下だと思ってラフに接してしまった」
「年齢なんて飾りさ。この体になって一〇〇年が体感五年くらいだ。人の成長っていうのは何年生きたかじゃなくて、生きてる内に何を積み重ねてきたかだとオレは思うぜ」
遠い目をしながらその発言はもう貫禄が出てるんですよ、フェンリルさん。
しかしフェンリル様改めフェンリル君がそう言っても、やはり一〇〇年生きているというのは大きい。
それだけでもこの世界の事情に詳しいはずだ。
もしかしたら、この森の出る方法や人が住む町なんかも知っているのかもしれない。
「一〇〇年も生きているってことはこの辺の地理も詳しいのか」
「そりゃあ、大雑把になら憶えているぞ」
「じゃあ、近くの村とか町も分ったりするのか?」
「そりゃ勿論。この森を東にまっすぐ行くと町がある。オレもそこに用があって山から出てきたんだ」
「つまり行先は同じってことだよな。なら、ボクと一緒に行ってはくれまいか? まだ、この世界に来たばかりで不慣れなんだ。用心棒になってもらうとすごい助かるんだが」
「そんな水臭いこと言わないでくれよ、おっさん。同郷の仲だろ? もう友達みたいなもんじゃないか。オレはフェリー。フェリー・フール・ガムダリル。旧名は
「ボクは……シスイだ。好きに呼んでくれ」
「じゃあ、シスイのおっさん。これからよろしくな」
「おう、よろしく」
フェリー君が差し出してきた巨大な肉球を握り、握手をする。
これがボクと相棒フェリーとの出会いだった。
◆ ◆ ◆
良い天気だ。
鳥はさえずり、花は風に揺れ、川はせせらぐ。
新たに出会ったフェンリルのフェリーと共に、楽しくのんびりと森の中を進んでいく。
はずだった。
はずだったのだが———
「うおおおおおおおおおおおおおおおーーーー‼」
「ふおおおおおおおおおおおおおおおーーーー‼」
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――――――!!
何故か巨大な亀のモンスターに襲われていた。
一体何がどうなってこうなったというのか。
全くもってさっぱり分からん。
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